灰被りの街で、猫は九度泣く   作:バスケ部キャプテン

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老女の家

 俺は母親の後ろを歩く。

 

 夕焼けがビルの窓に反射して、赤い光が路面に落ちている。風が少し出てきた。俺のひげが震える。夜が来る。

 

 母親はときどき振り返る。俺がついてきているか確認している。

 

「もう少しだからね」

 

 そういう声を出す。ユイと同じ柔らかい声だ。でももっと低い。煙草のせいだろう。匂いでわかる。

 

 俺は尻尾を立てて、ゆっくり歩く。

 

 右の前足がまだ痛む。昨夜の男を噛んだとき、壁に叩きつけられた傷だ。たいしたことじゃないけど、歩く速度が落ちる。

 

 母親はそれに気づいて、歩調を合わせてくれた。

 

 十五分ほど歩いた。

 

 見覚えのあるアパートに着く。さっき来た場所だ。二階建て。一階の端の部屋。表札に「サトウ」と書いてある。

 

 母親がドアを開ける。

 

 玄関の明かりが漏れて、俺の目を刺す。俺は一歩、下がった。

 

「大丈夫、入って」

 

 母親はしゃがんで、俺に手を差し伸べる。

 

 俺はその手の匂いを嗅ぐ。

 

 台所の匂いだ。醤油と、油と、それから石鹸の匂い。手を何度も洗う人間の匂いだ。悪い匂いじゃない。

 

 俺はゆっくりと、玄関の中に足を踏み入れた。

 

 ◆◆◆

 

「ねこちゃんだ!」

 

 ユイの声だ。

 

 廊下の奥から、ユイが走ってくる。裸足だ。コートはもう脱いでいる。膝には大きな絆創膏が貼ってある。

 

「ねこちゃん、きたの! ねこちゃん!」

 

 ユイは俺の前にしゃがみ込んで、手を伸ばす。

 

 今度は俺も逃げなかった。

 

 ユイの手が俺の頭を撫でる。冷たい手じゃない。温かい。部屋の中にいたからだ。

 

「ユイ、その猫さん、足を怪我してるみたい。あんまり強く触らないで」

 

 母親が靴を脱ぎながら言う。

 

「けが? どこ?」

 

 ユイが俺の足を見る。俺は右前足を少し浮かせている。

 

「いたいの?」

 

 ユイの顔が曇る。泣きそうな顔だ。

 

 俺はその顔を見て、前足を床につけた。たいしたことじゃないと伝えるために。

 

 そして喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 ユイは笑った。

 

「ねこちゃん、のど、なってる!」

 

 母親も笑っている。

 

「よかった。さあ、上がって」

 

 ◆◆◆

 

 部屋の中は狭い。

 

 六畳の和室と、小さな台所。それだけだ。でもきれいに片付いている。物が少ない。人間の家はたいていもっと散らかっているが、ここは違う。

 

 窓にカーテンがかかっている。ベージュ色。日が差し込んで、部屋がオレンジ色に染まっている。

 

 テレビの上に写真が飾ってある。ユイと母親。それから男。父親だろうか。でもその写真は少し古い。ほこりが積もっていないから、毎日拭いているんだろう。

 

 俺は部屋の隅から隅まで匂いを嗅ぐ。

 

 タバコの匂い。でも換気扇を回しているから、部屋の中はそれほどきつくない。むしろ、母親の匂いが強い。ユイの匂いも。それから、もう一つ。

 

 猫の匂いだ。

 

 俺は耳を立てる。

 

「あ、気づいた?」

 

 母親が台所から声をかける。

 

「うち、前も猫を飼ってたの。ミケっていう三毛猫。三年前に死んじゃったけど」

 

 なるほど。猫を飼っていた家は、匂いが残る。柱に爪の跡もある。畳の隅が少しほつれている。猫が研いだ跡だ。

 

 俺はその柱に近づき、匂いを嗅ぐ。

 

 ミケ。メス。去勢していない。十五歳まで生きた。肝臓が弱かった。最後は眠るように死んだ。

 

 匂いでそれだけわかる。

 

「ミケのもの、まだ取ってあるんだ。よかったら使って」

 

 母親が押し入れから古い猫用ベッドを取り出した。ピンクのクッション。ボロボロだけど、ミケの匂いが染みついている。

 

 俺は用心しながら近づく。

 

 クッションに鼻をつける。

 

 悪くない。

 

 かつてここにいた猫は、いい猫だった。匂いでわかる。穏やかで、人間に愛されていた。苦しんだ記憶がない。

 

 俺はクッションの上に座る。

 

 ユイが拍手した。

 

「ねこちゃん、すわった!」

 

「気に入ってくれたみたいね」

 

 母親が嬉しそうに言う。

 

 俺はクッションの感触を肉球で確かめる。古くてくたびれているけど、悪くない。老女の膝の上を思い出す。

 

 昔、俺もこういうクッションの上で寝ていた。

 

 ずっと昔の話だ。

 

 ◆◆◆

 

 夜になった。

 

 母親が台所で何かを作っている。包丁の音。油の跳ねる音。それから醤油の焦げる匂い。

 

 いい匂いだ。

 

 俺は台所の入口に座って、じっと見る。

 

「あら、お腹すいた?」

 

 母親が振り返る。

 

 すいた。とてもすいている。さっきのツナ缶だけじゃ足りない。

 

 でも俺は鳴かない。鳴いてねだるのはガラじゃない。

 

 代わりに、尻尾をゆっくり振る。

 

「ちょっと待ってね。今、用意するから」

 

 母親は冷蔵庫から小さいパックを取り出した。病院でもらうような白い包みだ。

 

「ユイを病院に連れて行ったとき、先生に聞いたんだ。猫には何をあげればいいかって。ささみを茹でたものなら大丈夫だって」

 

 ささみだ。

 

 俺の鼻がぴくぴく動く。茹でた鶏の匂い。脂肪が少なくて、消化にいい。若い頃、老女がよく作ってくれたのと同じだ。

 

 母親はささみを細かくほぐして、小皿に盛った。

 

「はい、どうぞ」

 

 俺は皿に近づく。

 

 熱くない。ちょうどいい。

 

 俺は食べ始める。

 

 うまい。

 

 ツナ缶もうまかったが、こっちはもっといい。変な味がしない。塩も入っていない。純粋な鶏の味だ。

 

 俺は夢中で食べる。

 

「ねこちゃん、おいしそう」

 

 ユイが隣に座って、にこにこ見ている。

 

 俺は全部平らげた。

 

 腹がいっぱいになるのは久しぶりだ。ゴミ置き場の生ゴミじゃなく、ちゃんとしたメシ。人間が俺のために用意したメシ。

 

「食器はミケのを使ったの。よかった」

 

 母親が空の皿を下げる。

 

 俺は口の周りを舐める。それから前足で顔を洗う。

 

 食後の手入れは大事だ。

 

 ◆◆◆

 

 しばらくして、風呂の時間になった。

 

 母親がユイを連れて、洗面所に行く。水の音がする。ユイの笑い声が聞こえる。

 

 俺は居間のクッションの上で丸くなる。

 

 まだここにいていいのか、少し迷っている。

 

 でも、腹は満ちている。外は寒い。クッションは温かい。

 

 今はここにいよう。

 

 そのとき、電話が鳴った。

 

 固定電話だ。テレビの横の黒い機械が、ジリリリと音を立てる。

 

 風呂の中の母親が出られない。

 

 電話は十回鳴って、留守番電話に切り替わった。

 

 無機質な機械音のあと、男の声が流れる。

 

「サトウさん、俺です。田中です。今日も連絡しました。そろそろ返事をいただけませんか。このままだと、来月には立ち退いてもらうことになります。いい加減に──」

 

 ブツッ。留守番電話が切れた。

 

 俺は耳を立てたまま、じっとしていた。

 

 立ち退き。

 

 人間の言葉はほとんどわからない。でも、あの声の調子は知っている。脅しているときの声だ。野良猫同士の威嚇と同じだ。

 

 風呂から母親が出てきた。

 

 留守番電話のランプが点滅しているのを見て、母親の顔が曇る。

 

「またか」

 

 母親は小さくため息をついて、ランプを消した。

 

 ユイはタオルで頭を拭きながら、不思議そうに母親を見ている。

 

「かあさん、だれから?」

 

「なんでもないよ。さあ、髪を乾かそう」

 

 母親は笑顔を作った。

 

 でも匂いが違う。緊張の匂いが混ざっている。汗の匂いとは別の、不安の匂いだ。

 

 俺はそれを感じ取る。

 

 この家には何かある。

 

 でも今は、何もできない。

 

 俺はクッションの上で、もう一度丸くなる。

 

 ◆◆◆

 

 夜が更けた。

 

 ユイが寝る時間だ。母親が布団を敷く。二組の布団。母親とユイが隣同士で寝る。

 

「ねこちゃんもいっしょにねよう」

 

 ユイが俺を布団に誘う。

 

 俺は迷った。

 

 人間と寝るのは好きじゃない。寝てる間に何をされるかわからない。昔、酔っ払いに蹴られたことがある。それ以来、人間の寝床には入らない。

 

 でも、ユイの顔を見る。

 

 昨夜、震えながら俺にしがみついてきた顔。あの顔が浮かぶ。

 

 俺はゆっくりと布団に近づく。

 

 ユイの枕元で、丸くなった。

 

「あったかい」

 

 ユイは嬉しそうに目を閉じる。

 

 母親が電気を消した。部屋が暗くなる。でも俺の目にはよく見える。

 

 ユイの寝顔。母親の背中。窓の外の街灯。

 

 俺は耳を澄ます。

 

 冷蔵庫の音。隣の部屋のテレビの音。遠くの車の音。

 

 それから、母親の小さなため息。

 

 眠れていない。

 

 俺は静かに立ち上がり、母親の布団のほうへ歩く。

 

 母親は目を開けた。

 

「どうしたの?」

 

 俺は母親の枕元に座る。そして喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 ゴロゴロ。

 

 母親は少し驚いた顔をした。それから、そっと俺の頭を撫でた。

 

「あなた、何かわかってるの?」

 

 わかっていない。

 

 でも、何かあることはわかる。

 

 俺はただ、喉を鳴らし続ける。

 

 母親はしばらく俺を撫でていた。それから、小さく「ありがとう」と言って、目を閉じた。

 

 しばらくして、母親の寝息が規則的になる。

 

 眠ったようだ。

 

 俺は自分のクッションに戻った。

 

 ユイも母親も、今は寝ている。

 

 俺は起きている。

 

 何かが起こるなら、俺が気づく。

 

 それが俺の仕事だ。

 

 ◆◆◆

 

 深夜、物音がした。

 

 外だ。

 

 俺は目を開ける。耳を立てる。

 

 足音。一人。男。靴の音が重い。

 

 玄関の前で立ち止まる。

 

 俺はクッションから飛び降りて、玄関に向かう。

 

 ドアの向こうに、何かが置かれる音。

 

 それから、足音は遠ざかっていった。

 

 俺はドアの前でじっとしている。

 

 ドアの下の隙間から、外の空気が入ってくる。

 

 男の匂い。煙草と酒。それと、何かの薬品の匂い。

 

 印刷屋の匂いだ。インクと紙と機械油。

 

 俺は唸りそうになるのを抑える。

 

 危険かどうかはまだわからない。でも、いい匂いじゃない。

 

 朝まで待つ。

 

 朝になって、母親が気づくだろう。

 

 俺は玄関の前に座り続けた。

 

 外は静かだ。月が出ている。明け方まであと少し。

 

 ◆◆◆

 

 朝になった。

 

 母親が最初に起きて、玄関に向かう。

 

「なにこれ」

 

 ドアを開けた母親の声が聞こえる。

 

 俺は母親の後ろから外を見る。

 

 玄関の前に、白い封筒が置いてある。その上に小さい石が乗せてある。風で飛ばないようにだ。

 

 母親は封筒を開けて、中身を読む。

 

 顔色が変わる。

 

 青ざめる。手が震えている。

 

「かあさん?」

 

 ユイが起きてきた。寝ぼけた顔で、母親を見上げている。

 

「なんでもない。なんでもないの」

 

 母親は急いで封筒をポケットに隠した。でも匂いは隠せない。恐怖の匂いが、汗と混ざって出ている。

 

「朝ごはん作るね。ユイ、顔を洗っておいで」

 

 母親は無理に笑顔を作る。

 

 ユイは何も気づかずに洗面所に行った。

 

 俺は母親を見上げる。

 

 母親は台所の椅子に座り込んで、手で顔を覆った。

 

 震えている。

 

 俺は母親の脚にすり寄る。

 

 どうした。

 

 俺は鳴かない。でも、尻尾を母親の脚に絡める。

 

 母親は顔を上げて、俺を見た。

 

「立ち退かないと、裁判になるって。来月までに出て行けって。でも、行く場所なんてない。お金もない。ユイを連れて、どこに行けばいいの」

 

 俺は母親の言葉の意味はわからない。

 

 でも、この人間が困っていることはわかる。

 

 昨夜の電話の男の声。今朝の封筒。あれは脅しだ。猫の世界にもある。強い猫が弱い猫の縄張りを奪うとき、同じことをする。

 

 俺は喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 母親は俺の頭を撫でた。

 

「あなたはいいわね。猫は何にも縛られなくて」

 

 ちがう。

 

 猫にも縄張りがある。猫にも掟がある。猫にも守るものがある。

 

 でも今は、それを伝えられない。

 

 俺はただ、母親のそばにいる。

 

 それだけしかできない。

 

 でも、それが俺の仕事だ。

 

 ◆◆◆

 

 朝食のあと、母親はユイを幼稚園に送り出した。

 

「ねこちゃん、いってきます!」

 

 ユイは俺の頭を撫でて、元気に走っていく。

 

 部屋の中は静かになった。

 

 母親は電話をかけ始める。役所と、弁護士と、大家に。声がだんだん疲れていく。それでも電話をかけ続ける。

 

 俺は窓辺に座って、外を見る。

 

 今日は晴れている。昨日と違って、雨の心配はない。

 

 庭に雀が来ている。でも俺は狩らない。今はそれどころじゃない。

 

 昼が過ぎた。

 

 母親が台所でうつむいている。電話の結果は思わしくなかったようだ。

 

 俺は冷蔵庫の上に飛び乗る。

 

 高い場所から部屋全体を見渡す。

 

 ここは狭い。でも、この人間たちの縄張りだ。

 

 俺は自分の縄張りを思い出す。

 

 裏通り。ゴミ置き場。廃工場。塀の上。俺が長年かけて守ってきた場所。

 

 でも、あそこには誰もいない。

 

 ここには、俺を必要とする人間がいる。

 

 俺はまだ決めていない。

 

 ここに残るか、自分の縄張りに帰るか。

 

 でも今は、まだ帰らない。

 

 理由はわからない。

 

 ただ、ここにいたいと思った。それだけだ。

 

 冷蔵庫の上から飛び降りる。着地で前足に響くが、気にならない。

 

 俺は母親の隣に座る。

 

 何もできないけど、ここにいる。

 

 母親は俺を見て、少しだけ笑った。

 

「あなた、ミケにそっくりね。態度が大きくて、でも優しくて」

 

 ミケ。

 

 そうか。前に飼ってた猫だ。

 

 俺はミケじゃない。俺はトラだ。でも名前なんてどうでもいい。

 

 母親は俺を抱き上げて、膝に乗せた。

 

 重いと言われなかった。

 

 俺はしばらく、母親の膝の上で丸くなっていた。

 

 外はまだ明るい。

 

 今日は何も起きないかもしれない。

 

 でも、明日はわからない。

 

 今はこれでいい。

 

 俺は目を閉じる。

 

 母親の手が、俺の耳の後ろを撫でている。

 

 悪くない。

 

 悪くない時間だ。

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