灰被りの街で、猫は九度泣く   作:バスケ部キャプテン

4 / 6
縄張りの掟

 三日目の朝が来た。

 

 俺はサトウ家の窓辺で目を覚ます。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。朝日だ。温かい。

 

 ユイはまだ寝ている。布団から足が出ている。母親は台所で何かを作っている。包丁の音と、味噌汁の匂い。

 

 俺は体を伸ばす。前足の痛みはだいぶ引いた。右のあばらも、もう気にならない。舐め続けたおかげだ。

 

 窓の外を見る。

 

 裏通りの塀の上に、見慣れた姿があった。

 

 シマだ。

 

 シマは俺の縄張りの隣に住むメス猫だ。年は五歳。灰と黒のしま模様。耳が片方、少し切れている。昔、俺が助けたことがある。

 

 シマはじっと俺を見ていた。

 

 用があるらしい。

 

 俺は窓辺から飛び降りる。母親が振り返る。

 

「あら、おはよう。どこ行くの」

 

 俺は玄関に向かう。母親がドアを開けてくれた。

 

「気をつけてね」

 

 外に出る。朝の空気が冷たい。地面はまだ湿っている。昨夜、少し雨が降ったらしい。

 

 シマは塀の上から飛び降りて、俺の前に立った。

 

「あんた、三日もいなかった」

 

 シマの声は低い。怒っているときの声だ。

 

 俺は何も言わない。

 

「縄張りが荒れてる。ネズミが増えた。ゴミ置き場はカラスに占領された。それから、新しい野良が入り込んでる」

 

 新しい野良。

 

「若いのか」

 

「オス。二歳。茶トラ。傷だらけで、気が立ってる。あんたの匂いが薄くなった場所に、もう自分の匂いをつけ始めてる」

 

 俺は黙ってシマの話を聞く。

 

 猫の世界に三日は長い。匂いが消えれば、縄張りは奪われる。俺が長年かけて守ってきた場所だ。若い頃は血を流してでも守った。でも今は、そこまでする気力はない。

 

「戻らないのか」

 

 シマが俺の目を見る。

 

「わからない」

 

 正直な答えだ。

 

「わからないとはなんだ」

 

「まだ、帰れない。あっちに、守るものができた」

 

「守るもの。二本足か」

 

「そうだ」

 

 シマはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと尻尾を振る。

 

「あんたが変わった。前は二本足なんて信じてなかったのに」

 

 シマは俺の昔を知っている。俺が人間に捨てられたことも、老女が死んだことも、それから俺が人間を避けるようになったことも、全部知っている。

 

「その二本足は、あんたを裏切らないのか」

 

「わからない」

 

「わからないのに守るのか」

 

「そうだ」

 

 シマは鼻で小さく息を吐いた。呆れているのか、感心しているのか、どちらでもないのか。

 

「わかった。縄張りは、私ができるだけ守る。でも時間はない。あと三日。それ以上は持たない。若い茶トラが完全に縄張りを取る」

 

「それでいい」

 

「よくない。あんたの縄張りはここだけじゃない。十年かけて作り上げた場所だ。失ったら、もう戻れない」

 

 俺は空を見上げる。

 

 雲が出ている。午後には雨が降るかもしれない。

 

「三日だな」

 

「三日だ」

 

 シマは俺に背を向けて、塀の向こうに消えた。

 

 俺はしばらく、その場に立っていた。

 

 縄張り。十年分の記憶。老女と過ごした家。子猫を育てた廃工場。喧嘩に勝って手に入れたゴミ置き場。毎日通った塀の上。

 

 それを全部、手放すかもしれない。

 

 それでも。

 

 俺はサトウ家の玄関に戻る。ドアの前で鳴く。

 

 すぐにユイが開けてくれた。

 

「ねこちゃん! おかえり!」

 

 ユイは嬉しそうに俺を抱き上げる。重いと言われたが、もう慣れた。俺はされるがままになっている。

 

 部屋の中に戻る。

 

 母親が味噌汁をよそっている。

 

「ちょうどよかった。トラさんもごはんにしよう」

 

 いつのまにか、俺はトラさんと呼ばれるようになっていた。

 

 ◆◆◆

 

 朝食が終わると、母親はユイを幼稚園に連れて行く準備を始めた。

 

「ユイ、リュック持った?」

 

「もった!」

 

「ハンカチは?」

 

「いれた!」

 

 ユイは元気に返事をする。膝の絆創膏はもう取れている。傷はすっかり治ったようだ。

 

「トラさん、留守番お願いね」

 

 母親が俺に言う。

 

 俺はクッションの上で丸くなる。留守番は得意だ。寝ていればいい。

 

 でも、今日は違った。

 

 二人が出かけようとしたとき、外から車の音がした。

 

 それも、一台じゃない。二台。エンジンが止まる。ドアが開く音。足音。大人数だ。

 

 俺は耳を立てる。

 

 まずい匂いがする。

 

 煙草と酒と、印刷屋のインク。昨夜、玄関の前に封筒を置いていった男の匂いだ。

 

 それに、もっと強い匂い。権力の匂い。威張っている人間の匂い。

 

 俺はクッションから飛び降りて、玄関に向かう。

 

「トラさん、どうしたの?」

 

 母親が不思議そうに俺を見る。

 

 外から声がした。

 

「サトウさん、いらっしゃいますか」

 

 男の声だ。低くて、偉そうな声。

 

 母親の顔色が変わる。

 

「ユイ、ちょっと奥に行ってて」

 

「え、なんで?」

 

「いいから」

 

 母親はユイを居間に押し込んで、玄関のドアを開けた。

 

 俺は母親の後ろから外を見る。

 

 三人いる。

 

 一人は背の高い男。スーツを着ている。ネクタイが曲がっている。歯が黄色い。これがボスだ。

 

 もう一人は小太りの男。書類を持っている。汗をかいている。匂いがきつい。新人だ。

 

 三人目は若い男。無精ひげ。サングラスをかけている。腕を組んで立っているだけだ。でもこいつが一番危険だ。喧嘩慣れしている。俺にはわかる。

 

 スーツの男が口を開く。

 

「サトウさん、何度も連絡しましたが、お返事いただけませんでしたので、今日は直接お伺いしました」

 

「朝早くにすみません。でも、これ以上待てないもので」

 

 母親はドアの枠に手をかけて、立っている。

 

「申し訳ありませんが、出て行くお金も、引っ越し先もないんです。もう少しだけ猶予を」

 

「猶予はもう半年差し上げました」

 

 スーツの男の声が冷たくなる。

 

「この土地は再開発が決まっています。立ち退かないと、裁判になります。裁判になれば、もっとお金がかかりますよ」

 

「でも、娘がまだ小さくて、それに──」

 

「サトウさん」

 

 男が一歩、前に出る。

 

 俺は毛を逆立てた。

 

 母親が後ずさる。

 

「これは決定事項です。来月末までに出て行ってください。でなければ、強制執行になります」

 

 若い男がサングラスを外した。目つきが鋭い。

 

「お困りなら、相談に乗りますよ。うちの系列に、格安のアパートがあります。家賃は今の半分。ただし、保証人が必要ですが」

 

 スーツの男がにやりとする。

 

「その代わりに、この書類にサインをいただければ」

 

 小太りの男が書類を差し出す。

 

 母親はそれを受け取った。

 

 読んでいる。手が震えている。

 

 俺はその書類の匂いを嗅ぐ。紙とインク。それだけじゃない。嘘の匂いがする。

 

 嘘の匂いはわかる。汗と、緊張と、隠し事の匂いが混ざる。あの書類は危険だ。

 

 俺は唸った。

 

 フーッ。

 

 三人の男が俺を見る。

 

「なんだ、猫か」

 

 若い男が笑った。

 

「猫でも飼い始めたんですか。ペット禁止のはずですが」

 

 母親は慌てて俺を足で押さえた。

 

「すみません、迷い猫で。すぐに出します」

 

 ちがう。俺は迷い猫じゃない。

 

 でも今は、母親に従う。

 

 俺は唸るのをやめた。

 

 スーツの男は続ける。

 

「今週中にご返事ください。でなければ、次の手段を取ります」

 

 三人は車に乗って去っていった。

 

 エンジン音が遠ざかる。

 

 母親は玄関のドアを閉めて、その場に座り込んだ。

 

 書類を握りしめて、泣いている。

 

 俺は母親の膝に飛び乗る。顔を舐める。しょっぱい。涙の味がする。

 

「ありがとう、トラさん」

 

 母親は俺を抱きしめる。

 

「でも、どうしよう。本当に、どうしよう」

 

 居間からユイが出てきた。

 

「かあさん、どうしたの?」

 

 母親は急いで涙を拭いた。

 

「なんでもないの。さあ、幼稚園に行こう」

 

 ユイは俺を見た。それから母親を見た。何かを感じている。子どもは鋭い。でも口には出さない。

 

「ねこちゃん、いってきます」

 

 ユイは俺の頭を撫でて、母親と一緒に出かけていった。

 

 部屋の中に一人になる。

 

 俺は窓辺に飛び乗って、外を見る。

 

 さっきの男たちの車はもういない。

 

 でも、匂いは残っている。

 

 脅しの匂いだ。

 

 俺は決めた。

 

 今日、自分の縄張りに戻る。

 

 シマに伝えたいことがある。

 

 ◆◆◆

 

 昼前、俺はサトウ家を出た。

 

 縄張りまでは歩いて二十分。裏通りを抜けて、古い商店街を通り、住宅街の端まで行く。

 

 いつもの道だ。

 

 でも、途中で違和感を感じた。

 

 匂いが違う。

 

 俺の縄張りに近づくほど、知らない猫の匂いが強くなる。それも、一匹じゃない。三匹。みんなオスだ。

 

 若い連中の匂いだ。一歳か二歳。血の気が多い。喧嘩を売りたがっている。

 

 俺は注意して歩く。

 

 塀の上を通らず、地面を歩く。匂いを消すためだ。風下から近づく。気配を殺す。

 

 これが年長者の知恵だ。

 

 やがて、声が聞こえた。

 

 猫の声だ。唸り声。それと、威嚇の叫び。

 

 俺は物陰から様子を伺う。

 

 ゴミ置き場の前で、シマが三匹の若いオスに囲まれていた。

 

「この縄張りはお前のものじゃない。元の飼い主に返せ」

 

 茶トラの若いオスがシマに詰め寄っている。こいつが新しい野良だ。身体は大きい。筋肉質。左目が少し白く濁っている。喧嘩でやられた傷だ。

 

 シマは低く唸りながら、後退している。

 

「元の飼い主はもういない。でも、ここはまだ彼の縄張りだ」

 

「匂いは消えた。弱い猫の縄張りは奪われる。それが掟だ」

 

 茶トラが一歩、踏み出す。

 

 シマの耳が伏せられる。覚悟を決めた顔だ。一人で三匹を相手にするつもりだ。

 

 俺は物陰から出た。

 

「待て」

 

 全員が俺を見る。

 

 シマは驚いた顔をした。茶トラは目を細める。

 

「あんたが、この縄張りの主か」

 

 茶トラの声は若い。でも、自信に満ちている。

 

「そうだ」

 

「ずいぶん老けてるな。耳も欠けてる。喧嘩はもう無理だろ」

 

「かもな」

 

「なら、縄張りを明け渡せ。静かに去れば傷つけずにすむ」

 

 俺はゆっくりと茶トラに近づく。

 

 若い二匹が脇から俺を囲もうとする。

 

 シマが動こうとしたが、俺は尻尾で制した。手を出すな。

 

「言っておく。ここは十年、俺が守ってきた場所だ。簡単には渡さない」

 

「十年。長いな。でも、もう終わりだ。お前の時代は終わった」

 

 茶トラが唸り声を上げる。

 

 喧嘩が始まる。それはわかっている。

 

 でも、俺は今日、喧嘩をしに来たわけじゃない。

 

「取引だ」

 

 茶トラが首をかしげる。

 

「取引?」

 

「三日くれ。三日後、俺はここを去る。その代わり、あと三日だけ、俺の匂いを残させてほしい」

 

 茶トラは黙っている。

 

「待てと言われて待つと思うか」

 

「思わない。だが、あんたにも利がある」

 

「なんだ」

 

「俺の縄張りはここだけじゃない。廃工場の裏の区域も俺のものだ。ここを明け渡すなら、あっちもくれてやる。あっちはネズミが多い。子猫を育てるにはここよりいい」

 

 茶トラの耳が前に向いた。興味を持った証拠だ。

 

「なぜそこまでする。二本足のためか」

 

「そうだ」

 

「二本足は信用できない。俺は捨てられた。お前もそうじゃないのか」

 

 俺は何も言わない。

 

「わかった。三日だ。三日後にここは俺のものになる。それでいいな」

 

「ああ」

 

「裏切ったら、ただじゃ済まさない」

 

 茶トラは俺に背を向けて、仲間を連れて立ち去った。

 

 路地に静けさが戻る。

 

 シマが俺のそばに来る。

 

「あんた、本気か。十年の縄張りを、そんな簡単に」

 

「本気だ」

 

「あの二本足のために、全部捨てるのか」

 

「捨てるんじゃない。使うんだ」

 

 シマは首を振った。

 

「やっぱり変わった。前のあんたは、もっと自分勝手だった」

 

「今も自分勝手だ。やりたいからやるだけだ」

 

 俺はゴミ置き場のそばの塀に飛び乗る。

 

「三日で何ができる」

 

 シマが下から見上げる。

 

「わからない。でも、ここにはもう戻らない。たぶんな」

 

「たぶんじゃない。きっとだろ」

 

「そうだな」

 

 俺は塀の上を歩き出す。自分の縄張りを最後に一周するつもりだ。

 

「トラ」

 

 シマが呼び止める。

 

 俺は振り返る。

 

「あんたが行かないなら、私も行く。あの茶トラの下にはつきたくない」

 

「好きにしろ」

 

 俺はそれだけ言って、塀の上を歩き続けた。

 

 ◆◆◆

 

 夕方、俺はサトウ家に戻った。

 

 母親とユイはまだ帰っていない。部屋は静かだ。

 

 俺は窓辺に座って、外を見る。

 

 西の空が赤い。今日も夕焼けがきれいだ。

 

 しばらくして、二人が帰ってきた。

 

「ただいま!」

 

 ユイの元気な声が玄関に響く。

 

「トラさん、ただいま。いい子にしてた?」

 

 母親も笑顔だ。朝より少し元気になっている。

 

 でも、俺は気づいている。

 

 母親の手に、新しい封筒がある。

 

 さっきの男たちの匂いがついている。また何か渡されたんだ。

 

 母親は封筒を引き出しにしまった。ユイには見せない。

 

 俺は何も言わない。言えない。

 

 でも見ている。

 

 夕飯の時間。

 

 今日は焼き魚だ。サバの塩焼き。俺にも少し分けてくれた。骨を取って、身だけをほぐしてくれる。

 

「ねこちゃん、おいしい?」

 

 ユイが嬉しそうに聞く。

 

 うまい。

 

 でも、言葉にできない。

 

 俺は食べ終わると、ユイの脚にすり寄る。

 

「くすぐったい!」

 

 ユイが笑う。

 

 母親も笑っている。

 

 この時間はいい。

 

 静かで、温かくて、誰も脅かさない。

 

 でも、あとどれだけ続くかわからない。

 

 俺の縄張りはあと三日。

 

 この家も、いつまでここにあるかわからない。

 

 それでも今は。

 

 俺はユイの膝の上で丸くなる。

 

 ゴロゴロ。

 

 ユイが俺の背中を撫でる。

 

「ねこちゃん、ずっといっしょだよね」

 

 俺は目を閉じる。

 

 ずっと。どれくらいかはわからない。

 

 でも、今いることは確かだ。

 

 今ここにいる。

 

 それでいい。

 

 ◆◆◆

 

 夜。

 

 ユイが寝て、母親も布団に入った。

 

 俺はいつものクッションの上で、目を閉じずにいる。

 

 外で物音がした。

 

 遠くの足音。それから、自転車の音。酔っ払いの笑い声。

 

 どれも近づいてはこない。

 

 俺は耳を澄ませたまま、夜を過ごす。

 

 窓の外では、三日月が細く光っている。

 

 何かが変わろうとしている。

 

 空気の匂いが違う。

 

 風向きが変わった。

 

 俺はそれを感じながら、静かに朝を待った。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。