灰被りの街で、猫は九度泣く 作:バスケ部キャプテン
三日目の朝が来た。
俺はサトウ家の窓辺で目を覚ます。カーテンの隙間から光が差し込んでいる。朝日だ。温かい。
ユイはまだ寝ている。布団から足が出ている。母親は台所で何かを作っている。包丁の音と、味噌汁の匂い。
俺は体を伸ばす。前足の痛みはだいぶ引いた。右のあばらも、もう気にならない。舐め続けたおかげだ。
窓の外を見る。
裏通りの塀の上に、見慣れた姿があった。
シマだ。
シマは俺の縄張りの隣に住むメス猫だ。年は五歳。灰と黒のしま模様。耳が片方、少し切れている。昔、俺が助けたことがある。
シマはじっと俺を見ていた。
用があるらしい。
俺は窓辺から飛び降りる。母親が振り返る。
「あら、おはよう。どこ行くの」
俺は玄関に向かう。母親がドアを開けてくれた。
「気をつけてね」
外に出る。朝の空気が冷たい。地面はまだ湿っている。昨夜、少し雨が降ったらしい。
シマは塀の上から飛び降りて、俺の前に立った。
「あんた、三日もいなかった」
シマの声は低い。怒っているときの声だ。
俺は何も言わない。
「縄張りが荒れてる。ネズミが増えた。ゴミ置き場はカラスに占領された。それから、新しい野良が入り込んでる」
新しい野良。
「若いのか」
「オス。二歳。茶トラ。傷だらけで、気が立ってる。あんたの匂いが薄くなった場所に、もう自分の匂いをつけ始めてる」
俺は黙ってシマの話を聞く。
猫の世界に三日は長い。匂いが消えれば、縄張りは奪われる。俺が長年かけて守ってきた場所だ。若い頃は血を流してでも守った。でも今は、そこまでする気力はない。
「戻らないのか」
シマが俺の目を見る。
「わからない」
正直な答えだ。
「わからないとはなんだ」
「まだ、帰れない。あっちに、守るものができた」
「守るもの。二本足か」
「そうだ」
シマはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと尻尾を振る。
「あんたが変わった。前は二本足なんて信じてなかったのに」
シマは俺の昔を知っている。俺が人間に捨てられたことも、老女が死んだことも、それから俺が人間を避けるようになったことも、全部知っている。
「その二本足は、あんたを裏切らないのか」
「わからない」
「わからないのに守るのか」
「そうだ」
シマは鼻で小さく息を吐いた。呆れているのか、感心しているのか、どちらでもないのか。
「わかった。縄張りは、私ができるだけ守る。でも時間はない。あと三日。それ以上は持たない。若い茶トラが完全に縄張りを取る」
「それでいい」
「よくない。あんたの縄張りはここだけじゃない。十年かけて作り上げた場所だ。失ったら、もう戻れない」
俺は空を見上げる。
雲が出ている。午後には雨が降るかもしれない。
「三日だな」
「三日だ」
シマは俺に背を向けて、塀の向こうに消えた。
俺はしばらく、その場に立っていた。
縄張り。十年分の記憶。老女と過ごした家。子猫を育てた廃工場。喧嘩に勝って手に入れたゴミ置き場。毎日通った塀の上。
それを全部、手放すかもしれない。
それでも。
俺はサトウ家の玄関に戻る。ドアの前で鳴く。
すぐにユイが開けてくれた。
「ねこちゃん! おかえり!」
ユイは嬉しそうに俺を抱き上げる。重いと言われたが、もう慣れた。俺はされるがままになっている。
部屋の中に戻る。
母親が味噌汁をよそっている。
「ちょうどよかった。トラさんもごはんにしよう」
いつのまにか、俺はトラさんと呼ばれるようになっていた。
◆◆◆
朝食が終わると、母親はユイを幼稚園に連れて行く準備を始めた。
「ユイ、リュック持った?」
「もった!」
「ハンカチは?」
「いれた!」
ユイは元気に返事をする。膝の絆創膏はもう取れている。傷はすっかり治ったようだ。
「トラさん、留守番お願いね」
母親が俺に言う。
俺はクッションの上で丸くなる。留守番は得意だ。寝ていればいい。
でも、今日は違った。
二人が出かけようとしたとき、外から車の音がした。
それも、一台じゃない。二台。エンジンが止まる。ドアが開く音。足音。大人数だ。
俺は耳を立てる。
まずい匂いがする。
煙草と酒と、印刷屋のインク。昨夜、玄関の前に封筒を置いていった男の匂いだ。
それに、もっと強い匂い。権力の匂い。威張っている人間の匂い。
俺はクッションから飛び降りて、玄関に向かう。
「トラさん、どうしたの?」
母親が不思議そうに俺を見る。
外から声がした。
「サトウさん、いらっしゃいますか」
男の声だ。低くて、偉そうな声。
母親の顔色が変わる。
「ユイ、ちょっと奥に行ってて」
「え、なんで?」
「いいから」
母親はユイを居間に押し込んで、玄関のドアを開けた。
俺は母親の後ろから外を見る。
三人いる。
一人は背の高い男。スーツを着ている。ネクタイが曲がっている。歯が黄色い。これがボスだ。
もう一人は小太りの男。書類を持っている。汗をかいている。匂いがきつい。新人だ。
三人目は若い男。無精ひげ。サングラスをかけている。腕を組んで立っているだけだ。でもこいつが一番危険だ。喧嘩慣れしている。俺にはわかる。
スーツの男が口を開く。
「サトウさん、何度も連絡しましたが、お返事いただけませんでしたので、今日は直接お伺いしました」
「朝早くにすみません。でも、これ以上待てないもので」
母親はドアの枠に手をかけて、立っている。
「申し訳ありませんが、出て行くお金も、引っ越し先もないんです。もう少しだけ猶予を」
「猶予はもう半年差し上げました」
スーツの男の声が冷たくなる。
「この土地は再開発が決まっています。立ち退かないと、裁判になります。裁判になれば、もっとお金がかかりますよ」
「でも、娘がまだ小さくて、それに──」
「サトウさん」
男が一歩、前に出る。
俺は毛を逆立てた。
母親が後ずさる。
「これは決定事項です。来月末までに出て行ってください。でなければ、強制執行になります」
若い男がサングラスを外した。目つきが鋭い。
「お困りなら、相談に乗りますよ。うちの系列に、格安のアパートがあります。家賃は今の半分。ただし、保証人が必要ですが」
スーツの男がにやりとする。
「その代わりに、この書類にサインをいただければ」
小太りの男が書類を差し出す。
母親はそれを受け取った。
読んでいる。手が震えている。
俺はその書類の匂いを嗅ぐ。紙とインク。それだけじゃない。嘘の匂いがする。
嘘の匂いはわかる。汗と、緊張と、隠し事の匂いが混ざる。あの書類は危険だ。
俺は唸った。
フーッ。
三人の男が俺を見る。
「なんだ、猫か」
若い男が笑った。
「猫でも飼い始めたんですか。ペット禁止のはずですが」
母親は慌てて俺を足で押さえた。
「すみません、迷い猫で。すぐに出します」
ちがう。俺は迷い猫じゃない。
でも今は、母親に従う。
俺は唸るのをやめた。
スーツの男は続ける。
「今週中にご返事ください。でなければ、次の手段を取ります」
三人は車に乗って去っていった。
エンジン音が遠ざかる。
母親は玄関のドアを閉めて、その場に座り込んだ。
書類を握りしめて、泣いている。
俺は母親の膝に飛び乗る。顔を舐める。しょっぱい。涙の味がする。
「ありがとう、トラさん」
母親は俺を抱きしめる。
「でも、どうしよう。本当に、どうしよう」
居間からユイが出てきた。
「かあさん、どうしたの?」
母親は急いで涙を拭いた。
「なんでもないの。さあ、幼稚園に行こう」
ユイは俺を見た。それから母親を見た。何かを感じている。子どもは鋭い。でも口には出さない。
「ねこちゃん、いってきます」
ユイは俺の頭を撫でて、母親と一緒に出かけていった。
部屋の中に一人になる。
俺は窓辺に飛び乗って、外を見る。
さっきの男たちの車はもういない。
でも、匂いは残っている。
脅しの匂いだ。
俺は決めた。
今日、自分の縄張りに戻る。
シマに伝えたいことがある。
◆◆◆
昼前、俺はサトウ家を出た。
縄張りまでは歩いて二十分。裏通りを抜けて、古い商店街を通り、住宅街の端まで行く。
いつもの道だ。
でも、途中で違和感を感じた。
匂いが違う。
俺の縄張りに近づくほど、知らない猫の匂いが強くなる。それも、一匹じゃない。三匹。みんなオスだ。
若い連中の匂いだ。一歳か二歳。血の気が多い。喧嘩を売りたがっている。
俺は注意して歩く。
塀の上を通らず、地面を歩く。匂いを消すためだ。風下から近づく。気配を殺す。
これが年長者の知恵だ。
やがて、声が聞こえた。
猫の声だ。唸り声。それと、威嚇の叫び。
俺は物陰から様子を伺う。
ゴミ置き場の前で、シマが三匹の若いオスに囲まれていた。
「この縄張りはお前のものじゃない。元の飼い主に返せ」
茶トラの若いオスがシマに詰め寄っている。こいつが新しい野良だ。身体は大きい。筋肉質。左目が少し白く濁っている。喧嘩でやられた傷だ。
シマは低く唸りながら、後退している。
「元の飼い主はもういない。でも、ここはまだ彼の縄張りだ」
「匂いは消えた。弱い猫の縄張りは奪われる。それが掟だ」
茶トラが一歩、踏み出す。
シマの耳が伏せられる。覚悟を決めた顔だ。一人で三匹を相手にするつもりだ。
俺は物陰から出た。
「待て」
全員が俺を見る。
シマは驚いた顔をした。茶トラは目を細める。
「あんたが、この縄張りの主か」
茶トラの声は若い。でも、自信に満ちている。
「そうだ」
「ずいぶん老けてるな。耳も欠けてる。喧嘩はもう無理だろ」
「かもな」
「なら、縄張りを明け渡せ。静かに去れば傷つけずにすむ」
俺はゆっくりと茶トラに近づく。
若い二匹が脇から俺を囲もうとする。
シマが動こうとしたが、俺は尻尾で制した。手を出すな。
「言っておく。ここは十年、俺が守ってきた場所だ。簡単には渡さない」
「十年。長いな。でも、もう終わりだ。お前の時代は終わった」
茶トラが唸り声を上げる。
喧嘩が始まる。それはわかっている。
でも、俺は今日、喧嘩をしに来たわけじゃない。
「取引だ」
茶トラが首をかしげる。
「取引?」
「三日くれ。三日後、俺はここを去る。その代わり、あと三日だけ、俺の匂いを残させてほしい」
茶トラは黙っている。
「待てと言われて待つと思うか」
「思わない。だが、あんたにも利がある」
「なんだ」
「俺の縄張りはここだけじゃない。廃工場の裏の区域も俺のものだ。ここを明け渡すなら、あっちもくれてやる。あっちはネズミが多い。子猫を育てるにはここよりいい」
茶トラの耳が前に向いた。興味を持った証拠だ。
「なぜそこまでする。二本足のためか」
「そうだ」
「二本足は信用できない。俺は捨てられた。お前もそうじゃないのか」
俺は何も言わない。
「わかった。三日だ。三日後にここは俺のものになる。それでいいな」
「ああ」
「裏切ったら、ただじゃ済まさない」
茶トラは俺に背を向けて、仲間を連れて立ち去った。
路地に静けさが戻る。
シマが俺のそばに来る。
「あんた、本気か。十年の縄張りを、そんな簡単に」
「本気だ」
「あの二本足のために、全部捨てるのか」
「捨てるんじゃない。使うんだ」
シマは首を振った。
「やっぱり変わった。前のあんたは、もっと自分勝手だった」
「今も自分勝手だ。やりたいからやるだけだ」
俺はゴミ置き場のそばの塀に飛び乗る。
「三日で何ができる」
シマが下から見上げる。
「わからない。でも、ここにはもう戻らない。たぶんな」
「たぶんじゃない。きっとだろ」
「そうだな」
俺は塀の上を歩き出す。自分の縄張りを最後に一周するつもりだ。
「トラ」
シマが呼び止める。
俺は振り返る。
「あんたが行かないなら、私も行く。あの茶トラの下にはつきたくない」
「好きにしろ」
俺はそれだけ言って、塀の上を歩き続けた。
◆◆◆
夕方、俺はサトウ家に戻った。
母親とユイはまだ帰っていない。部屋は静かだ。
俺は窓辺に座って、外を見る。
西の空が赤い。今日も夕焼けがきれいだ。
しばらくして、二人が帰ってきた。
「ただいま!」
ユイの元気な声が玄関に響く。
「トラさん、ただいま。いい子にしてた?」
母親も笑顔だ。朝より少し元気になっている。
でも、俺は気づいている。
母親の手に、新しい封筒がある。
さっきの男たちの匂いがついている。また何か渡されたんだ。
母親は封筒を引き出しにしまった。ユイには見せない。
俺は何も言わない。言えない。
でも見ている。
夕飯の時間。
今日は焼き魚だ。サバの塩焼き。俺にも少し分けてくれた。骨を取って、身だけをほぐしてくれる。
「ねこちゃん、おいしい?」
ユイが嬉しそうに聞く。
うまい。
でも、言葉にできない。
俺は食べ終わると、ユイの脚にすり寄る。
「くすぐったい!」
ユイが笑う。
母親も笑っている。
この時間はいい。
静かで、温かくて、誰も脅かさない。
でも、あとどれだけ続くかわからない。
俺の縄張りはあと三日。
この家も、いつまでここにあるかわからない。
それでも今は。
俺はユイの膝の上で丸くなる。
ゴロゴロ。
ユイが俺の背中を撫でる。
「ねこちゃん、ずっといっしょだよね」
俺は目を閉じる。
ずっと。どれくらいかはわからない。
でも、今いることは確かだ。
今ここにいる。
それでいい。
◆◆◆
夜。
ユイが寝て、母親も布団に入った。
俺はいつものクッションの上で、目を閉じずにいる。
外で物音がした。
遠くの足音。それから、自転車の音。酔っ払いの笑い声。
どれも近づいてはこない。
俺は耳を澄ませたまま、夜を過ごす。
窓の外では、三日月が細く光っている。
何かが変わろうとしている。
空気の匂いが違う。
風向きが変わった。
俺はそれを感じながら、静かに朝を待った。