灰被りの街で、猫は九度泣く 作:バスケ部キャプテン
朝から雨だ。
窓の外は灰色に煙っている。水滴がガラスを伝って落ちる。俺は窓辺に座って、外を見ている。耳を立てる。雨音だけが聞こえる。
今日で四日目。
茶トラとの約束まで、あと二日。
俺は自分の縄張りをもう一周したかった。匂いを確かめて、どこまで侵食されているか確認したかった。でも雨だ。雨がすべてを流してしまう。匂いも、痕跡も、俺の十年も。
「ねこちゃん、きょうはあめだね」
ユイが窓のそばに来て、外を見る。今日は土曜日だ。幼稚園は休み。
「そと、いけないね」
ユイは少し残念そうだ。俺はユイの脚にすり寄る。雨の日は家にいるのが一番だ。濡れるのは好きじゃない。
母親は台所で電話をかけている。朝からずっとだ。役所、大家、引っ越し屋、それからどこかの相談窓口。声はだんだん小さくなっている。疲れているんだ。
「はい、そうです。来月末までに。はい。はい。……無理ですか」
電話が切れる音。
ため息が聞こえる。
俺は台所に向かう。母親は椅子に座って、うつむいている。俺は母親の脚に飛び乗る。
「トラさん」
母親は俺の背中を撫でる。手が冷たい。
「どうしたらいいんだろうね」
俺は喉を鳴らす。ゴロゴロ。それしかできない。でも、それで少しでもマシになるなら。
ユイが台所に来た。
「かあさん、おなかすいた」
母親は顔を上げて、笑顔を作る。
「そうだね。お昼にしようか」
母親が立ち上がる。俺は床に飛び降りる。
そのとき、電話が鳴った。
ジリリリ。
音が違う。いつもの固定電話じゃない。母親のスマートフォンだ。画面を見た母親の顔がこわばる。
「もしもし」
相手の声は聞こえない。でも、母親の表情でわかる。いい電話じゃない。
「はい。はい。……わかりました」
短い会話で電話は終わった。
母親はスマートフォンを机に置いて、しばらく黙っていた。
「かあさん?」
ユイが不安そうに見上げる。
「ユイ、ちょっとお出かけしようか」
「どこに?」
「おばあちゃんの家」
おばあちゃん。
俺はその言葉を聞いて、耳を立てる。
母親の母親。ユイの祖母。俺は知らない匂いだ。まだ会ったことがない。
「でんしゃにのるの?」
「そうだよ。ちょっと遠いけど」
「ねこちゃんもいっしょ?」
ユイが俺を指さす。
母親は少し迷った顔をした。それから俺を見る。
「トラさん、ごめんね。ちょっとお留守番お願いできる?」
だめだ。
俺は尻尾を立てて、母親の脚にすり寄る。それから玄関のドアの前に行って、座る。
連れて行け。
「つれてきてあげて」
ユイが言う。
「でも、電車は猫は乗れないし」
「かばんにいれればだいじょうぶだよ。ミケちゃんもそうしてたでしょ」
母親は考え込んだ。それから、押し入れから古いキャリーバッグを出してきた。ピンクの布製。ミケが使っていたものだ。ファスナーが少し固いけど、まだ使える。
「トラさん、入ってくれる?」
俺はキャリーバッグの入り口を嗅ぐ。ミケの匂いがかすかに残っている。悪くない匂いだ。
俺は自分から中に入った。
「賢いね」
母親がファスナーを閉める。暗い。でも、布越しに外の光が透けて見える。息はできる。
ユイが外からキャリーバッグを撫でている。
「ねこちゃん、いっしょだね」
三人で家を出た。
◆◆◆
駅は混んでいた。
休日のせいだ。たくさんの二本足が行き交っている。足音がうるさい。アナウンスの声が反響する。俺はキャリーバッグの中で耳を伏せる。
「ユイ、はぐれないで」
母親がユイの手をしっかり握る。
改札を通る。俺は静かにしている。鳴かない。鳴いたらまずいことがわかっている。
ホームに降りる。風が強い。雨は小降りになったけど、まだぱらついている。屋根の下で電車を待つ。
電車が来た。轟音。風圧。金属の匂い。
俺は体を縮める。
「大丈夫だよ」
ユイがバッグ越しにささやく。
電車に乗り込む。人が多い。座れない。母親は吊り革につかまって、ユイは母親の脚にしがみついている。
俺はバッグの底でじっとしている。
電車が動き出す。揺れる。規則的な振動が続く。俺はこの感覚を知っている。昔、老女が俺を連れて病院に行ったときのことを思い出す。あのときもこうだった。
老女はもういない。
でも今は、別の誰かが俺を連れている。
一時間ほど電車に乗った。
それからバスに乗り換える。バスは電車より揺れる。エンジン音がうるさい。排気ガスの匂いがバッグの中まで入ってくる。
それでも俺はじっとしている。
ユイも母親も、ときどき俺の様子を確認してくる。大丈夫か、と聞いてくる。俺は小さく鳴く。大丈夫だ。
バスを降りると、景色が変わっていた。
山が見える。田んぼがある。空気が違う。土の匂いと、草の匂い。排気ガスが少ない。
ここは俺の知らない場所だ。
◆◆◆
祖母の家は古い一軒家だった。
瓦屋根。木の壁。庭には柿の木がある。実はまだ青い。縁側があって、ガラス戸の向こうに畳の部屋が見える。
「おばあちゃん!」
ユイが走り出す。
玄関のドアが開いて、老女が出てきた。
年は母親の倍くらいか。腰が少し曲がっている。白髪を後ろで束ねている。顔は母親に似ている。でももっとしわが多い。
「まあまあ、ユイちゃん! 大きくなったねえ」
老女はユイを抱きしめる。声が温かい。いい匂いがする。線香と、畳と、古い家の匂い。
「サトウです。急にすみません」
母親が頭を下げる。
「いいんだよ。連絡くれてよかった。さあ、上がんなさい」
老女は俺の入ったキャリーバッグに気づいた。
「猫かい?」
「はい。ちょっと事情がありまして。家を空けるので連れてきました」
「そうか。いいよ、猫は好きだ。前にも飼ってたんだよ。もうずいぶん前だけど」
老女はしゃがんで、キャリーバッグの入り口を開けてくれた。
「おいで。怖くないよ」
俺はゆっくりと外に出る。
畳の匂い。古い木の匂い。それから、かすかに猫の匂い。老女が昔飼っていた猫だ。もう死んでいる。でも匂いは家の柱に染みついている。
俺は老女の手の匂いを嗅ぐ。
土の匂い。それと味噌の匂い。畑仕事をしている人間の匂いだ。
悪くない。
俺は老女の脚に額をこすりつける。
「おや、人懐っこい猫だね。なんて名前?」
「トラさんだよ!」
ユイが答える。
「トラさんか。いい名前だ」
老女が笑う。その笑い方が、俺の知っている老女に似ていた。
昔、俺を飼ってくれた老女。
同じしわの刻み方。同じ声の震え。同じ目の細め方。
俺はしばらく、その場に座っていた。
何かが胸の奥で動いた。でも名前はつけられない。
◆◆◆
祖母の家は広かった。
居間が二部屋。茶の間。台所。風呂。それから縁側。俺は家中の匂いを嗅いで回る。隅々まで確認する。新しい場所に来たら、まず安全を確かめる。それが猫の掟だ。
天井裏で鼠の気配がする。でも今は狩らない。
縁側に出る。雨はやんでいる。庭の柿の木に雀が来ている。俺はガラス戸越しにそれを見る。
「トラさん、退屈かい」
老女がお茶を運んできた。俺の隣に座る。
俺は老女の膝に乗る。迷わなかった。自分でも驚きだ。
「あったかいねえ。猫はいいねえ。こっちまであったかくなる」
老女は俺の耳の後ろを撫でる。
その手つきも、昔の老女と同じだ。
「おばあちゃん、猫飼ってたの?」
ユイが縁側に来て、隣に座る。
「昔ね。クロっていう黒猫を飼ってたんだよ。お前が生まれるずっと前だけど」
「クロちゃん」
「うん。賢い猫だった。何より、すごく優しくてね」
俺は目を閉じる。
クロ。知らない猫だ。でも、俺の知っている猫に似ている気がする。
いや、俺自身かもしれない。
どっちでもいい。
俺は老女の膝の上で、喉を鳴らす。
ゴロゴロ。
「ほら、のど鳴らしてる。嬉しいんだね」
老女が笑う。
ユイも笑う。
◆◆◆
夜になった。
祖母が作ってくれた夕飯は、煮魚と味噌汁と漬物だ。俺は煮魚のほぐし身をもらった。うまい。
食後、母親と祖母が話し始めた。ユイはテレビを見ている。俺はコタツの中に入って丸くなっている。
「それで、立ち退きって」
祖母の声が低くなる。
「再開発だそうです。あの一帯が更地になって、大きなマンションが建つって」
「あのアパートもか」
「はい。来月末までに出て行けと。でもお金がなくて。相談するところは全部当たったんですけど」
「そうか。それで、こっちに来たんだね」
「はい。ご迷惑はかけられません。でも、とりあえずユイだけでも安全な場所にと思って」
「なに言ってるんだい。あんたも一緒に来ればいい。ここに住めばいい」
母親は黙った。
「でも、迷惑じゃ」
「迷惑なもんか。この家は広いんだよ。あんたが生まれ育った家だ。それにあの男ももう出て行ったんだから、気にすることはない」
あの男。
ユイの父親のことだろうか。詳しいことはわからない。でも祖母の声には怒りが混ざっていた。
「ありがとう、お母さん」
母親の声が震える。
「しばらく考えさせてください」
「急がなくていい。ゆっくり決めなさい」
コタツの中で、俺は二人の会話を聞いていた。
引っ越し。
ここに住む。
そういう選択肢があるらしい。
俺にとっては、どこでも同じだ。場所が変わっても、やることは変わらない。
守る。
それだけだ。
◆◆◆
深夜。
俺は縁側のガラス戸の前に座っている。
月が出ている。雲が切れて、庭が青白く照らされている。
外から猫の声が聞こえた。
遠吠えじゃない。呼びかけだ。
俺は耳を立てる。
縁側の外に、一匹の猫がいた。
白い猫だ。年はかなりいっている。十歳を超えている。目が青い。首輪はない。このあたりの野良だろうか。
「あんた、よそ者か」
白猫の声はしわがれている。
「そうだ」
「珍しいな。ここに若い猫は来ない。みんな山のほうに行く」
「用か」
「用ってほどじゃない。ただ、珍しいから声をかけた。それと、あんたから変な匂いがする」
「変な匂い」
「都会の匂いだ。それと、二本足の匂い。いや、もっとだ。何かを守ってる猫の匂いだ」
俺は黙っている。
「ここに長居するのか」
「わからない」
「そうか。まあ、好きにしろ。この縄張りは誰も争っていない。年寄りばかりでな」
白猫はあくびをして、庭の向こうに消えていった。
静かになった。
俺はガラス戸越しに外を見続ける。
月が雲に隠れる。
何かを守ってる猫の匂い。
自分ではわからない。俺はただ、やりたいことをやっているだけだ。
でも、そう言われて悪い気はしなかった。
俺はコタツに戻って、丸くなる。
明日は何が起きるかわからない。
でも今は、ここで眠ろう。
ユイの寝息が聞こえる。母親の寝息も。祖母の寝息も。
みんな寝ている。
俺も目を閉じる。
今日は静かな夜だ。