灰被りの街で、猫は九度泣く   作:バスケ部キャプテン

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夜の約束

 五日前の夜を思い出す。

 

 雨の廃工場で、ユイは震えていた。俺は自分の体温を分け与えて、朝まで見張っていた。あのときはただ、小さいのを生かすことで頭がいっぱいだった。

 

 今は違う。

 

 ユイはコタツの中で寝ている。母親も祖母も寝ている。家は静かだ。壁が風を防いでくれる。屋根が雨を防いでくれる。

 

 俺は縁側のガラス戸の前に座っている。

 

 外はまだ暗い。山のほうがうっすら白み始めている。明け方だ。

 

 茶トラとの約束まで、あと一日。

 

 明日には自分の縄張りをすべて手放す。十年分の記憶と一緒に。

 

 後悔はない。でも、胸のあたりに何かが引っかかっている。名付けようのない感覚だ。

 

 俺はガラスに映った自分の顔を見る。耳が欠けている。毛並みは荒れている。目はまだ黄色く光っているけど、若い頃よりずっとくすんでいる。

 

 老いた。

 

 十年の野良暮らしで、俺は老いた。

 

 それでもまだ、やることがある。

 

 ◆◆◆

 

 朝が来た。

 

 祖母が一番に起きて、台所で味噌汁を作り始める。出汁の匂いが家中に広がる。鰹節と昆布。それと少しの醤油。

 

 いい匂いだ。

 

 母親はまだ寝ている。久しぶりにぐっすり眠れたんだろう。ユイも同じだ。二人とも、この家に来てから顔色が良くなった。

 

 俺は台所に行く。

 

「おお、トラさん。おはよう」

 

 祖母がしゃがんで、俺の頭を撫でる。手が温かい。朝の水仕事で少し冷えているけど、中から温かさが伝わってくる。

 

「今朝はアジの干物を焼くからね。頭と骨はあんたにあげるよ」

 

 俺は祖母の脚にすり寄る。

 

 この人間は、昔の老女と同じことを言う。アジの頭と骨。俺の好物を知っているかのように。

 

「ばあちゃん」

 

 母親が起きてきた。寝間着のままだ。

 

「おはよう。よく寝られたかい」

 

「うん。久しぶりに、朝まで起きなかった」

 

「そりゃよかった。さあ、顔を洗っておいで」

 

 母親が洗面所に行く。俺はその後をついていく。いつもこうだ。誰かが動くたびに、俺も動く。見張っているわけじゃない。ただ、気になるんだ。

 

 洗面所から戻ると、ユイが起きていた。

 

「ねこちゃん、おはよう」

 

 寝ぼけた顔で俺を抱き上げようとする。俺はされるがままになる。

 

「ねこちゃん、あったかい」

 

 ユイは俺の腹に顔を埋める。

 

 くすぐったい。

 

 でも悪くない。

 

 ◆◆◆

 

 朝食のあと、母親と祖母が真剣な話を始めた。

 

 居間のちゃぶ台に向かい合って座っている。急須から湯気が立っている。ユイは縁側で折り紙をしている。俺はちゃぶ台の下で丸くなっている。

 

「お母さん、昨日の話なんだけど」

 

 母親が切り出す。

 

「ここに住む話か」

 

「はい。でも、やっぱり迷惑じゃないかと」

 

「だから迷惑じゃないって言ってるだろ」

 

 祖母の声は強い。

 

「あの男はもういないんだ。あんたが気を遣う相手はいないんだよ」

 

 あの男。ユイの父親のことらしい。祖母の声に怒りが混ざるたびに、その人間は良くない人間だったとわかる。

 

「それに、ユイちゃんのためにも、こっちのほうがいい。空気はきれいだし、学校も近い」

 

「そうですけど。仕事はどうするんです。こっちで見つかるか」

 

「仕事ならあるよ。隣町のスーパーがパートを募集してた。それに、私もまだ働ける。二人でやればなんとかなる」

 

 母親は黙っている。

 

「あんたは昔から一人で抱え込む癖がある。でもな、家族ってのは頼り合うものだよ」

 

 家族。頼り合う。

 

 俺はちゃぶ台の下で耳を立てる。

 

 猫の世界には家族がいない。子猫は育つと離れていく。親子でも、兄弟でも、縄張りが違えば敵同士だ。

 

 でも、ここの二本足は違う。

 

 頼り合うと言って、一緒に住むと言う。

 

 悪くない考えだ。

 

「決めたよ」

 

 母親が顔を上げた。

 

「ここに住む。ユイのためにも、そのほうがいい」

 

「そうか」

 

 祖母が笑う。その笑い声で、部屋の空気が軽くなる。

 

「よし、決まったら早いほうがいい。今日にでも役所に行って手続きをしよう。それから引っ越しの準備も」

 

「はい。アパートの片付けをしなきゃ」

 

 母親の声が、やっと力強くなる。

 

 俺はちゃぶ台から出て、伸びをする。

 

 決まったらしい。

 

 引っ越し。ここに住む。そういうことなら、俺のやることは変わらない。

 

 新しい縄張りで、新しい仕事をするだけだ。

 

 ◆◆◆

 

 その日の午後、俺は一人で祖母の家の周りを探索した。

 

 裏の竹藪。隣の空き地。前の道。水路のコンクリートの縁。どれも新しい匂いで満ちている。

 

 山が近いから、いろんな動物の匂いがする。狸。狐。それから雉。鳥の種類が多い。

 

 猫の匂いは少ない。夜に会った白猫と、あと数匹。みんな年寄りだ。若い猫はいない。山に移ったか、死んだか。

 

 縄張り争いの心配はなさそうだ。

 

 俺は水路のそばで立ち止まる。水の音がする。冷たい。飲める。

 

 顔を近づけて、水を舐める。うまい。都会の水よりずっとうまい。

 

「おや、あんたか」

 

 声がした。

 

 振り返ると、昨夜の白猫がいた。水路の石垣の上に座っている。

 

「ここが気に入ったか」

 

 白猫の声は相変わらずしわがれている。

 

「わからない。まだ来たばかりだ」

 

「そうか。まあ、ゆっくりすればいい。ここは時間がゆっくり流れている」

 

 白猫は目を細める。俺の後ろを見ているようだった。

 

「あんた、まだ都会の匂いがする。何か残してきたな」

 

「縄張りだ」

 

「縄張り。なるほど」

 

 白猫は特に驚かない。

 

「あんた、いくつだ」

 

「十歳だ」

 

「十歳か。私が知ってる限り、このあたりで十歳の猫は三匹しかいない。みんな山にいる。ここに来る猫は珍しい」

 

 白猫は空を見る。

 

「でも、悪くない選択だ。ここは安全だし、二本足も優しい」

 

 俺は何も言わない。

 

「その様子だと、あんたはまだ何か抱えているな」

 

「わからない。でも、まだ何かが終わっていない」

 

「そうか」

 

 白猫はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、一緒に水路の水音を聞いていた。

 

 しばらくして、白猫は立ち上がった。

 

「私はもう行く。年寄りは長く座ってられない」

 

「あんた、名前は」

 

 俺は尋ねた。猫に名前を聞くのは珍しい。でも、気になった。

 

「名前か。もう忘れたよ。みんな私をシロと呼ぶ」

 

「シロ」

 

「そうだ。白いからな。あんたは」

 

「トラだ」

 

「トラか。いい名前だ」

 

 シロはゆっくりと石垣を下りて、竹藪の中に消えた。

 

 俺は水をもう一口飲んで、家に戻った。

 

 ◆◆◆

 

 夕方、俺は母屋の縁側で丸くなっていた。

 

 ユイが隣に座って、俺の背中を撫でている。

 

「ねこちゃん、またね」

 

 ユイの声が少し寂しそうだ。

 

「なにが?」

 

「あした、おうちにかえるの。アパートに。にもつをとりにいくんだって」

 

 なるほど。荷物を取りに、一度アパートに戻るのか。

 

「それで、またここにもどってくるの。こんどはずっとここにすむんだって」

 

 ユイは俺を見る。

 

「ねこちゃんも、いっしょだよね」

 

 俺はユイの膝に顎を乗せる。

 

 もちろんだ。

 

「よかった」

 

 ユイは俺の耳の後ろを撫でる。

 

 夕日が庭の柿の木をオレンジに染めている。空気が冷えてきた。もうすぐ冬だ。

 

 今度の冬は、ここで越すことになる。

 

 悪くない。

 

 悪くはないと思う。

 

 ◆◆◆

 

 夜。

 

 家族が寝静まったあと、俺はまた縁側に座っている。

 

 月が庭を照らしている。今夜は満月だ。

 

 俺は決めた。

 

 明日、みんながアパートに戻る。

 

 そのときに、俺も自分の縄張りに行く。

 

 最後の仕事だ。

 

 茶トラに縄張りを渡す。きちんと区切りをつける。それから、もう一度だけ、あの街の匂いを嗅いでくる。

 

 十年の記憶を、鼻に焼き付ける。

 

 それで終わりだ。

 

「眠れないのか」

 

 声がした。

 

 振り返ると、祖母が立っていた。夜着を羽織っている。

 

「トイレに起きたら、あんたが月を見てるから」

 

 祖母は俺の隣に座る。床が少しきしむ。

 

「あんたは不思議な猫だね。ただの野良猫じゃない。何か事情があるんだろ」

 

 祖母の声は優しい。

 

「この家には昔、クロがいたんだ。クロも賢い猫でね。夜になると、いつもこうやって縁側に座って月を見てた」

 

 俺は祖母を見る。

 

「クロは十七年生きた。最後は私の膝の上で、静かに息を引き取った。苦しそうじゃなかった。満足そうな顔だった」

 

 祖母は俺の頭を撫でる。

 

「あんたも、いつかそうなるのかね」

 

 わからない。

 

 でも、どう死ぬかより、どう生きるかだ。

 

 俺は喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

「そうか。まあ、ゆっくりしなさい。ここはあんたの家でもあるんだから」

 

 祖母は立ち上がって、居間に戻っていった。

 

 俺はもう一度、月を見る。

 

 自分の家。

 

 そう言われて、少しだけ胸のあたりが軽くなった気がした。

 

 明日は長い一日になる。

 

 寝よう。

 

 俺はコタツの中のユイのそばに入り込む。ユイは寝言で「ねこちゃん」と言いながら、俺の背中に手を置いた。

 

 温かい。

 

 俺は目を閉じる。

 

 明日のことは明日考えよう。

 

 今はただ、この温かさの中で眠る。

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