灰被りの街で、猫は九度泣く 作:バスケ部キャプテン
朝だ。
ユイと母親はまだ寝ている。祖母は台所で弁当を作っている。今日は三人でアパートに戻る日だ。荷物をまとめて、本格的に引っ越すために。
俺は縁側で体を伸ばす。
今日が約束の日だ。茶トラとの三日の期限。今日で俺の縄張りは終わる。
俺は静かに家を出る。誰にも気づかれずに。
祖母だけが振り返ったような気がしたけど、呼び止めはしなかった。
外は曇りだ。雨は降っていない。でも空気が湿っている。午後には降るかもしれない。
俺は駅に向かう道を覚えている。匂いを辿ればいい。自分の足で来た道だ。間違えない。
◆◆◆
電車とバスを乗り継ぐのはできない。でも歩きならできる。
時間はかかる。半日以上かかるだろう。でも、それでいい。最後の道のりだ。急ぐ理由はない。
山を下りて、川沿いの道を歩く。車が横を通り過ぎる。排気ガスの匂いが強くなる。都会に近づいている。
途中、古い神社の前を通った。
狛犬の台座の上に、一匹の猫が寝ている。三毛猫だ。年は俺より少し若いくらい。俺を見て、ゆっくりとまばたきする。
「旅か」
三毛が声をかけてくる。
「そうだ」
「どこへ」
「縄張りを終わらせに行く」
「大変だな」
三毛はそれ以上何も聞かず、また目を閉じた。
神社を過ぎて、しばらく歩く。
足が少し痛む。右の前足はもう治ったけど、長く歩くと古傷がうずく。
でも気にしない。今日は特別な日だ。
◆◆◆
昼過ぎ、俺は自分の縄張りに着いた。
見慣れた裏通り。ゴミ置き場。塀の上。すべてが変わっていない。でも匂いが違う。俺の匂いが薄くなって、茶トラの匂いが強くなっている。
三日でこれだけ変わるのか。
それとも、俺がもうこの場所の主ではないからか。
「来たな」
塀の上から声がした。
茶トラだ。約束通り、待っていたらしい。
「ちゃんと来たんだな」
「約束だからな」
俺は塀に飛び乗る。茶トラの隣に座る。下には若い二匹のオスがいる。見張りだ。でも今日は喧嘩の気配はない。
「縄張りはくれてやる」
「そうか」
茶トラは俺を見る。
「あんた、本当にいいんだな。十年だぞ。俺なら死んでも手放さない」
「俺はもう、ここにはいない」
「どこに行く」
「遠くの山のふもとだ。二本足と一緒にな」
茶トラは黙った。それから、小さく息を吐いた。
「あんた、変わったな。最初に見たときは、ただの老いぼれかと思った。でも違う。あんたは強い」
「強くない。ただ、やりたいことをやってるだけだ」
「それが強いって言うんだよ」
茶トラは立ち上がる。
「廃工場の区域も、もらっていくぞ」
「ああ」
「ネズミが多いのは本当か」
「ああ。子猫を育てるなら、あそこが一番いい」
「子猫。そうだな、いつかできるかもな」
茶トラは少しだけ表情を和らげた。喧嘩猫の顔じゃない。若いけど、自分の縄張りを持とうとしている責任のある顔だ。
「あんた、名前は」
「トラだ」
「トラか。俺はチャコだ」
チャコ。
茶色いからか。単純な名前だ。
「チャコ。ひとつ頼みがある」
「なんだ」
「ここにはシマっていうメス猫がいる。耳が欠けてる。あいつに手を出すな」
「わかった」
「それと、ゴミ置き場の青いシートは、冬は風を防ぐ。剥がすな」
「了解だ」
「それから、この塀の三つ目の柱は少しぐらつく。気をつけろ」
「あんた、本当にここが好きだったんだな」
「好きだった。でももういい。行く」
俺は塀から飛び降りる。
「トラ」
チャコが呼び止める。
「また会えるか」
「わからない」
「そうか。元気でな」
「お前もな」
俺は裏通りを歩き出す。
振り返らない。
◆◆◆
廃工場に行く。
ここは俺が最初に子猫を育てた場所だ。老女が死んだあと、ここで何匹も育てた。みんな育って、みんな俺の前からいなくなった。
壁にはまだ俺の爪痕が残っている。匂いはもう薄いけど、確かに俺のものだ。
「来たのか」
シマが物陰から出てきた。
「ああ」
「茶トラ、来てたぞ。昨日も一昨日も。でも何もしなかった」
「約束したからな」
「約束。猫が猫に約束するなんて、あんたとあいつのくらいだ」
シマは俺のそばに来る。
「あんた、本当にこれで終わりか」
「終わりだ」
「寂しくなるな」
シマは俺の顔をじっと見る。
俺は何も言わない。代わりに、シマの頭をちょっとだけ舐めてやった。昔、助けたときにやったのと同じだ。
「なんだ、それ」
シマが少し照れたように耳を伏せる。
「お前、これからどうする」
「さあな。若い連中の下にはつけない。どこか別の場所を探す。あんたがいないなら、ここにいる理由はない」
「そうか」
「あんたは、幸せになれよ」
シマはそれだけ言って、廃工場の奥に消えた。
俺はしばらく、そこに立っていた。
幸せ。
猫に幸せなんてあるのか、わからない。
でも、悪くないと思う。
今の自分は、悪くない。
◆◆◆
俺の縄張りを一周する。
まずはゴミ置き場。
いつもの青いシートを爪で引っかく。ここで何年もメシを食った。いいものも悪いものもあった。雨の日も雪の日も、ここに来れば何かがあった。
次に塀の上。
ここは俺の道だ。端から端まで、何千回も歩いた。下の道路を見下ろして、二本足や車を眺めた。雀を待ち伏せしたこともあった。
それから小さな公園。
ベンチの下が俺の昼寝場所だった。今は誰かが段ボールを置いている。
そして老女の空き家。
ここが俺の本当の家だった。
空き家はまだあった。再開発の話はここまでは来ていないらしい。窓は割れたままだ。中は暗い。俺は塀の隙間から庭に入る。
老女が育てていた花はもう枯れている。でも土にはまだ、老女の匂いがかすかに残っている気がする。
俺はしばらく、庭の片隅に座っていた。
「帰ってきたぞ」
誰に言うでもなく、心の中で呟く。
声は出さない。
それで十分だ。
◆◆◆
夕方になった。
俺はアパートの前に来た。
サトウ家のドアの前だ。ユイと母親は中にいるはずだ。荷物をまとめているんだろう。
俺はドアの前で座って待つ。
しばらくして、中から足音がした。ユイの足音だ。軽くて、とんとんとリズムがある。
ドアが開く。
「ねこちゃん!」
ユイが叫ぶ。それから俺を抱き上げる。
「どこいってたの! しんぱいしたんだよ!」
ユイの声が震えている。泣きそうだ。
俺はされるがままだ。
「トラさん、戻ったの?」
母親も出てきた。手にはダンボール箱を抱えている。
「よかった。朝、急にいなくなってたから。ユイがずっと探してたのよ」
俺は母親の脚にすり寄る。
「もう大丈夫なんだな」
俺は喉を鳴らす。
ゴロゴロ。
「おかあさん、ねこちゃん、もういっしょだよ。ずっと」
ユイが俺をぎゅっと抱きしめる。
母親が笑う。
「そうだね。もう離れないでね、トラさん」
俺は何も答えない。代わりに、ユイの手を舐める。
ざらざらの舌で、ユイの指を舐める。
「くすぐったい!」
ユイが笑う。
その笑い声が、アパートの前に響く。
◆◆◆
夜。
荷物のほとんどは段ボールに詰め終わった。
ユイは疲れて布団に横たわっている。母親は最後の片付けをしている。
俺は窓辺に座っている。
今日で、すべてが終わった。
縄張りも。十年の記憶も。でも、悪くない。自分で決めたことだ。
後悔はしていない。
「トラさん」
母親がそばに来る。
「明日、引っ越し屋が来て、ここを出るの。それで、田舎に戻る。ずっと」
俺は母親を見上げる。
「あなたが来てくれて、本当に良かった。あなたがいなかったら、ユイはあの雨の夜にどうなってたかわからない」
母親は俺の頭を撫でる。
「ありがとう」
俺は目を細める。
礼を言われるようなことはしていない。
俺がやりたいからやっただけだ。
でも、悪くない。
そう言われるのも悪くない。
◆◆◆
深夜。
みんな寝ている。
俺はアパートの窓から外を見る。
月が出ている。満月から少し欠け始めた月だ。
この街とも明日でお別れだ。
十年。長かった。
いろんなことがあった。
老女が死んだ。子猫たちが育って去った。喧嘩で耳を失いかけた。飢えた冬もあった。それでも生きてきた。
そして、ユイに会った。
雨の夜だった。あの夜から、何かが変わった。
俺はまだ、何が変わったのか言葉にできない。
でも、違う。
確かに違う。
俺は窓辺から飛び降りて、ユイの布団のそばに行く。
ユイは寝ている。寝顔は安らかだ。もう震えていない。
俺はユイの枕元で丸くなる。
ユイが寝返りを打って、俺の背中に手を置く。無意識だ。それでも温かい。
俺は目を閉じる。
明日は新しい場所に行く。
知らない匂い。知らない道。知らない猫。
でも、怖くはない。
俺はもう一人じゃないからだ。