灰被りの街で、猫は九度泣く   作:バスケ部キャプテン

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夜明けの街

 引っ越しの朝が来た。

 

 空はまだ薄暗い。東の空がかすかに白み始めているだけだ。俺はアパートの窓辺に座って、外を見ていた。この窓から見る景色も、今日で最後だ。

 

 ユイはまだ寝ている。布団の中で小さく丸まっている。母親は台所で最後の荷造りをしている。ダンボールをテープで閉じる音が聞こえる。

 

「トラさん、起きてたの」

 

 母親が振り返る。

 

「今日でここともお別れだね」

 

 俺は窓辺から飛び降りて、母親の脚にすり寄る。この部屋の匂いも、もう嗅げなくなる。柔軟剤と、煙草と、味噌汁と、ユイの汗と、それからミケの古い匂い。

 

「寂しい?」

 

 母親が俺の頭を撫でる。

 

 寂しいかどうかはわからない。でも、ここは悪くない場所だった。

 

 俺は初めてこの部屋に来た日のことを思い出す。ユイが俺を抱き上げて離さなかった。母親がささみを茹でてくれた。ミケのクッションを出してくれた。

 

 たった数日だ。でも、ずっとここにいたような気がする。

 

 ◆◆◆

 

 午前八時。引っ越し屋が来た。

 

 軽トラックがアパートの前に停まる。作業着の男が二人、手際よく荷物を運び出していく。ダンボール、布団、テレビ、食器棚。

 

 部屋がどんどん空っぽになっていく。

 

 ユイは俺を抱いて、邪魔にならないように隅に立っている。

 

「ねこちゃん、おうち、なくなっちゃうね」

 

 ユイの声が少し寂しそうだ。

 

 俺はユイの腕の中で喉を鳴らす。

 

 ゴロゴロ。

 

 場所が変わるだけだ。俺たちは一緒だ。

 

「そうだね。トラさんがいるから平気だね」

 

 ユイは俺の耳の後ろを撫でる。子どもは敏感だ。俺の言いたいことが、なんとなくわかるらしい。

 

 ◆◆◆

 

 すべての荷物が運び出された。

 

 部屋はがらんどうだ。壁の跡。畳のへこみ。窓枠の傷。誰かがここに住んでいた証拠だけが残っている。

 

 ミケの爪痕も、柱に残ったままだ。

 

「最後に、お参りしよう」

 

 母親が部屋の真ん中に立つ。

 

 ユイと母親が手を合わせる。俺はその横で座っている。

 

「ありがとうございました」

 

 母親が深く頭を下げる。ユイも真似をする。

 

 俺はわからない。何に礼を言っているのか。家に礼を言う人間の習慣は、猫には理解できない。

 

 でも、悪い気分じゃない。

 

 何かに感謝できるというのは、たぶんいいことだ。

 

 俺も尻尾を立てて、部屋の中を一周した。自分の匂いをつけた場所を、鼻で確かめる。窓辺。クッションのあった場所。ユイの布団のあった場所。

 

 全部、俺の縄張りだった。

 

 さようなら。

 

 心の中で呟く。

 

 ◆◆◆

 

 アパートを出ると、外はすっかり明るくなっていた。

 

 雲は多いけど、ところどころ青空が見える。風が少し冷たい。

 

「さあ、行こうか」

 

 母親がユイの手を引く。俺はキャリーバッグに入れられて、母親の肩にかけられる。バッグ越しに外が見える。

 

 軽トラックが先に出発した。俺たちは駅まで歩く。

 

 いつもの道だ。

 

 ユイが迷子になった夜に歩いた裏通り。野良犬の縄張りを迂回した公園。酔っ払いから逃げ込んだ廃工場の前。

 

 全部、この数日で通った道だ。

 

 廃工場の前を通るとき、俺はバッグの中で耳を立てた。

 

 チャコの匂いがする。若い茶トラの匂いだ。もうここは奴の縄張りだ。

 

「ねこちゃん、どうしたの?」

 

 ユイがバッグを覗き込む。

 

 俺は小さく鳴く。

 

 なんでもない。ただの挨拶だ。

 

 チャコは姿を見せなかった。でも、塀の向こうから俺たちを見ている気配がした。

 

 元気でな。

 

 俺は心の中で言う。

 

 ◆◆◆

 

 駅に着いた。

 

 今日は平日だから、人は少ない。改札を通って、ホームに降りる。電車はすぐに来た。

 

 車内は空いている。三人で座れた。俺はユイの膝の上で、バッグから顔を出している。

 

 電車が走り出す。

 

 窓の外の景色が流れていく。ビル。住宅。川。畑。だんだん建物が少なくなっていく。

 

 俺はこの道を覚えている。一昨日、歩いた道だ。あのときは足が痛んだ。今はこうして座っている。楽なものだ。

 

 一時間ほどで、見慣れた駅に着いた。

 

 祖母の家の最寄り駅だ。改札を出ると、田んぼの向こうに山が見える。空気が違う。土と草の匂いがする。

 

「トラさん、もう少しだよ」

 

 母親がバッグを揺らしながら歩く。

 

 ◆◆◆

 

 祖母の家に着いた。

 

 軽トラックが先に着いていて、荷物が庭に並べられている。祖母が作業着の男たちにお茶を出している。

 

「おかえり!」

 

 祖母がこちらに気づいて、大きな声を出す。

 

「ただいま」

 

 母親が笑う。ユイも「ただいま!」と叫ぶ。

 

 俺はバッグから出て、地面に降りる。

 

 見慣れた庭。柿の木。縁側。古い匂い。

 

 ここに戻ってきた。

 

「トラさんもおかえり」

 

 祖母がしゃがんで、俺の頭を撫でる。

 

 俺は祖母の脚にすり寄る。

 

 ただいま。

 

 口には出さないけど、そう思う。

 

 ◆◆◆

 

 引っ越しの片付けは一日かかった。

 

 母親と祖母が荷物を運び入れ、ユイは邪魔にならないように縁側で遊んでいる。俺は邪魔にならないようにコタツの中に入っている。

 

 荷物のほとんどは、この家の押し入れにしまうらしい。元々あった祖母の荷物と合わせて、家の中が少しだけ狭くなった。

 

 でも、悪くない。むしろ、前より温かく感じる。

 

「これで終わりだね」

 

 夕方、母親が疲れた顔で座り込んだ。

 

「お疲れさま。今日はもう何もするな。私が夕飯を作るから」

 

 祖母が台所に立つ。

 

 ユイがコタツの中の俺を覗き込む。

 

「ねこちゃん、ひっこしおわったよ。もうここがおうちだよ」

 

 俺はユイの手を舐める。

 

 知っている。

 

 ここが新しい縄張りだ。

 

 ◆◆◆

 

 夜。

 

 夕飯は煮魚と味噌汁と、祖母特製の卵焼きだ。卵焼きは砂糖が多めで、ユイが喜んで食べている。俺は煮魚のほぐし身をもらった。

 

 食後、ユイは疲れてすぐに寝てしまった。母親も祖母も、茶の間で細々とした話をしている。役所の手続きや、学校の転入や、仕事のこと。

 

 俺は縁側に座っている。

 

 月が庭を照らしている。柿の木の枝が風で揺れている。遠くでフクロウが鳴いている。都会では聞こえなかった声だ。

 

 ここは静かだ。

 

 危険が少ない。野良犬もいない。車も少ない。大きな通りは遠い。子猫を育てるなら、こういう場所がいい。

 

 いや、もう子猫は育てない。

 

 俺はもう歳だ。これ以上、子猫を育てる体力はない。

 

 でも、ユイがいる。

 

 ユイを育てる。それが俺の仕事だ。

 

「まだ起きてたのか」

 

 声がした。

 

 縁側の下から、シロが顔を出す。白い老猫だ。

 

「ああ」

 

「引っ越し、終わったのか」

 

「終わった」

 

「そうか。落ち着いたな、あんたの顔」

 

 シロは縁側に飛び乗って、俺の隣に座る。

 

「そうかもな」

 

「あの都会の匂いが薄くなって、ここの匂いがついてきた。いいことだ」

 

 シロは月を見上げる。

 

「あんた、これからどうする」

 

「どうもしない。ここにいる」

 

「ずっとか」

 

「ずっとだ」

 

 シロはしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと立ち上がった。

 

「そうか。なら、たまに話し相手になれよ。このあたりは年寄りばかりで、話す相手がいなくてな」

 

「ああ」

 

 シロは軽く尾を振って、縁側から庭に降りた。月明かりの下を、ゆっくりと歩いていく。

 

「おやすみ、トラ」

 

「おやすみ、シロ」

 

 ◆◆◆

 

 シロが去ったあと、俺はしばらく庭を眺めていた。

 

 考えている。

 

 あの雨の夜から、一週間が経った。

 

 たった一週間だ。でも、十年分くらいのことがあった気がする。

 

 ユイと出会った。廃工場で雨宿りした。酔っ払いから守った。朝まで温めた。それからずっと、一緒にいる。

 

 縄張りを失った。古い仲間に別れを告げた。新しい場所に来た。

 

 何かを手放して、何かを手に入れた。

 

 これでよかったのかどうかは、わからない。

 

 でも、悪くない。

 

 今の自分は、悪くないと思う。

 

「トラさん」

 

 後ろから声がした。

 

 母親だ。夜着を着て、縁側に出てきた。

 

「まだ起きてたの。寒くない?」

 

 俺は母親を見上げる。

 

「私、あの日、本当にどうしようもなくて。立ち退きのことで頭がいっぱいで、ユイのことちゃんと見てなくて。あの子が迷子になったのも、私のせいなの」

 

 母親は俺の隣に座る。

 

「あなたがユイを見つけてくれなかったら、どうなってたかわからない。本当にありがとう」

 

 俺は黙っている。

 

「私、この家で生まれ育って、一度は出て行ったんだけど、結局戻ってきちゃった。情けないと思ってた。でも母さんが言うには、戻るのも勇気がいるんだって」

 

 母親は笑う。

 

「まあ、そういうことにしとくよ。トラさん、これからもよろしくね」

 

 俺は母親の膝に頭を乗せる。

 

 もちろんだ。

 

 ◆◆◆

 

 深夜。

 

 母親が寝て、家の中が静かになった。

 

 俺はユイの布団のそばに行く。

 

 ユイはぐっすり寝ている。疲れたんだろう。一日中、引っ越しの手伝いをしていたからな。

 

「ねこちゃん」

 

 寝言だ。ユイが俺の名前を呼んだ。

 

 俺はユイの枕元で丸くなる。

 

 ユイの手が伸びて、俺の背中に触れる。無意識の仕草だ。でも、その手は温かい。

 

 俺は目を閉じる。

 

 明日から、新しい日々が始まる。

 

 学校に行くユイを見送って、母親の仕事を見守って、祖母の畑仕事についていく。シロと話をして、庭の雀を眺めて、縁側で昼寝をする。

 

 そういう日々になるだろう。

 

 悪くない。

 

 むしろ、いい。

 

 俺は尻尾を鼻の上に乗せて、丸くなる。

 

 外では風が柿の木を揺らしている。遠くでまたフクロウが鳴いている。

 

 静かな夜だ。

 

 もうすぐ冬が来る。この山のふもとは雪が降るかもしれない。ユイは雪を見たことがあるだろうか。

 

 まあ、そのときに考えればいい。

 

 今はただ、眠ろう。

 

 俺は家族の寝息を聞きながら、目を閉じた。

 

 ◆◆◆

 

 明け方。

 

 外がかすかに明るくなっている。雨の匂いがする。今日は降るかもしれない。

 

 俺は縁側に出て、庭を見る。

 

 柿の木の葉が、朝の風で揺れている。もうすぐ実が色づく頃だ。

 

 この家には、いろんな匂いがする。

 

 祖母の線香。母親の煙草。ユイの汗。それからミケの古い匂い。クロの古い匂い。俺の匂いも、少しずつこの家に染みつき始めている。

 

 これが家族の匂いなのかもしれない。

 

 猫には家族の概念はない。でも、ここにいると、それが何かわかる気がする。

 

 空が白から水色に変わる。鳥が鳴き始める。雀だ。この庭には雀が多い。祖母が餌を撒いているからだ。

 

 俺は雀を狩らない。決めている。この庭の雀は、祖母のものだ。

 

 それに、もう狩りに必死になる必要もない。

 

 俺には家族がいる。

 

 人間の家族だ。

 

 十歳の猫が持つには、もったいないくらいのものだ。

 

 俺は縁側から飛び降りて、庭の柿の木の根元に行く。

 

 新しい縄張り。新しい匂い。新しい仕事。

 

 少しだけ、自分の匂いをつけておく。

 

 ここは俺の場所だ。

 

 ここは俺たちの場所だ。

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