灰被りの街で、猫は九度泣く   作:バスケ部キャプテン

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星を見たか

冬が来た。

 

山のふもとは雪に覆われた。庭の柿の木に白いものが積もっている。空気が冷たい。吐く息が白く濁る。

 

俺はコタツの中からほとんど出ない。祖母が朝一番にコタツのスイッチを入れてくれる。それを知っているから、俺は毎朝、祖母の足音が台所に行くのを待って、それからコタツの前に座る。

 

「トラさん、寒いねえ。もっと入れとくれ」

 

祖母がコタツの布団をめくってくれる。俺は中に潜り込んで、丸くなる。これが冬の定位置だ。

 

ユイは学校に行き始めた。小学校一年生。ランドセルを背負って、長靴を履いて、雪道を歩いていく。母親が途中まで送っていく。俺は窓辺に飛び乗って、二人の背中を見送る。

 

「ねこちゃん、いってきます!」

 

ユイが振り返って手を振る。俺は尻尾を立てて応える。

 

いってこい。

 

夕方になると、ユイが帰ってくる。ランドセルを置いて、コタツの中の俺を探す。

 

「ねこちゃん、きょうね、がっこうでね」

 

ユイは毎日、学校であったことを俺に話す。俺は目を閉じて、ユイの声を聞いている。言葉の意味はわからない。でも声の調子で全部わかる。嬉しかったこと、悔しかったこと、困ったこと。

 

話し終えると、ユイは俺の背中を撫でながら宿題を始める。俺はその横で寝ている。

 

悪くない冬だ。

 

◆◆◆

 

正月が過ぎた。

 

祖母が餅を焼いてくれた。俺にも小さくちぎったのをくれた。うまい。でも少し歯にくっつく。

 

シロが久しぶりに顔を見せた。

 

「あけましておめでとう、と言うんだったか。二本足の挨拶は面倒だな」

 

シロは縁側の屋根の下で雪を避けながら言う。

 

「今年もよろしく、だ」

 

俺は答える。

 

「ああ、よろしく。あんた、正月太りしたんじゃないか」

 

「してない」

 

「そうか。まあ、この寒さじゃ動けないのもわかる」

 

シロはあくびをした。

 

「春になったら、裏山に登ろうと思ってる。もう一度、あの岩の上から景色を見たいんだ」

 

シロは今年で十三歳だ。猫としては長生きの部類に入る。

 

「山か。俺も昔はよく登った」

 

「一緒に来るか」

 

「考えとく」

 

俺は答えた。でもたぶん、行かないと思う。俺の場所はここだ。

 

◆◆◆

 

雪が溶けて、梅が咲いた。

 

庭の隅にある古い梅の木に、白い花がつく。いい匂いがする。俺は久しぶりに外に出て、梅の木の下で日向ぼっこをする。

 

ユイは二年生になる準備をしている。春休みの宿題を縁側で広げている。

 

「ねこちゃん、ちょっとむずかしい」

 

ユイが算数のドリルを俺に見せる。俺は鼻を近づける。紙の匂いと鉛筆の匂い。数字はわからない。

 

「がんばれ」

 

俺はユイの手を舐める。

 

ユイは笑って、また鉛筆を握る。

 

◆◆◆

 

春が終わる頃、祖母が倒れた。

 

夕飯の片付けの最中に、台所で突然しゃがみ込んだ。母親が慌てて駆け寄り、救急車を呼んだ。

 

俺はユイと一緒に居間で待っていた。ユイは泣きそうな顔で、俺をぎゅっと抱きしめていた。

 

「おばあちゃん、だいじょうぶかな」

 

大丈夫だ。

 

俺はそう思うことにした。

 

祖母は一週間、入院した。その間、母親は病院と家を往復した。ユイは学校から帰ると、一人で俺と留守番をした。

 

「ねこちゃん、おばあちゃん、はやくかえってくるといいね」

 

俺はユイの膝の上で喉を鳴らす。

 

ゴロゴロ。

 

◆◆◆

 

祖母が戻ってきた。

 

少し痩せた。歩くのが遅くなった。でも、台所にはまた立つようになった。

 

「心配かけたねえ」

 

祖母は俺の頭を撫でる。

 

俺は祖母の脚にすり寄る。前より大事に、ゆっくりとすり寄る。

 

もう無理はするな。

 

「トラさんは優しいねえ」

 

◆◆◆

 

夏が来た。

 

柿の木に青い実がなる。蝉がうるさい。俺は日中はずっと縁側の日陰で寝ている。

 

ユイは夏休みだ。毎日、庭で水遊びをしている。母親がビニールプールを出してくれた。

 

「ねこちゃんもはいろう!」

 

誘われたが、遠慮した。水は嫌いだ。

 

夕方になると、ユイは浴衣に着替えて、母親と祖母と一緒に近所の盆踊りに行く。俺は家で留守番だ。

 

夜、三人が帰ってくる。

 

「トラさん、ただいま。これ、おみやげ」

 

ユイがりんご飴のかけらをくれた。飴は甘すぎるから舐めるだけにした。

 

◆◆◆

 

秋が来た。

 

柿が色づいた。祖母が脚立に乗って収穫する。母親が下で支えている。ユイは落ちてくる柿を拾う係だ。俺はそれを縁側から眺めている。

 

「トラさん、柿は食べられないよね」

 

ユイが言う。

 

食べられないこともないが、別に好きじゃない。俺は魚がいい。

 

夕飯に秋刀魚が出た。俺は頭と骨と、少しの身をもらった。うまい。

 

秋刀魚の塩焼きは、俺の一番の好物だ。

 

◆◆◆

 

冬がまた来た。

 

去年と同じ雪。同じコタツ。同じ日向ぼっこ。

 

でも、少しだけ違うことがある。

 

俺はコタツから出る時間が少なくなった。食欲も少し落ちた。若い頃みたいには食えなくなっている。

 

歳だ。

 

もうすぐ十一歳になる。猫の十一歳は、人間で言えばかなりの年寄りだ。

 

「トラさん、最近あんまり食べないね」

 

母親が心配そうに俺を見る。

 

俺は食べられる分だけ食べる。それで十分だ。

 

ユイは三年生になった。背が伸びた。俺を抱き上げるとき、前よりもしっかりしている。

 

「ねこちゃん、かるくなった?」

 

軽くなったのは俺のほうだ。

 

でも言わない。

 

◆◆◆

 

年が明けて、また梅が咲いた。

 

シロが山に登ると言って、約束通り誘いに来た。

 

「トラ、一緒に行くか」

 

俺は首を振った。

 

「ここでいい」

 

「そうか。じゃあ、行ってくる」

 

シロはゆっくりと庭を横切って、竹藪の中に消えた。

 

それっきり、シロは戻ってこなかった。

 

たぶん、山の上で死んだんだと思う。岩の上から景色を見て、そのまま眠ったんだろう。

 

悪くない最期だ。

 

俺は縁側で、シロが消えた竹藪をしばらく眺めていた。

 

さようなら、シロ。

 

◆◆◆

 

春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎた。

 

俺は十二歳になった。

 

もうあまり歩かない。縁側とコタツと、ユイの布団の上だけが俺の場所だ。

 

目が少し白く濁ってきた。遠くのものが見えにくい。でも、匂いと音はまだはっきりと感じる。

 

ユイの声。母親の足音。祖母の味噌汁の匂い。

 

それだけで十分だ。

 

◆◆◆

 

ある冬の夜。

 

外は雪が降っている。

 

俺はユイの布団の中で丸くなっていた。ユイはもうすぐ四年生になる。寝顔は、あの雨の夜と変わらない。でも、ずいぶん大きくなった。

 

体が重い。

 

息が浅い。

 

ああ、今夜かもしれない。

 

俺は静かに布団から抜け出した。ユイは気づかない。

 

縁側に向かう。足が震える。でも歩ける。

 

ガラス戸の前に座る。

 

外は雪だ。月は見えない。でも、雪が光を反射して、庭がぼんやりと明るい。

 

柿の木に雪が積もっている。梅の枝にも。祖母が作った小さな畑にも。

 

きれいだ。

 

俺はそう思う。

 

きれいだと思うのは、猫として変なのかもしれない。でも今は、そう感じる。

 

俺は目を閉じる。

 

思い出すのは、老女の膝の上だ。

 

ずっと昔、俺がまだ子猫だった頃。老女は俺を膝に乗せて、耳の後ろを撫でてくれた。あの温かさ。

 

それから、ユイの手だ。

 

あの雨の夜、廃工場で俺にしがみついてきた小さな手。温かかった。震えていたけど、温かかった。

 

母親の手。祖母の手。

 

みんな温かかった。

 

俺は野良猫だった。十年間、一人で生きてきた。人間に捨てられて、人間を信じなくなって、でも結局、また人間と一緒にいる。

 

それが俺の人生だ。

 

悪くなかった。

 

悪くない人生だった。

 

俺はゆっくりと横になる。

 

体が冷たい。でも、不思議と寒くない。

 

遠くでフクロウが鳴いている。雪の音が静かに降り積もる。

 

俺は最後に、もう一度だけ庭を見る。

 

雪の上に、猫の足跡がついている。シロだろうか。それとも、昔の自分だろうか。

 

わからない。

 

でも、悪くない景色だ。

 

俺は目を閉じる。

 

そして、息を止める。

 

痛くない。

 

ただ、眠い。

 

◆◆◆

 

朝が来た。

 

「ねこちゃん?」

 

ユイの声が家の中に響く。

 

「ねこちゃん、どこ?」

 

ユイが居間に行き、台所に行き、それから縁側のガラス戸の前に立つ。

 

「ねこちゃん」

 

ユイはガラス戸を開ける。

 

冷たい空気が流れ込む。

 

縁側に、トラが横たわっていた。

 

雪が少しだけ、トラの毛に積もっている。でも顔は安らかだった。目を閉じて、前足を揃えて、まるで寝ているみたいだった。

 

「ねこちゃん」

 

ユイはしゃがんで、トラの頭を撫でた。

 

冷たい。

 

でも、まだ柔らかい。

 

「かあさん! おばあちゃん!」

 

ユイの声を聞いて、母親と祖母が駆けつける。

 

「トラさん」

 

母親がトラの体をそっと抱き上げる。軽い。前よりずっと軽い。

 

「眠ってるみたいだね」

 

祖母が言う。

 

「うん。苦しそうじゃない」

 

ユイは泣いていた。でも、泣きながら笑っていた。

 

「ねこちゃん、ありがとう」

 

ユイはトラの額に自分の額をくっつける。トラがいつもやってくれたように。

 

◆◆◆

 

庭の柿の木の下に、小さな墓ができた。

 

祖母が石を置いて、母親が花を植えた。ユイはトラが好きだった秋刀魚の缶詰を供えた。中身は人間が食べて、空き缶だけ。

 

「トラさんは、ここで眠るんだね」

 

ユイが墓の前にしゃがむ。

 

「ユイのこと、ずっと見ててくれるよ」

 

母親がユイの肩を抱く。

 

「うん」

 

ユイは手を合わせる。

 

冬の日差しが、柿の木の裸の枝を通して、墓の上に落ちている。

 

風が吹く。

 

どこかで猫の声がした気がした。

 

でも、姿は見えない。

 

◆◆◆

 

春が来た。

 

柿の木に新芽が出る。梅が散って、桜が咲く頃。ユイは四年生のクラス発表を見に行った。新しいランドセルカバーをつけて、元気に走っていく。

 

その日、庭に見慣れない猫がいた。

 

子猫だ。

 

まだ三ヶ月くらい。茶色と白のぶち。首輪はない。野良だろうか。

 

子猫は柿の木の下で、トラの墓の前で座っていた。

 

「ねこだ」

 

ユイが気づいて、ゆっくり近づく。

 

「おいで。怖くないよ」

 

子猫はユイを見て、それから走り去ろうとした。

 

でも、振り返る。

 

ユイがしゃがんで手を差し伸べている。

 

子猫は迷っている。

 

「ごはん、いる?」

 

ユイが台所から、トラの残りのカリカリを持ってきた。小皿に入れて、地面に置く。

 

子猫は警戒しながら近づいて、カリカリの匂いを嗅ぐ。

 

それから、少しずつ食べ始めた。

 

「おいしい?」

 

ユイが静かに見守る。

 

子猫は食べ終わると、ユイの手の匂いを嗅いだ。それから、おそるおそるユイの指に顔をこすりつける。

 

「くすぐったい」

 

ユイが笑った。

 

母親が縁側からそれを見ている。

 

「また猫を飼うの?」

 

「だって」

 

「まあ、いいか。トラさんも許してくれるよ」

 

◆◆◆

 

夕方、子猫はユイの膝の上で寝ている。

 

「名前、どうする?」

 

ユイが母親に聞く。

 

「そうだねえ」

 

母親は少し考えて、笑った。

 

「トラさんにちなんで、ちょっとだけ似てる名前にしようか」

 

「トラ?」

 

「ううん。星がいい。トラさん、最後に星を見てたかもしれないでしょ」

 

「星。ホシかあ」

 

ユイは子猫の背中を撫でる。

 

「ほしちゃん。よろしくね」

 

子猫──ホシは、ユイの膝の上で喉を鳴らし始めた。

 

ゴロゴロ。

 

縁側のガラス戸の向こうで、祖母が線香をあげている。

 

線香の煙が、柿の木のほうへ流れていく。

 

トラの墓の上で、煙がゆっくりと渦を巻いて、それから空に消えた。

 

空は夕焼けに染まっている。

 

星はまだ見えない。

 

でも、もうすぐ夜が来る。

 

夜が来れば、星が見える。




最後までお読みいただき、ありがとうございました。

この作品は、一匹の老猫と迷子の少女が織りなす、たった数日間の物語です。
猫のトラは言葉を話しません。派手な能力もありません。ただ、自分の鼻と耳と、そして長い野良暮らしで培った経験だけを頼りに、小さな女の子を守ろうとします。

もしこの物語が、あなたの心に少しでも残るものがあったなら、ぜひお気に入り登録と高評価をお願いします。
感想やレビューも、どんなに短くても構いません。作者の大きな励みになります。

トラとユイの旅はここで終わりますが、彼らが過ごした時間が、読んでくださったあなたの中に残ることを願っています。

それでは、また次の作品でお会いしましょう。

ありがとうございました。
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