恋愛依存度が視える私の前で、君の数字は∞を表示している   作:濱崎

1 / 1
第1話

 教室には数字があふれている。

 

 黒板の前に立つ教師の頭上に「12」、隣の席の女子に「34」、窓際の男子に「8」。どの数字も、私に向けられた好意の大きさだ。0から100まで。100を超えた数字は、見たことがない。

 

 私は日向真昼。人の感情が数字で視える。

 

 だから教室ではいつも俯いている。誰とも目を合わせない。笑顔も最小限。会話は必要最低限。そうしないと、数字が勝手に上がっていくからだ。先週、美術の授業で消しゴムを拾ってあげた隣の子は、それだけで34から58になった。先月、放課後に少し話したバスケ部の先輩は、三日で89まで跳ねた。みんな、私に期待しすぎる。私が何かを与えられる人間だと、勝手に思い込む。

 

 でも違う。私はただ、普通にしたいだけだ。

 

 昼休み、私はいつものように図書室のカウンターに座っていた。図書委員の仕事は楽だ。本は数字を持たない。利用者は少ない。たまに来る生徒も、本を借りたらすぐ出ていく。数字が上がる前にいなくなる。

 

 今日も平穏に終わるはずだった。

 

「ここ、空いてる?」

 

 声がして顔を上げる。

 

 一人の生徒が、カウンターの前に立っていた。銀の髪を耳の高さで切りそろえ、背筋を伸ばしている。男子の制服を着ているが、体の線は細く、喉仏もない。女子だ。転校生だろうか。見覚えがない。

 

 私は反射的に相手の頭上を見る。数字を確認するクセが染みついている。

 

 数字は。

 

 視界がぐにゃりと歪んだ。

 

 ∞。

 

 表示は確かにそう読める。0でも100でもない。無限大記号。目を何度瞬いても、数字は変わらない。眩暈がした。胃の奥から何かがせり上がってくる。手で口を押さえる。

 

「どうかした?」

 

 彼女は小首をかしげた。声は低めで、落ち着いている。

 

「……なんでも、ないです」

 

 私はカウンターに視線を落とした。心臓が早鐘を打つ。∞ってなんだ。100を超えた先にあるものなのか。そんな数字、見たことがない。だって100だって見たことがないのに。

 

「図書室の利用、初めてで。何かカードが必要?」

 

 彼女は私の動揺に気づかない様子で、淡々と尋ねてくる。

 

「学生証があれば……」

 

 声が震えそうになるのを抑える。私は無理に営業スマイルを作った。口角を上げて、目を細めて、相手を安心させるための顔。何百回も練習した表情だ。

 

 彼女が学生証を差し出す。受け取ろうとして、指先が触れた。

 

 瞬間。

 

 今度ははっきりと、目の前が暗くなった。吐き気と眩暈が同時に襲う。椅子から転げ落ちそうになり、カウンターに手をつく。学生証が床に落ちて、プラスチックの硬い音が響いた。

 

「……ごめん、ちょっと」

 

 私はしゃがみこんだまま、深呼吸を繰り返す。頭の中であの∞が点滅している。こんな身体症状は初めてだ。今まで80や90を見ても、何ともなかったのに。100を超えた数字は、こんなに重いのか。

 

「体調が悪そう。保健室に行く?」

 

 彼女はカウンター越しに私を覗き込んだ。心配そうな声とは裏腹に、その目は静かで、何を考えているのか読み取れない。

 

 私は首を振る。

 

「大丈夫です。少し、立ち眩みがしただけで」

 

 床に落ちた学生証を拾い上げる。震える指でバーコードを通し、貸出手続きをする。彼女が借りようとしたのは、心理学の入門書だった。『依存と愛情の境界線』。タイトルを見て、余計に気分が悪くなった。

 

「ありがとう」

 

 彼女は本を受け取ると、去ろうとはしなかった。その場に立ったまま、じっと私を見ている。

 

「名前、聞いても?」

 

「……日向、です」

 

「下の名前は?」

 

 普通なら「図書委員」で会話は終わる。名前を尋ねられたことはこれまでも何度かあるが、下の名前まで聞かれたことはあまりない。私は少し迷ってから答えた。

 

「真昼です」

 

「まひる」

 

 彼女はその名前を口の中で転がすように繰り返した。それから微笑んだ。初めて見せる表情だったのに、どこかで見たことがある気がした。

 

「私は東雲氷華。今日からこの学園の一年。よろしく」

 

 よろしく、と言われても。私は曖昧にうなずいた。早く立ち去ってほしい。あの数字を見つめていると、また眩暈が起きそうだ。

 

「また来るね」

 

 彼女はそう言い残して、今度こそ図書室を出ていった。

 

 私はカウンターの椅子に座り込み、大きく息を吐く。手のひらには汗が滲んでいた。制服のスカートで拭う。心臓がまだ落ち着かない。

 

 ∞。

 

 あれは一体なんなのか。好意の数値であるはずの依存度が、どうして無限大になる。そんなものはもう、好意とは呼べない。執着や妄念の類いだ。それとも、私の能力が初めての数値にバグを起こしただけなのか。

 

 そうであってほしい、と思った。

 

 翌日、彼女は本当にまた図書室に現れた。

 

 しかも今度は、私のクラスに編入してきた。

 

 担任が彼女を紹介する。教室がざわめいた。男子も女子も、一様に彼女に見惚れている。無理もない。背が高く、手足が長く、制服の着こなしも完璧だ。何より、その顔立ちは整いすぎていて、同じ人間とは思えない。

 

 彼女は簡単な挨拶を済ませると、空いていた席に着いた。私の三つ後ろの席だ。席に着く前に、一瞬だけ私の方を向いた。目が合う。彼女は口元だけで笑った。私は慌てて前を向いた。

 

 また数字が動いた気がした。確認する勇気はない。

 

 昼休み、私はいつも通り図書室へ向かおうとして、廊下で呼び止められた。

 

「真昼さん」

 

 振り返るまでもない。あの落ち着いた声は、東雲氷華だ。

 

「一緒にご飯、食べない?」

 

 彼女はそう言って、購買のパンが入った袋を掲げた。

 

 私は断る理由を探した。図書委員の仕事がある、お弁当はもう食べた、お腹が痛い。いくらでも嘘は思いつく。

 

 でも、口から出たのは別の言葉だった。

 

「……わかりました」

 

 なぜ承諾したのか、自分でもわからなかった。ただ、断ることの方が怖かったのかもしれない。あの数字の持ち主に、拒絶の意思を示すことが。

 

 私たちは中庭のベンチに並んで座った。彼女は焼きそばパンを食べながら、私に質問を重ねる。好きな教科、休日の過ごし方、家族構成。どれも他愛ない内容だ。でも彼女の質問の仕方は、一つ一つの答えを吟味するようで、どこか尋問じみていた。

 

「真昼さんは、いつも誰かと食べてるの?」

 

「……いつも、一人です」

 

「そうなんだ。友達は?」

 

「いますけど、あまり一緒には」

 

 私は曖昧に答えた。幼なじみの杏奈は、私が昼休みに図書室に籠もるのを知っているから、誘ってこない。

 

「じゃあ、私が一緒にいてもいいよね」

 

 彼女はそう言って、パンの最後の一口を口に放り込んだ。許可を求めているようで、決定事項のように聞こえる言い方だった。

 

 その日の放課後も、彼女は図書室に来た。

 

「毎日来るんですか」

 

「毎日来るよ。本が好きだから」

 

 嘘だ。彼女が手に取る本は、いつも心理学か哲学の難しいものばかりで、明らかに読みかけのまま返却している。本を読むのが目的ではない。ここに来ることが目的なのだ。

 

 そして四日目の放課後。

 

 図書室の閉館時間が過ぎ、私はカウンターの後片付けをしていた。返却本を書架に戻し、机の上の消しゴムのカスを集め、窓を閉める。いつもの日課。あと十分もすれば、寮に帰れる。

 

「真昼さん」

 

 突然背後から声がして、心臓が跳ねた。

 

 振り返ると、東雲氷華がカウンターのすぐ前に立っていた。閉館時間は過ぎている。とっくに追い出したはずだ。

 

「どうしてまだ」

 

「話したいことがあるの。ちょっとだけ、いい?」

 

 彼女はそう言うと、私の返事を待たずに近づいてきた。私は無意識に一歩後退する。背中が書架に当たった。

 

「話って……なんですか」

 

 私の声は上ずっていた。視界の端に、彼女の数字がちらつく。あれからずっと確認していなかったのに、今ははっきりと見える。∞は変わらずそこにあった。そして、よく見ると微動だにしていない。普通、人の好意は会話や仕草で少しずつ上下するものだ。でも彼女の数字は、完全に固定されている。

 

「真昼さんは、どうしてそんなに私を避けるの?」

 

 彼女は首をかしげた。その目は相変わらず静かで、感情の色が薄い。

 

「避けてなんか……」

 

「避けてるよ。私が話しかけると俯くし、目も合わせない。でもね、他の人にはもっと冷たいよね」

 

 彼女の観察眼に、背筋が冷たくなった。

 

「私はただ、人と深く関わりたくないだけです」

 

「どうして?」

 

「答える義務はないと思います」

 

 私はきっぱりと言った。これまで誰にも、能力のことは話していない。話せるわけがない。話したところで信じてもらえないし、信じてもらえたらもっと面倒なことになる。

 

「そう」

 

 彼女は少しだけ笑った。今度は目が笑っていなかった。

 

「じゃあ、これは義務じゃなくて、お願い。ちょっと来てほしいところがあるの」

 

「どこにですか」

 

「旧音楽室。ここから近いよ」

 

 旧音楽室。今は使われていない、校舎の端にある教室だ。なぜそんなところに。

 

「行きません」

 

「どうしても?」

 

 彼女は一歩、距離を詰めた。私の真ん前に立つ。身長差は十センチ以上ある。見下ろされる形になり、私はさらに後ろに下がろうとした。でも書架が邪魔で、もう下がれない。

 

「私は、真昼さんのことをもっと知りたいだけなんだ」

 

 声はあくまでも柔らかい。でも何かが違う。柔らかさの裏側に、絶対に押し通すという硬い意志があった。

 

「あなたは」

 

 私は震える声で言った。

 

「あなたは、私の何を知ってるっていうんですか。会ってまだ四日です。名前とクラス以外、何も知らないじゃないですか」

 

「知ってるよ」

 

 彼女は即答した。

 

「真昼さんが、誰にも本心を見せないこと。誰とも深く関わらないこと。いつも教室で俯いていること。図書室に籠もっていること。私が話しかけると、目を合わせないこと。笑顔が全部、作り物だってこと」

 

 最後の言葉で、私は固まった。

 

「全部、わかってる。だから知りたいんだ。どうして真昼さんが、そんなふうに生きてるのか」

 

 彼女は手を伸ばし、私の頬に触れた。指先はひんやりと冷たい。

 

「私はね、真昼さんと同じなんだと思う」

 

 声のトーンが、初めて変わった。柔らかさの下から、別の感情が滲み出る。

 

「誰にも期待しないところ。誰にも本心を見せないところ。完璧な仮面を被って、毎日をやり過ごしてるところ」

 

 彼女の親指が、私の目の下をそっとなぞった。クマができているのを、見抜かれている。

 

「でも真昼さんは、私の仮面を一瞬で剥がした」

 

「……何を言ってるんですか」

 

「入学式の日、覚えてる? 私が転校してきた日。教室でみんなが好奇の目を向ける中、真昼さんだけが私を見なかった。どうでもいいって顔で、窓の外を見てた。私に期待してなかった。それが、どれだけ嬉しかったか」

 

 彼女の目が、わずかに揺れた。

 

「だから決めたんだ。この子だけは、絶対に離さないって」

 

 一歩、さらに近づく。吐息がかかる距離。

 

「旧音楽室に、来てくれる?」

 

 拒否権はなかった。

 

 私は彼女に手を引かれるまま、図書室を出た。廊下には誰もいない。窓の外はもう暗い。旧音楽室までの短い道のりを、私の心臓だけがうるさく脈打っていた。

 

 彼女がドアを開ける。中は薄暗く、ピアノと積まれた椅子が埃をかぶっている。

 

 私が部屋の中に足を踏み入れた瞬間、背後で鍵の回る音がした。

 

 振り返る。

 

 東雲氷華は、ポケットから鍵を取り出すところだった。私に見えるように、わざわざゆっくりと。

 

「なにを」

 

「ごめんね。でも、こうしないと君は逃げるから」

 

 彼女は鍵を自分の胸ポケットにしまい込んだ。そして、さも当然のように言った。

 

「これからは、ここで一緒に過ごそう。二人だけで」

 

 私は言葉を失った。

 

 窓は目張りされている。ドアには鍵。外は暗く、この教室は校舎の端で、誰も来ない。

 

 私の視界に、彼女の頭上に浮かぶ∞だけが、やけに明るく映っていた。一度も揺らいだことのないその数字が、今は何よりも重い。

 

「真昼さん」

 

 彼女が私の名前を呼ぶ。その声は、初めて会った日と同じ穏やかさだった。

 

「私は君を、絶対に壊さないから」

 

 違う。あなたはもう、私を壊し始めている。

 

 その言葉は声にならず、喉の奥で消えた。




高評価をポチッとよろしくお願いします!!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。