恋愛依存度が視える私の前で、君の数字は∞を表示している 作:濱崎
教室には数字があふれている。
黒板の前に立つ教師の頭上に「12」、隣の席の女子に「34」、窓際の男子に「8」。どの数字も、私に向けられた好意の大きさだ。0から100まで。100を超えた数字は、見たことがない。
私は日向真昼。人の感情が数字で視える。
だから教室ではいつも俯いている。誰とも目を合わせない。笑顔も最小限。会話は必要最低限。そうしないと、数字が勝手に上がっていくからだ。先週、美術の授業で消しゴムを拾ってあげた隣の子は、それだけで34から58になった。先月、放課後に少し話したバスケ部の先輩は、三日で89まで跳ねた。みんな、私に期待しすぎる。私が何かを与えられる人間だと、勝手に思い込む。
でも違う。私はただ、普通にしたいだけだ。
昼休み、私はいつものように図書室のカウンターに座っていた。図書委員の仕事は楽だ。本は数字を持たない。利用者は少ない。たまに来る生徒も、本を借りたらすぐ出ていく。数字が上がる前にいなくなる。
今日も平穏に終わるはずだった。
「ここ、空いてる?」
声がして顔を上げる。
一人の生徒が、カウンターの前に立っていた。銀の髪を耳の高さで切りそろえ、背筋を伸ばしている。男子の制服を着ているが、体の線は細く、喉仏もない。女子だ。転校生だろうか。見覚えがない。
私は反射的に相手の頭上を見る。数字を確認するクセが染みついている。
数字は。
視界がぐにゃりと歪んだ。
∞。
表示は確かにそう読める。0でも100でもない。無限大記号。目を何度瞬いても、数字は変わらない。眩暈がした。胃の奥から何かがせり上がってくる。手で口を押さえる。
「どうかした?」
彼女は小首をかしげた。声は低めで、落ち着いている。
「……なんでも、ないです」
私はカウンターに視線を落とした。心臓が早鐘を打つ。∞ってなんだ。100を超えた先にあるものなのか。そんな数字、見たことがない。だって100だって見たことがないのに。
「図書室の利用、初めてで。何かカードが必要?」
彼女は私の動揺に気づかない様子で、淡々と尋ねてくる。
「学生証があれば……」
声が震えそうになるのを抑える。私は無理に営業スマイルを作った。口角を上げて、目を細めて、相手を安心させるための顔。何百回も練習した表情だ。
彼女が学生証を差し出す。受け取ろうとして、指先が触れた。
瞬間。
今度ははっきりと、目の前が暗くなった。吐き気と眩暈が同時に襲う。椅子から転げ落ちそうになり、カウンターに手をつく。学生証が床に落ちて、プラスチックの硬い音が響いた。
「……ごめん、ちょっと」
私はしゃがみこんだまま、深呼吸を繰り返す。頭の中であの∞が点滅している。こんな身体症状は初めてだ。今まで80や90を見ても、何ともなかったのに。100を超えた数字は、こんなに重いのか。
「体調が悪そう。保健室に行く?」
彼女はカウンター越しに私を覗き込んだ。心配そうな声とは裏腹に、その目は静かで、何を考えているのか読み取れない。
私は首を振る。
「大丈夫です。少し、立ち眩みがしただけで」
床に落ちた学生証を拾い上げる。震える指でバーコードを通し、貸出手続きをする。彼女が借りようとしたのは、心理学の入門書だった。『依存と愛情の境界線』。タイトルを見て、余計に気分が悪くなった。
「ありがとう」
彼女は本を受け取ると、去ろうとはしなかった。その場に立ったまま、じっと私を見ている。
「名前、聞いても?」
「……日向、です」
「下の名前は?」
普通なら「図書委員」で会話は終わる。名前を尋ねられたことはこれまでも何度かあるが、下の名前まで聞かれたことはあまりない。私は少し迷ってから答えた。
「真昼です」
「まひる」
彼女はその名前を口の中で転がすように繰り返した。それから微笑んだ。初めて見せる表情だったのに、どこかで見たことがある気がした。
「私は東雲氷華。今日からこの学園の一年。よろしく」
よろしく、と言われても。私は曖昧にうなずいた。早く立ち去ってほしい。あの数字を見つめていると、また眩暈が起きそうだ。
「また来るね」
彼女はそう言い残して、今度こそ図書室を出ていった。
私はカウンターの椅子に座り込み、大きく息を吐く。手のひらには汗が滲んでいた。制服のスカートで拭う。心臓がまだ落ち着かない。
∞。
あれは一体なんなのか。好意の数値であるはずの依存度が、どうして無限大になる。そんなものはもう、好意とは呼べない。執着や妄念の類いだ。それとも、私の能力が初めての数値にバグを起こしただけなのか。
そうであってほしい、と思った。
翌日、彼女は本当にまた図書室に現れた。
しかも今度は、私のクラスに編入してきた。
担任が彼女を紹介する。教室がざわめいた。男子も女子も、一様に彼女に見惚れている。無理もない。背が高く、手足が長く、制服の着こなしも完璧だ。何より、その顔立ちは整いすぎていて、同じ人間とは思えない。
彼女は簡単な挨拶を済ませると、空いていた席に着いた。私の三つ後ろの席だ。席に着く前に、一瞬だけ私の方を向いた。目が合う。彼女は口元だけで笑った。私は慌てて前を向いた。
また数字が動いた気がした。確認する勇気はない。
昼休み、私はいつも通り図書室へ向かおうとして、廊下で呼び止められた。
「真昼さん」
振り返るまでもない。あの落ち着いた声は、東雲氷華だ。
「一緒にご飯、食べない?」
彼女はそう言って、購買のパンが入った袋を掲げた。
私は断る理由を探した。図書委員の仕事がある、お弁当はもう食べた、お腹が痛い。いくらでも嘘は思いつく。
でも、口から出たのは別の言葉だった。
「……わかりました」
なぜ承諾したのか、自分でもわからなかった。ただ、断ることの方が怖かったのかもしれない。あの数字の持ち主に、拒絶の意思を示すことが。
私たちは中庭のベンチに並んで座った。彼女は焼きそばパンを食べながら、私に質問を重ねる。好きな教科、休日の過ごし方、家族構成。どれも他愛ない内容だ。でも彼女の質問の仕方は、一つ一つの答えを吟味するようで、どこか尋問じみていた。
「真昼さんは、いつも誰かと食べてるの?」
「……いつも、一人です」
「そうなんだ。友達は?」
「いますけど、あまり一緒には」
私は曖昧に答えた。幼なじみの杏奈は、私が昼休みに図書室に籠もるのを知っているから、誘ってこない。
「じゃあ、私が一緒にいてもいいよね」
彼女はそう言って、パンの最後の一口を口に放り込んだ。許可を求めているようで、決定事項のように聞こえる言い方だった。
その日の放課後も、彼女は図書室に来た。
「毎日来るんですか」
「毎日来るよ。本が好きだから」
嘘だ。彼女が手に取る本は、いつも心理学か哲学の難しいものばかりで、明らかに読みかけのまま返却している。本を読むのが目的ではない。ここに来ることが目的なのだ。
そして四日目の放課後。
図書室の閉館時間が過ぎ、私はカウンターの後片付けをしていた。返却本を書架に戻し、机の上の消しゴムのカスを集め、窓を閉める。いつもの日課。あと十分もすれば、寮に帰れる。
「真昼さん」
突然背後から声がして、心臓が跳ねた。
振り返ると、東雲氷華がカウンターのすぐ前に立っていた。閉館時間は過ぎている。とっくに追い出したはずだ。
「どうしてまだ」
「話したいことがあるの。ちょっとだけ、いい?」
彼女はそう言うと、私の返事を待たずに近づいてきた。私は無意識に一歩後退する。背中が書架に当たった。
「話って……なんですか」
私の声は上ずっていた。視界の端に、彼女の数字がちらつく。あれからずっと確認していなかったのに、今ははっきりと見える。∞は変わらずそこにあった。そして、よく見ると微動だにしていない。普通、人の好意は会話や仕草で少しずつ上下するものだ。でも彼女の数字は、完全に固定されている。
「真昼さんは、どうしてそんなに私を避けるの?」
彼女は首をかしげた。その目は相変わらず静かで、感情の色が薄い。
「避けてなんか……」
「避けてるよ。私が話しかけると俯くし、目も合わせない。でもね、他の人にはもっと冷たいよね」
彼女の観察眼に、背筋が冷たくなった。
「私はただ、人と深く関わりたくないだけです」
「どうして?」
「答える義務はないと思います」
私はきっぱりと言った。これまで誰にも、能力のことは話していない。話せるわけがない。話したところで信じてもらえないし、信じてもらえたらもっと面倒なことになる。
「そう」
彼女は少しだけ笑った。今度は目が笑っていなかった。
「じゃあ、これは義務じゃなくて、お願い。ちょっと来てほしいところがあるの」
「どこにですか」
「旧音楽室。ここから近いよ」
旧音楽室。今は使われていない、校舎の端にある教室だ。なぜそんなところに。
「行きません」
「どうしても?」
彼女は一歩、距離を詰めた。私の真ん前に立つ。身長差は十センチ以上ある。見下ろされる形になり、私はさらに後ろに下がろうとした。でも書架が邪魔で、もう下がれない。
「私は、真昼さんのことをもっと知りたいだけなんだ」
声はあくまでも柔らかい。でも何かが違う。柔らかさの裏側に、絶対に押し通すという硬い意志があった。
「あなたは」
私は震える声で言った。
「あなたは、私の何を知ってるっていうんですか。会ってまだ四日です。名前とクラス以外、何も知らないじゃないですか」
「知ってるよ」
彼女は即答した。
「真昼さんが、誰にも本心を見せないこと。誰とも深く関わらないこと。いつも教室で俯いていること。図書室に籠もっていること。私が話しかけると、目を合わせないこと。笑顔が全部、作り物だってこと」
最後の言葉で、私は固まった。
「全部、わかってる。だから知りたいんだ。どうして真昼さんが、そんなふうに生きてるのか」
彼女は手を伸ばし、私の頬に触れた。指先はひんやりと冷たい。
「私はね、真昼さんと同じなんだと思う」
声のトーンが、初めて変わった。柔らかさの下から、別の感情が滲み出る。
「誰にも期待しないところ。誰にも本心を見せないところ。完璧な仮面を被って、毎日をやり過ごしてるところ」
彼女の親指が、私の目の下をそっとなぞった。クマができているのを、見抜かれている。
「でも真昼さんは、私の仮面を一瞬で剥がした」
「……何を言ってるんですか」
「入学式の日、覚えてる? 私が転校してきた日。教室でみんなが好奇の目を向ける中、真昼さんだけが私を見なかった。どうでもいいって顔で、窓の外を見てた。私に期待してなかった。それが、どれだけ嬉しかったか」
彼女の目が、わずかに揺れた。
「だから決めたんだ。この子だけは、絶対に離さないって」
一歩、さらに近づく。吐息がかかる距離。
「旧音楽室に、来てくれる?」
拒否権はなかった。
私は彼女に手を引かれるまま、図書室を出た。廊下には誰もいない。窓の外はもう暗い。旧音楽室までの短い道のりを、私の心臓だけがうるさく脈打っていた。
彼女がドアを開ける。中は薄暗く、ピアノと積まれた椅子が埃をかぶっている。
私が部屋の中に足を踏み入れた瞬間、背後で鍵の回る音がした。
振り返る。
東雲氷華は、ポケットから鍵を取り出すところだった。私に見えるように、わざわざゆっくりと。
「なにを」
「ごめんね。でも、こうしないと君は逃げるから」
彼女は鍵を自分の胸ポケットにしまい込んだ。そして、さも当然のように言った。
「これからは、ここで一緒に過ごそう。二人だけで」
私は言葉を失った。
窓は目張りされている。ドアには鍵。外は暗く、この教室は校舎の端で、誰も来ない。
私の視界に、彼女の頭上に浮かぶ∞だけが、やけに明るく映っていた。一度も揺らいだことのないその数字が、今は何よりも重い。
「真昼さん」
彼女が私の名前を呼ぶ。その声は、初めて会った日と同じ穏やかさだった。
「私は君を、絶対に壊さないから」
違う。あなたはもう、私を壊し始めている。
その言葉は声にならず、喉の奥で消えた。
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