アプレ・ラプルイの朝日〜聖劍と王冠、ヤンヘラ女神の御名において〜 作:鹿鳴弥
草木も眠る丑三つ時。
提灯も消え、人の往来もなくなった時間帯。
【御前湯】の街道には濃い霧がかかっていた。
「…………」
霧夜の中に一人、出ていく男がいた。
「行かれるのですか」
男性を呼び留める声。
声の主はゆっくりと歩き、濃霧の闇の中から顔を出した。
「イルク殿」
ヴァルガス・ガンバード。
門の外へ歩みを進めた。
「――気付かれてたか~」
闇夜から顔を覗かせたイルクはバツが悪そうに笑った。
「それなりの隠形はしてたつもりだったんだけど、どうやって気付いたのかな?」
「ただの虫の知らせですな」
ヴァルガスは偶々だ、と両手を広げた。
筋骨隆々たる彼の象徴、身の丈ほどの大きさの赤い大剣がない。
武装もすべて解除し、無警戒にイルクの間合いに入る。
「少し、よろしいですかな?」
イルクは何も言わない。
無言の肯定だと捉えたのか、ヴァルガスはイルクの後ろに並ぶ。
ごう、と風が吹いた。
夜桜が風に
「良い夜ですな。月も霞み、桜と夜の香りが混ざっている」
ヴァルガスは空を見上げ、しみじみとつぶやく。
イルクは何も言わない。
ヴァルガスもまた沈黙を保ち、静かにイルクの隣にいるだけ。
「何も聞かないんだね」
イルクが沈黙を破った。
「ええ」
ヴァルガスは浴衣姿のまま返事をする。
「俺にできるのは、貴殿の武勇を女神に祈る事のみ。祈りに言葉がいりましょうや」
ヴァルガスは指を組み、静かに祈りをイルクへ捧げていた。
「知ってたんだ。誰から聞いたのさ」
「リーリエ殿から。先ほど、顔を合わせまして」
「あいつめ……」
イルクは忌々しそうに顔を顰め、頭を掻いて月を見上げた。
「……情けねえなぁ、俺は」
イルクは月へ嗤った。
ヴァルガスは祈りを辞め、イルクへ視線を向ける。
「情けねえよ。せっかく、弟分が俺を頼ってくれたってのに。……あんなに、俺と冒険に行くのを楽しみにしていたのに。俺ぁ、エディンとの約束を破っちまった」
イルクは疲れたように語る。
桜の花弁が、雪のように降り積もる。
「あの子は強い。その分年相応、いやそれ以上に寂しがりなんだよ。俺はそのことを知りながら、あいつを置いて行っちまう」
ぎゅ、と拳を強くイルクは握りしめた。
「あの子が泣くとわかっていながら、だ。俺は兄貴分失格だ」
「否」
イルクの卑下をヴァルガスは語気を強めて否定する。
「否。それだけは違うでしょう、イルク殿」
降り積もる桜を踏み締め、巨漢の男はイルクへ迫った。
「貴殿のエディンくんを見る瞳を見て、そこに宿る情を理解していないものなどあの場にはいない。モーリス君も、リリア嬢や、アルター嬢も」
ヴァルガスは大きく息を吸い、
「エディン君も理解している」
ぴく、とイルクは肩を震わせ、ヴァルガスへ振り返った。
ヴァルガスは指の腹だけを合わせ、手で三角に組み、額の前に祈り手を持ってきた。
「我らが主。月を睨みし土の女神。創世神アルメ=ガファもそう仰せになるでしょう」
「あんた……、まさか……!」
イルクはその祈り手を見て、驚いたように目を見開いた。
「聖教国の、【
「いかにも」
ヴァルガスは堂々と胸を張り、頬を緩ませた。
「我らは女神の御剣。神々より出で、神々を戮殺せしめた【月王】ノアを睨み、いずれは討たんと謳う誉れなれば」
【月睨派】。
神々を殺しつくし、神界を月へと変えた大罪人たる【月王】ノアを敵視し、母たる土の創世神を崇める宗派。
その人口は世界人口の六割以上を占める。
世界宗教であり、最も信徒数の多い最大宗教だ。
「しかも、その祈り手の組み方。勧土印相か。練り上げられてんな。あんた、相当な高僧だったんじゃないのか?」
イルクは息をするように祈り手を組んだヴァルガスに目を細くした。
彼の胸中を渦巻くのは猜疑心。
聖教国の【月睨派】は巨大組織である分、腐敗も激しい。
イルクが言外に問うたのは一つ。
なぜ、そんな人物が極東の地にいるのかということ。
「俺は……。フーム、そうですな。愚僧は、脱走兵なのですよ」
<
「……そうか。あの、最悪の戦争のか。太古から続く、魔族と人族の泥沼の戦争の」
「然り」
ヴァルガスは目を逸らし、息を漏らした。
「あの戦争は、地獄でございました。敵も味方も、仲間も。
虫けらのように殺し、殺されていきました。血と、泥と、魔力汚染に塗れたあの戦争に、愚僧は耐えきれなかったのです」
ヴァルガスは指を擦り合わせ、苦しみをごまかすように笑った。
「逃げて、逃げて、逃げて。結局東の最果てまで逃げてきた愚か者が愚僧なのですよ」
イルクは俯いた。
静かに七芒星を切り、ヴァルガスの想いに祈りで応えた。
「なるほど。貴殿は【
「信仰というほどのもんでもないがね。家の習慣が、いまだ抜け切れていないだけさ」
イルクは眼を光らせ、静かにヴァルガスを見る。
「異端とでも仰いますかね?」
其の声は試すような調子であった。
「ふふ」
ヴァルガスはただ、イルクの言葉に静かに笑った。
「異端などと言うはずがありますまい。結束たる土の女神を絶対神とする我らと、未知を探求する闇の魔法神を崇める貴殿らの間にどれほどの差がありましょうや。
共に我らが崇めるのは創世の神々なれば。
その信仰を認めこそすれ、否定してよい理由などありませぬ」
ヴァルガスは当然のように言いきった。
「そう、か。……【月睨派】にも、あなたのような御坊がいたってことか……」
イルクは眩しいものを見るようにヴァルガスを見る。
「ヴァルガス殿。折り入って頼みたいことがある」
「なんなりと」
ヴァルガスは静かにイルクへ言葉を返した。
イルクはヴァルガスと向き合い直し、深々と頭を下げた。
「――エディンを。あの子たちを。俺の代わりにエディンに共にいけないことを伝えて、守ってやってはくれませんか」
ヴァルガスは目を大きく見開いた。
イルクは紛れもない強者だ。
ヴァルガスが百年修行してようやく、一太刀を掠められるかどうか。
そういう「武」の極致に立つ人物。
「仔細は伝えられてない。あの子に合わせる顔が、俺にはないんだ」
強さこそ、地位の縁たる冒険者が己よりも弱い人間へ頼みごとをすることはまれだ。
己の弟分を任せたいと、命じるでもなく頼み込んでいる。
「慎みて」
その意味を、軽々しく受け取るヴァルガスではない。
「お断りいたす」
強く、硬く祈り手を組み、力強く答えた。
「親たるあなたがエディン君のもとを離れるというのに、手紙を使って逃げるように去るなど言語道断」
武の極みにある達人だからこそヴァルガスは喝破する。
イルクの弱気を、彼の下げた頭を真っ向から否定して低い声で語る。
「ましてやそれを彼にとって他人たる愚僧に頼むなど、彼からの信頼への侮辱であり、過去から積み上げてきた関係への冒涜であります」
祈り手を外し、ヴァルガスは険しい視線をイルクへむける。
「………………」
イルクは何も言わない。
動じず、夜空の中で頭を下げたまま硬直している。
「あなたは誇るべきことを為さろうとしている。譽れであり、この国の民を守るために立ち上がった尊き戦士である。
彼の少年がそれを理解できぬとあなたはお思いか。受け止めきれぬ矮器とお思いか」
「…………俺は、この国のために立ち上がったんじゃないんだよ」
ふらふらとイルクは頭を上げた。
視線は斜め下を向いている。口の片端だけを上げ、肩を竦めて歪に笑っていた。
「ただ、あの子のためだ。あの子に重責を背負わせないため、国の存亡なんてどうしようもないもんをしょい込ませないためだけに、俺は戦うんだ。
アンタみたいな御坊に尊ばれるような理屈なんか、これっぽっちも持ち合わせちゃいない」
ヴァルガスは何も言わない。
猛禽のような大きな瞳を、じっとイルクに傾けていた。
ただ、相づちだけを打っていた。
「あの子に嘘はつけない。あの子が信頼してくれてんのなんか、アンタに言われるまでもなくわかってるさ。だが」
イルクは懐をまさぐり、葉巻を手に取る。
指先で封をしてあるキャップを切り落とし、その摩擦で火をつけた。
紡錘の娯楽を大きく吸い、ため息と共に紫煙を吐き出した。
「俺は、あの子と迷宮へ一緒に行くって約束してたんだ。なのに、あの子のためにその約束を破るだなんてダサい真似、俺にはどうしてもできねえ」
もうもうと煙を吐き出し、毒のような匂いの霞煙を空へ吐き出す。
けして子供の、エディンの前では吸わないと決めている格別の一本を味わいながら、ヴァルガスを煙の中から覗いた。
「きっと、この戦いはキツイものになる。あのリーリエが恥も外聞もなく頭を下げてくるくらいだからな。だから、あの子に真相は話せねえんだ」
きっと、エディンはついてくるって言いだすからな。
イルクは肩を落として笑った。
「だから、頼むよ。後生だ。あの子の為にも、聞き入れてくれやしねえか。借りは、必ず返す。こんなもんを言い訳に引っ提げて、あの子に会うわけには――」
「ならば、逃げなければ宜しい」
ヴァルガスは、毅然と言い返した。
眉間にしわを寄せ、ずいと一歩踏み込んだ。
「言い訳に使わぬのならば、何も語らずともよいでしょう。愚僧が示すべきと語っているのは理由ではありませぬ」
巨漢の破戒僧は、目と鼻の先まで黒髪の青年の前まで迫る。
「誠意。誠意なのですよ。イルク殿。
理由をかたらずとも良いのです。ですが」
ヴァルガスはきつく視線を鋭くし、イルクを睨みつけた。
「別れる自由があるのなら、別れのあいさつくらいはするべきでしょう」
「『人の世に、絶対などないの』ですから」
イルクの脳裏で、悠久を生きた少女と剛体の冒険者の声が重なった。
己の義母。己の主たる、銀髪のエルフの女性の声。
己の初恋とは別の、絶対の指針の教えが、重なったのだ。
「――はい」
イルクは葉巻を握り、火種を掌に焼き付けて消した。
燻っていた煙が掻き消え、イルクは真っすぐとヴァルガスを見た。
「ですが」
ヴァルガスはニカっと笑い、厳かに祈り手を結んだ。
「これだけは誓いましょう。土の創世神アルメ=ガファの名に懸けて、かの少年を護ると」
ヴァルガスは火傷しそうなくらいの熱を声に込めた。
「我が騎士としての誓いをここに。しかし、あなたもまた、保護者としての責を果たすことをお誓い願いたい」
じっとイルクはヴァルガスをみつめ、
「はぁ……ったく」
ガシガシとイルクは頭を掻いて、ヴァルガスへ目を向けて。
「敵わねえなあ、アンタには」
困ったように破顔した。
※※※
早朝。
【御前湯】、部屋でエディンこと僕は微睡んでいる。
ちゅんちゅん、と雀の鳴き声が聞こえる。
朝焼けの光が顔に注ぐ。
普段ならば起きている時間だ。
だけど、今日は休養日。関係なしと二度寝を決め込むため、毛布を頭からかぶろうとした瞬間。
「――んでっ」
顔面に拳が降ってきた。
「くかーっ」
下手人は品の欠片も見えないいびきをかきながら、僕の毛布を強奪していった。
「アルターめ……」
頭からかぶるはずの毛布を奪い取っていったアルターを睨みつける。
くそ、気持ちよさそうに寝やがってぇ……。
仕方ねえ、起きるか……。
「う゛ぅー……」
頭を押さえながら起き上がる。
めちゃくちゃ頭痛い……。
異様なだるさと、若干の気持ち悪さ。それを振り払いながら、《蒼眼》の調子を確かめる。
「うげ……。体内に酒精の毒素が残ってやがる……」
水分も不足してる。
昨日の呑みのダメージは思いのほかでかい……。
「……ん?」
こん、こん、こん。
扉を手の甲で叩く音が三度鳴った。
「……イルク?」
《蒼眼》で視た先にいたのは神妙な顔をしたイルクだった。
「どしたの、こんな朝早くに」
ふとんを押しのけ、引き戸を引いてイルクの顔を見……っ。
「わ、わ、……! どうしたの、イルク! ちょ、苦しいって」
イルクがいきなり僕を抱きしめてきた。
しかも結構な強さで。ほぼ首が閉まる勢い……っ。
「ごめん。ごめん、エディン……!」
ぎゅう、と強く抱きしめられているのを振りほどこうとしていたら、イルクの小さな声が聞こえた。
消え入りそうなくらいか細く、辛そうな声だ。
「……どうしたの?」
抵抗を辞め、イルクの頭をポンポンと撫でる。
「…………一緒に迷宮、行けなくなった」
………………………………………………。
ぎゅ、と胸が締め付けられるような痛みが走る。肉体的な痛みのはずなのに、一瞬呼吸が止まった。
「――ああ、なんだ。そんなことか」
努めて動揺を押し殺し、喉元からやわらかい声音でイルクに語る。
動揺してない、と言えばうそになる。ショックだし、残念だ。
「よしよし」
イルクの頭をゆっくり撫でる。
兄貴分は何も言わない。ただ、僕に抱き着いたままだ。
「ありがとう、イルク。言いに来てくれたんだよね?」
約束していたのに、反故にされたって気持ちも無くはない。
だけど、僕にはそれでイルクを責めようだなんて気持ちは微塵も無い。
「イルクはちゃんと言いに来てくれたもん。きっと、僕に言えないようなことが起きたんだよね?」
こくり、長身の兄貴は頷いた。
イルクは本来、口があまりうまい方ではない。
僕の前ではひょうきんな態度を取ってくれている。
だけど、リステリアの王宮ではほとんど人と口をきいていなかった。
ぶっきらぼうで、冷たい目で誰かを見下ろしている武の極点。
話しかけられても、無駄とばかりに団員を追い払い、ひとりを好んでいた彼が口がうまいわけがない。
軽口は言えても、本音を話すのが苦手。
何も言わずに去ってしまうような危うさすらあるイルクが、わざわざ僕の前に来てそれを伝えてくれた。
その誠意を、無碍にするわけにはいかない。
「……怒らないのか?」
イルクがおそるおそる、僕の顔を見た。
「怒るわけないよ。
イルクはいつだって僕のために行動してくれてたんだもん。ちょっぴり残念だけど、イルクの、そうだな」
「誠意。僕にちゃんと伝えようとしてくれてる気持ちが伝わったから。それだけで、僕は十分だよ」
満面に笑顔を浮かべ、イルクを抱きしめ返す。
「でも、エディンはあんなに楽しみにしてくれてたのに、俺は――」
「なら、指切りしよ?」
僕はイルクの小指をからめ取り、頬の端を緩ませた。
「指切り。モーリス君から教えてもらった約束の方法。
イルクのお仕事が片付いたら、次は一緒に冒険してくれるって約束。しよ?」
イルクはきょとんとした顔で笑った後、僕の指に小指を絡め合わせた。
ごつく、硬い指。
いつも僕を守ってくれているこの手が、指が。いつもよりも小さく見えた。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたらハリ千本のーますっ」
「指切った!」
ぱっとイルクから指を離す。
まだ、イルクはじっと僕の顔を見ている。もう、まったく……
「いってらっしゃい。頑張って。つぎは、絶対一緒だよ」
ぱん、ぱんと2回背中を叩いた。
イルクはゆっくりと立ち上がり、大きくため息を吐いて。
「まったく、エディンにも敵わないや」
「ああ」
「約束する。次は、絶対一緒に冒険しよう」
困ったように笑った。
瞬きした次の瞬間、イルクは消えた。
窓の外を見れば、一陣の風が街道を駆け抜けていくのが視えた。
「………………」
胸倉の前で、拳を握りしめる。
寂しくないわけではない。不安だし、怖いこともたくさんある。
イルクが来てくれるから安心していた。とても楽観的な気持ちでいられた。
だけど、イルクは今回――。
「ううん」
大きく頭を左右に振り、頬っぺたを思い切り掌で叩く。
バチィンッ、と強い破裂音が頬っぺたから鳴った。
弱気を振り切り、窓を大きく開く。
新鮮な風だ。
春の黎明の空気が流れ、ほのかな桜の甘い香りを齎した。
「よし! 次の迷宮も、頑張るぞ!」
僕の声が、まだ眠る繁華街に木霊する。
明けの方角からは、暁光が登り始めていた。