アプレ・ラプルイの朝日〜聖劍と王冠、ヤンヘラ女神の御名において〜 作:鹿鳴弥
「あ――」
遅れて、血の匂いを嗅いだ。
べっとりと頬へこびりついた血を、指でなぞり、こすり合わせる。
「ああ――」
ねっとりと、血泡が指にまとわりついて、鉄の匂いが指から取れなくて。
「あああああああああッッッ!」
吐き気。理解不能。気持ち悪い。ぐるぐると視界が回って、頬が痛い。
ざり、ざりざりざりざり。自分の爪が、頬の皮と肉で埋まって、気持ち悪い。痛い。寒い。
なぜ? なんで? どうして?
思考が巡って、何も考えられない。考えがまとまらない。
苦しい、何もわからず、何も視えない。
なんで、なんでヴァルガスさんがし、死んで……っ。
「お……ぅぇ…………っ」
細切れに、血袋になって消えちゃった。
死んじゃった。死んじゃった。
「りりあ……、あるたー……!」
口元に塗れた胃液で噎せながら、後ろの扉に手を伸ばす。
リリアはどうなった? アルターは? モーリス君は…………。
「――あ」
視界の奥で、数秒前の記憶が戻る。
宙を舞っていたモーリス君の脚。細切れになった足と、血がぶちまけられて、鈴の音がして。
「全部、消えて……っ!」
血だまりも、何も残らなかった。大量の白閃、塗りつぶすような斬撃の幕が、みんなの身体をすべて切り刻んだあの瞬間が、頭から離れてくれない。
まだ冷静な頭の一部がリリアとアルターの末路を考える。考えてしまう。
僕等のうち、最後尾にいたのはヴァルガスさんだ。
鈴の音が鳴って、振り返った時にいたのはあの人だけで、その前にいたはずのリリアやアルターの姿はどこにもなかった。
あの白閃のあと、ヴァルガスさんの遺体も、血しぶきさえ残らなかった。
つまり、ヴァルガスさんの前にいた、僕の仲間は――。
「――――夢だ」
きっと夢だ。これは夢なんだ。夢であってくれ……!
「覚めろ、覚めろ覚めろ覚めろ……!」
ごつ、ごつと床に頭を打ち据え続ける。
ぬらぬらとした温かいものが顔を伝って、首筋に流れ、床へ頭を打つたびに赤い飛沫が散る。
散った飛沫が、床に張った水の上へ落ちる。
震えが止まらない。
寒くて、怖いんだ。
両肩を抱いて震えていれば、きっと夢から起きて、冒険が始まるんだ。
『――दो 』
黄金の山から声が聞こえた。
影だけが地面にあった。二足歩行の影。
二本の腕の、片方には細長い何かが握られている。
それが、ゆっくりと僕の方に近づいてくるのが見えた。
「は……はは……」
笑っていた。
水面に映った僕は、泣きじゃくりながら、引き攣ったように笑っていた。
憎たらしいほど蒼々しい瞳は、なんにも役に立たない。
影が目の前に立った。
ゆっくりと顔を持ち上げる。
うすぼんやりと、剣を構えた幻霊が見えた。
「――あ」
振り下ろされた一刀。リステリアの騎士を彷彿とさせるほどの斬撃。
反射的に『
剣と刀がぶつかり、火花を散らす。
なんでもない一撃だ。リリアほどの苛烈さも無く、イルクほどの重さも無い。
だけど、そんな簡単な一撃で僕の態勢は簡単にくずれた。
姿勢が崩れた瞬間、幻霊の蹴りが僕の腹を抉った。
「ごっふ……ッ」
蹴りを受け止めきれず、僕の身体が吹き飛ばされる。
腹が少し凹む程度の蹴りは、内臓への損傷などない。ヴァルガスさんの蹴りをまともに受けていたら、この程度では済んでなかった。
「……夢、だ」
影がゆっくりと僕に近寄ってくる。
影が力強く踏み込むより一瞬早く、床上の水が跳ねた。
瞬間、奴が僕との距離を一瞬で詰め、手に握った剣を横薙ぎに振るい。
「――あ」
一文字が僕の瞳を切り裂いた。
「~~~!!」
灼けるような痛み。
感じたことがない、鋭く灼けるような堪え難い痛みが、
僕の背骨が折れる勢いでのけ反らせた。
狂いそうな痛みと、あふれ出る鉄の匂いのせいで声すら出てこない。
口の端からよだれと胃液が垂れるのを感じる。
何も見えない。
光を感じるはずの目は潰れ、
代わりに灼けるような痛みの点滅だけがあった。
『――ああ、これは夢じゃない』
いつになく明瞭な思考が冷静に告げる。
夢で痛みを感じることはたまにある。
だけど、夢の痛みと現実の痛みは感覚がまるで違う。昔をなぞるような夢の痛みとは違い、現実の痛みは焼き付けてくるような、強烈な刺激なんだ。
これは完全に後者だ。
震えるほどの痛みと、少しずつ迫ってくる死の感覚。
しかも、目が潰される未知の痛みは、間違いなく夢じゃない。
「ああ――」
つまり、皆が死んだのも夢なんかじゃない。
「現実、か――」
肩の力が完全に抜けた。
痛みにもがいていたのも嘘のように体から力が抜ける。
左脚に鋭い痛みが走る。
剣で切られた痛み。鉄が太ももの肉を擦り、熱い痛みと共に左脚に力が入らなくなる。
顔面に衝撃が走る。
顔の皮膚が揺れ、鼻がつぶれ、衝撃が頬骨を突き抜けて脳を揺らした。
身体が揺れ、地面に押し倒される。
次は胸に蹴りが入った。
あばらがへし折れ、息と血が口から一気にあふれ出した。
たぶん、踏みつけられて片肺がつぶれた。
でも、反撃する気も起きなかった。
「……もう、いい」
みんな死んじゃったんだ。
もう、みんないないんだ。僕が守るべき人たちはみんな、この迷宮に切り刻まれて消えた。
どうでもいい。
潰れた眼も、ロクに力の入らない腕も、切り落とされた足も、潰れた肺も。
残った物なんか、何もないんだ。
もう、さっさと楽になりたかった。
「――あ」
首に何かが走った。
急に首から下が軽くなり、空に飛んだ。
首を刎ねられた。
音も、風も遠くなっていく。
痛みも、感覚も、何もかもが。
全てが過ぎ去っていって、遠くなっていく。
あれだけ恐れていた死が、すぐそばまで寄ってきていた。
その瞬間。
首元に付けていたネックレスが、あたたかな光を灯した。
※※※
『ゆびきりげんまん、嘘ついたらハリ千本のーますっ』
『指切った!』
記憶が、蘇っていく。
失意の底に置き忘れたもの。
死の闇に沈む身体が、魂が走馬燈として僕の心に突き付けてくる。
『ああ』
『約束する』
『次は、絶対一緒に冒険しよう』
僕の中に、たった一つまだ残った物。
寂しがりの兄貴分。
僕が死んだら、絶対に悲しむ、大切な身内。
血のつながらない肉親を抱きしめたときの感覚が、腕の中に戻ってきた。
ふと、空を見上げる。
彼岸と此岸の狭間。星も月も、太陽もない静寂の彼方で、一つの星が上がった。
燃えるような翠の光。
イルクがくれた、ネックレスの宝玉の光輝。
――ああ。
そうだ。
「リリア」
「アルター」
最愛の仲間たちの名を、心中で呟く。
身体は既に遠く、魂は輪廻の流れに捕らわれ始めた。
その中で、魂だけになった僕は足掻き、生命の河を逆流する。
「モーリス君」
後ろの影が、僕を掴んでいる。
ヴァルガスさんと、モーリス君だ。
死の誘惑が、蘇生を超えるための泥河を超える気力を折ろうと、
僕の身体を幽世へ誘う。
「ヴァルガスさん。ごめんなさい、僕は――」
その泥影を振り払い、緑の星へ手を伸ばす。
あらゆる障害を振り払い、前へ。
死出の列から外れ、緑の星へ向かって逆航する。
ヴァルガスさんはきっと止めない。
僕らの成長を心底から喜び、導いてくれる最高の大人が、僕の生を阻むはずが無い。
なら、この僕を掴む手はヴァルガスさんじゃない。
僕の心が生み出した、慙愧の亡者。
「――征きます」
それを、死者の渇望、葛藤、残響をすべて呑み込んで。
僕は、星を掴んだ。
※※※
「……ッ!」
幻霊が、焦ったかのように跳び退いた。
「――あ」
意識の戻った僕は、虚空を掴んでいた。
上体を起こす。
ネックレスの宝玉は砕けていた。
シルバーチェーンだけが残り、首輪のように肩にかかっていた。
「イルク……」
ぎゅ、と銀の鎖を握りしめる。
イルクのくれたお守りのおかげだ。
完全に一度、僕は死んでいた。
両目は潰れ、腕も動かず、足も切断され、肺も破裂していたんだ。
だが、イルクがくれたお守りが、僕を蘇らせてくれた。
五体は満足。
身体のキレはすこぶる良く、思考も明瞭。
「恩返し、しないとね」
す、と『
幻霊が音も無く駆け、こちらへと距離を詰めてきた。
目を閉じる。
視界ではなく、風を読む。
幽玄なる幻霊なれど、その実体はある。
脳裏に描くはリリアの太刀。
神に会えば神を切り、仏に会えば仏を斬る、究極の剛刃。
踏み込み、体幹を肝とする刃は、霧ですら両断する。
ならば――。
一歩、間合いの内へ踏み出し。
『
黒い斬光が空に走り、幻霊の胴を一閃した。
――幻霊如き、僕に切れない道理はない。
黒刀を納刀する。
同時に幻霊の身体が横一文字に切り裂かれ、白血を空へまき散らした。
幻霊は何も言わない。
驚きに満ちた顔を浮かべ、地面に転がっていた。
だが、どうしてかな。
言いたいことは、表情が如実に書いていた。
なぜ、生きているのか。
あれだけ、生をあきらめ、刃を受け入れたのに。
どうして、蘇ったのか。
「それはね」
刃を逆手に持ち、幻霊の上体へ刃先を向ける。
柄頭を持ち、刃を首に垂らす。
そして。
「――約束があるからだよ」
一気に、その刃を喉元へ突き立てた。