アプレ・ラプルイの朝日〜聖劍と王冠、ヤンヘラ女神の御名において〜 作:鹿鳴弥
「禁足地への調査許可を出してほしい?」
リーリエさんが片眉を持ち上げ、煙管を吸う。
黄金邸。
リーリエさんが保有する住居であり、
中庭には巨大な池が広がっている。
驚くべきことに、池の中ではチョウザメや、主のように巨大な鯉が優雅に泳いでいた。
魚だけで、僕の背丈と同じくらいある。
そんな魚たちが悠々自適に泳ぎ回れる池が、庭の中にあるのだ。
この屋敷の広さは桁違いだった。
屋敷の外壁は、全て金箔で覆われている。
金銀財宝を惜しげもなく使った装飾が随所にあしらわれ、派手という言葉だけでは到底足りない。
僕らが
「おいおい、エディン君。
煙管を煙草箱へ叩きつけ、雁首に残った灰を落とす。
かん、と乾いた音が響き、リーリエさんは苦笑を浮かべた。
「しかも、水陰村は霊脈の噴出地点じゃんか。利害調整が馬鹿みたいに面倒なんですけど。なんで、よりにもよってそこを選んだのかな?」
リーリエさんが軽く手を振る。
襖が開き、見目麗しい少女と少年が姿を現した。
二人は恭しく一礼する。
盆に載せた茶と茶菓子を、げっそりとやつれたモーリス君や僕らの前へ並べると、足音一つ立てずに去っていった。
勧められるまま、茶を口へ運ぶ。
香気を含んだ熱が、舌の上へ柔らかく広がった。
「イルゲルムが出現した可能性があるからです」
茶菓子を口へ運んでいたリーリエさんの眉が動いた。
視線に険しさが混じり、肘置きに頬杖をつく。
「ほん。根拠は?」
「二つあります。ランニングマグロが、意図的に僕を襲ったこと。そして、水陰村の地下を貫通する坑道を掘っていたことです」
多くは語らない。
語るまでもなく、リーリエさんなら意味を汲み取れる。
普段はおちゃらけているが、その判断力と思考速度は僕を遥かに上回っている。
必要なのは、事実だけで十分だ。
リーリエさんの顔から、余裕が消える。
目つきは一層鋭くなり、眉間に深い皺が刻まれる。
一度目を閉じ、ゆっくりと開いた。
「うははー……。マジか。ランニングマグロが妙なことになってるとは聞いちゃいたが、そんな面倒なことになってるとは」
「まるで『魔物』だね~。『魔獣』らしからぬ動きだなあ、とは思ってたけど。誰かの手で、魔物に変えられてるのかも」
後ろに座るイルクが顎を撫で、困ったように笑う。
「魔物と魔獣って、何か違うの?」
振り返り、イルクの方を見る。
「あ、そうか。エディンは東塔で魔物ばかり見てたから、知らないのか。じゃあ、説明しようか」
黒髪の彼が、腕輪を輝かせる。
左腕が金色に染まり、空中へ二枚の絵が投影された。
青く彩られたランニングマグロと、赤く彩られたランニングマグロ。
二つの身体構造が、比較できるように並べて表示されている。
……む? 屋敷を勝手に使ってていいのかな? リーリエさんがいちゃもんつけてくるんじゃ……。
恐る恐る彼女の方に視線を向ける。
リーリエさんは何も言わない。
イルクが勝手に説明を始めたことを咎める様子もなく、肘置きに肘をついたまま煙管の紫煙を吸い込み、尖らせた唇から灰白色の煙を吐き出していた。
「青い方が魔獣。赤い方が魔物ね。赤い方には、青い方よりも内臓が多いでしょ?」
確かに、赤い個体の腹部には、見慣れない消化器官が幾つも増えていた。
「これは、人間を食ったときに生成される、魔物特有の消化器官なんだ。この器官の有無で、魔物と魔獣を見分けられる」
「なるほど」
イルクの言葉に相槌を打つ。
「それで、ランニングマグロは本来、魔獣なんだ。外洋にいようが、内海にいようが、この臓器は存在しない。だけど、今回襲ってきたランニングマグロたちには、これがあった」
黒髪の偉丈夫は、空中に投影された画像を指で弾きながら、僕へ目配せした。
「自然に、この器官が生成されることはない?」
「その通り。魔物は、この器官を維持するためにも積極的に人を襲う。だけど、魔獣は理由もなく人を襲ったりしない。あと、魔物は知っての通り、瘴気から発生する」
イルクが指を鳴らす。
「外部からの干渉がなければ、こんなことが起きるはずはない。そして、魔獣を魔物へ変えたところで、人間には何の旨みもない。魔物を制御する術なんて、存在しないからね~。でも――」
「それを可能にするのが、魔族ってこと。この国で確認されている魔族は、イルゲルムのみ。んなこと、言われなくても分かるわ。独り善がりな説明ばっかで、つまんない」
リーリエさんは真珠色の髪をかき上げ、吸い終えた煙草の葉を煙草箱へ捨てる。
新たな刻み煙草を雁首へ詰め、爪先に灯した火を近づけた。
紫煙を深く吸い込み、庭へ向かって大きく吐き出す。
「ん。調査は必要だね。でも、人手が足りない。どうしようかねぃ」
妙齢の女傑は真珠色の髪を弄び、つまらなさそうに庭を眺めていた。
「武士の方々に、命令するのは……」
「無理ー。<荒神祭>の準備にかかりっきりー。あと、雑魚すぎて話にならないし。何より、下手に動かしたら現場が混乱する。相手に隙を与えるだけだねー」
千人いても、此一人で蹴散らせるしねー。
彼女は不遜に笑った。
「冒険者に探索依頼を出すのはいかがです?」
アルターが、座敷の主へ目を向ける。
「それも無理ー。なんか、【出雲】へ通じる陰陽線が寸断されてたんだよね。だから多分、ここへ来られる冒険者はほとんどいない」
リーリエさんが、気だるそうに指を回す。
「そもそも【出雲】は、普段は禁足地だ。冒険者自体がほとんど滞在してない」
煙管を咥え、天井へ煙を吐き出す。
「ってか、何より武士の面目が潰れるー。潰れても、此は別に構わないんだけどさ。もしバレたら、絶対あいつら怒るんだよね~。そうなると厄介」
頬杖をついたまま、片目を細める。
「訳の分からん誇りで暴走して、敵につけ込まれる可能性もある。ある程度、極秘で動きたいんだよね。ううん、どうしよっかな~」
リーリエさんが手招きする。
引き戸が開き、一人の少女が姿を現した。
端正な顔立ち。
濡れ羽のような黒髪を持つ彼女は、迷いなく主のもとへ歩み寄り、その傍らに座る。
「はー、最高。やっぱり、可愛い女の子を愛でると気が紛れるね」
無表情のまま座る少女を、リーリエさんは抱き寄せ、好き放題に撫で回す。
隣に座っているモーリス君は、小さくため息を漏らした。
「あ」
緑色の瞳が、じっと僕を見つめる。
僕だけではない。
近くに座るリリア、アルター、そしてモーリス君を順番に眺め――。
「いいこと思いついた」
リーリエさんは、不敵な笑みを浮かべた。
「どんな悪巧みを思いついたんですか」
モーリス君が尋ねる。
「言うわけねえじゃん? ……あ、そうだ」
煙管から手を離す。
リーリエさんは少女を解放し、そろりとこちらへ歩いてきた。
僕の目の前で足を止め、深くしゃがみ込む。
鼻先が触れそうなほど、近い。
猫のような、好奇心に満ちた美しい顔だった。
「エディン君。君、此が考えてることを当ててみな? 当てられたら、そうだなあ」
リーリエさんは、形のよい顎へ指を当てて考え込む。
ふと、悪戯っぽい笑みを浮かべ、姿勢を正した。
「お姉さんが、たくさん甘やかしてあげよう」
自分の胸元へ手を当てる。
そして、見せつけるように揉み上げた。
豊満な胸が、指の形に合わせて柔らかくたわむ。
甘い、花のような香りがした。
「は?」
「は?」
イルクとリリアが、同時に声を上げた。
イルクは笑顔のままだ。
だけど、額には明確な青筋が浮かび、周囲の空気が軋み始めていた。
リリアも眉を寄せている。
針のように伸びた姿勢は崩さぬまま、握り締めた拳へ強い力が宿っていた。
「何を抜かしてるのかな~、この色ボケロリショタ両刀馬鹿はさ~。エディンの情操教育に悪すぎるしさ~」
イルクは笑顔のまま、低い声を発した。
「――さっさと答えろよ。なんでテメエの思いつきに、こっちが振り回されなきゃならねえんだ?」
「そうよ。不埒よ。時間の無駄よ。やる意味がないわ」
イルクとリリアが、揃ってリーリエさんを責め立てる。
「『要因を探り、構造を読み取れ。教育とは構造を教えることではなく、探求させることである』。これ、誰の育ての親の台詞だったかな~?」
リーリエさんが、イルクへ流し目を送る。
イルクの表情が変わった。
驚きから、苦々しそうな顔へ変わる。
リリアが反論するより早く、リーリエさんは言葉を続けた。
「文句があるのはいいけどさ。此、まず君たちの依頼主だぜ? その態度は何?」
人差し指を立て、リリアへ向ける。
「一緒に考える癖をつけないと、リリアちゃんはエディン君に置いていかれるよ?」
「それは……ッ」
リリアが言葉を詰まらせた。
赤髪の彼女は何度か口を開き、声にならない音を吐き出し、また閉じる。
やがて、諦めたように肩を落とした。
眉間に皺を寄せ、唇を尖らせたまま、難しい顔で考え始める。
うん、うんとリーリエさんが満足げに頷くのを横目に、僕も思考を回した。
探索には人手が必要だ。
ならば、現在使える人員を整理しよう。
武士、冒険者、村人や町民。
まず、武士。
精強で、連携能力も高い。
しかし、今回は使えない。
理由は、<荒神祭>の準備にかかりきりだから。
更に言えば、イルゲルムに挑むには実力が足りない。
次に、冒険者。
実力にこそむらがあるものの、強力なパーティも幾つか存在する。
しかし、招集は不可能。
陰陽線が切断されたことで、物理的に【出雲】へ来られない。
実力のある冒険者も、リーリエさんの様子から判断して、現在は不在と考えていい。
最後に、村人や町民。
こちらは論ずるまでもなく却下だ。
イルゲルム発見時に、どれほどの被害が出るのか予想できない。
では、探索に必要な条件を絞ろう。
まず、強いこと。
具体的には、総体としてリーリエさんに匹敵する程度の実力を持っていること。
そして、既に【出雲】へ来ていること。
そんな都合のいい存在、いるはずが――。
「僕たちが探索するのは、どうですか?」
いた。僕らだ。イルゲルムを分身体とはいえ、撃退した実力と、自由に動かせる手札。使うとしたら、僕ら以外に考え難い。
リーリエさんが、にやりと笑った。
「すごい。正解。でも、惜しい。あと一歩」
人差し指を立て、にんまりと笑う。
「禁足地を探索するための建前が足りない。武士を押しのけてでも、君たちが動く理由。それさえあれば完璧」
――ほむ。
建前。
武士は誇り高い。
護国を己の使命としているようにも見える。
何より、冒険者を見下している様子が度々見受けられた。
見下している相手に、自分たちの役目を奪われた。
そう感じるわけか。
そうなれば、その怒りがどこへ向かうか分からない。
確かに怖い。何をしでかしてくるか全くわからない。
下手をすると寝返る可能性もある……。いや、寝返るというより、衝動的な行動を起こして、こちらの調査を阻害する可能性の方が高い。
ならば、武士たちにも納得できる名目が必要になる。
自分たちの役割。
冒険者の仕事という観点から考えてみよう。
冒険者の仕事は、大きく分けて二つある。
迷宮へ潜り、素材を持ち帰ること。
依頼主から受けた依頼を遂行すること。
今回は、迷宮は関係ない。
ならば、思考から除外する。
残るのは、依頼だ。
僕らが受けた依頼は、黄金競売の護衛。
競売の進行状況は、確か……。
「リーリエさん。黄金の競売場、まだ見つかってないって、バーベキューの時に言ってましたよね」
リーリエさんの口角が上がった。
「うん。見つかってないんだよねぇ。儀式都市である【出雲】は、どこもかしこも人でいっぱいなんだって」
「なら、提案があります」
息を呑み込み、リーリエさんを正面から見つめる。
「黄金競売の会場候補を、水陰村で探す。それを名目に、魔族イルゲルムの痕跡を調査させてもらえませんか」
一瞬の静寂。
肩口で切り揃えた髪を持つ僕らの依頼主は、満面の笑みを浮かべた。
「正解! おー、賢いなあ! エディン君は!」
思い切り僕へ抱きつき、そのまま頭をぐしゃぐしゃに撫で回してきた。
※※※
霧の山。
神秘を纏った濃霧は、吸い込んだ者の意識を朦朧とさせ、方向感覚を狂わせる禁断の霧だ。
その霧へ、リーリエさんから受け取った割符を翳す。
瞬間、霧が左右へ割れた。
そこにあったはずの山が、幻のように掻き消える。
山の代わりに姿を現したのは、一つの漁村だった。
随分と空き地が目立つ村だ。
まだ昼を少し回ったばかりだというのに、辺りは薄暗い。
「ほお。中は辺鄙な寒村か。予想はしていたがね」
「やめてください、リモルさん。村人の方が聞いたら、嫌な気持ちになるでしょう」
後ろから聞こえてきたリモルさんの悪態を嗜める。
この人には、遠慮という言葉がないんだろうか。
村の中で、その村の悪口を口にすれば、こちらの心証まで悪くなる。
そもそも、聞いていて気持ちのいいものではない。
「どうしたもんかなあ、これ」
手元には、一枚の競売参加許可証がある。
あの後、リーリエさんに散々撫で回された末、黄金競売への参加証として渡されたものだ。
『絶対に使うことになるから、とっとけ』って言われたんだけど、数が半端すぎる。
そもそも、黄金を売り飛ばしたのだって僕だ。別に競売でほしいものもないし、財政担当のアルターから睨まれてる身。競売に参加できるお金はない。
僕に渡して、どうするんだろう。
競売へ出される黄金は、僕らが【聖劍宮】で手に入れたものだ。
今更、僕が参加しても仕方がないんだけどな。
「空気が澄んでるわね」
隣に立つリリアが深呼吸し、空気の味を確かめていた。
「魔力が綺麗だからかな」
《蒼眼》で周囲の魔力場を確認しながら、所感を口にする。
蛍が飛んでいる。
近くに、綺麗な川でも流れているのだろう。
大気中に漂う原素の偏りも少ない。
それも、空気の良さに一役買っているっぼい。すごいなー、自然の美しさだ。生で見たのは初めてかも。
「迷宮都市国家は、他国よりも霊脈が浅い場所を流れているからね~。霊脈からは貴重な無色の魔力が噴き出してくる。だから、その魔力を汚染させないために、あっちこっちの村や僻地が禁足地になりがちなのさ」
イルクが、迷宮都市国家の事情を説明してくれる。
なるほど。
原素の偏りが少ないのは、その影響か。
「でも、村人の空気は悪いのです」
大きな鞄を背負ったアルターが周囲を見回し、顔を顰めた。
ほむ。
よく見れば、確かに村人たちが僕らへ向ける目は好意的とは言えない。
船の前に立ったまま、こちらを見て露骨に顔を顰める漁師。
物陰から僕らを窺いながら、ひそひそと悪口を囁くお姉様方。
おう、聞こえていないと思ってるのかもしれないけど、《蒼眼》で会話内容は全部筒抜けだぞ。
「まあ、明らかに余所者だしね~、俺ら。閉鎖的な村なら、歓迎されないのも当然でしょ」
慣れた様子で、イルクは首へ手を当て、骨を鳴らした。
「なら、競売会場の確保は僕が行きます」
モーリス君が一歩前へ出る。
「僕の暮らしていた村もそうですが、こういう場所の人たちは権威に弱いですから。リーリエ師匠の割符を見せれば、一発ですよ」
「本当? じゃあ、モーリス君にお願いするよ」
「うん。任せて、エディン君!」
モーリス君は自信満々に笑い、胸を叩く。
そのまま、お姉様方のもとへ駆け出していった。
「それにしても、エディンも上手くやったね~」
「何が?」
にやにやと笑いながら、イルクが肩を組んでくる。
僕は小さく笑い、イルクを見上げながらすっとぼけた。
「例の治癒魔法師、この村にいるって話だったからね~。依頼と調査にかこつけて、この村へ来る口実まで作るなんて、やるじゃない」
「さあ。何のことやら。僕には分からないなあ」
イルクのからかうような言葉に、とぼけてみせる。
だけど、内心では小さく拳を握っていた。
「またまた~! ずる賢くなっちゃってぇ!」
案の定、イルクには全てお見通しだったらしい。
満面の笑みを浮かべ、僕の背中をばしばしと叩いてくる。
いつもの挨拶より、数段強い。
よほど嬉しいのか、妙に力が入っていた。
「痛いよ、イルク! そんなんじゃないってば!」
「はいはい、分かったよ。リモル、リリアちゃん、アルターちゃん」
イルクは意味深に笑うと、僕以外の全員へ声をかけた。
全員、事情を察したように小さく笑い、肩を竦める。
「この辺りの調査は、俺たちでやっておくから。エディンは、例の治癒魔法師を探しておいで」
イルクはひらひらと手を振り、僕が離脱することを許してくれた。
「いや、でも」
「いいから、ほら。行っといで。こんな機会、滅多にないんだからさ~」
「そうよ。これだけ人数がいれば、魔族の痕跡を調査するくらい簡単よ」
「そうなのです。エディンは気にしなくてもいいのですよ」
「むしろ、貴公にそわそわしながら周辺を歩かれると邪魔まである。とっとと行きたまえ」
渋る僕を、みんなが気前よく送り出してくれる。
……本当に、みんないい人だ。
こんなに幸せでいいのかな。
自分勝手に動き回ってしまって、いいのかな。
だけど。
「――分かった! ありがとう、行ってくる!」
この厚意を無下にする方が、きっと失礼だ。
深く頭を下げ、砂浜を蹴る。
そのまま、海岸沿いを一直線に駆け出した。
「ん。行ってらっしゃい。魔物とかには、気をつけるんだよ~」
イルクの優しい声が、僕の背中へ届いた。
※※※
御簾籠りの奇人。
治癒魔法の腕に優れ、名医ですら匙を投げた病人や怪我人を治してしまう、稀代の治癒魔法師。
決して人前に姿を現さず、庵に垂らされた御簾の向こうから治療を施す。
あまりの出不精ぶりから、御簾籠りの奇人と呼ばれるようになったらしい。
「いないんだけど」
――そのはずだった。
《蒼眼》で庵の場所を探り当て、急いで駆けつけたというのに、御簾の奥には誰もいない。
「おんや? 禁足地で同業者に会うとは珍しい」
御簾の近くの砂浜へ腰を下ろしていた冒険者が、僕の方を振り返った。
「あんたも、どこぞの商人の護衛かい? 残念だけど、御簾籠りの奇人サマは留守ですぜ」
淡々とした口調で告げられたのは、まるで予想していなかった答えだった。
「そんなぁ。せっかく来たのに……」
思わず、その場に膝から崩れ落ちる。
マジかぁ。
せっかくイルクたちが気を回してくれたのに、留守だったなんて……。
「あー……。でも昼間、長い着物を羽織ったまま、海の方へ歩いていくのは見たぜ。多分、まだ海岸沿いにいるんじゃないか?」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
いい情報を聞けた!
即座に礼を言い、深々と頭を下げる。
頭を上げるのと同時に、両脚へ魔力を回し、一気に駆け出した。
砂埃など関係ない。
浮き足立つ気持ちのまま走り出し、岩場の目立つ海岸へ向かう。
「……元気だねえ。最近の子は」
冒険者のお兄さんの生温かい声が、僕の耳朶を打った。
※※※
海岸線を走ること、二十分ほど。
「ほーむ」
件の奇人は、どこにも見当たらなかった。
参った。
かなりの距離を走り回ったはずなのに、《蒼眼》にはそれらしい人影が全く映らない。
《蒼眼》から逃れるほどの、隠形術でも使っているのだろうか。
いや。
隠蔽系統の術式を使えば、周囲の地形や魔力に不自然な歪みが生まれる。
何より、たとえ何らかの方法で姿を隠していようと、僕の両目は存在するもの全てを見抜く。
だから、見落としているはずがないんだけど……。
「……ぉーぃ」
……ん?
どこかから、声が聞こえるような。
「ぉーぃ……。誰かぁ、助けてくれぇ……!」
救援を求める声だ。
しかも、そう遠くない。木霊しているけど、耳に届く範囲にいる。
《蒼眼》を全開にする。
岩場付近へ絞っていた知覚範囲を一気に拡張し、岩陰から波の下まで、周囲の全てを洗いざらい探っていく。
――見つけた。
五百メテル先。
銀髪の少女が、岩場の隙間に身体を挟まれている。
傍らには、壊れた魔導具が沈んでいた。
少女は身動きが取れず、助けを求めている。
助けなきゃ。
駆け出そうとした、その瞬間だった。
《蒼眼》が、海底から凄まじい速度で浮上してくる何かを捉えた。
それは、長い着物を翻しながら水面を突き破り、一息に少女のもとへ迫った。
鋭く長い指先が、空中へ複雑な魔法陣を描く。
目も眩むほど鮮やかな、緑色の光が放たれた。
驚異的な魔法制御。
淀みのない、完成された治癒術式。
間違いない。
あれが、御簾籠りの奇人だ。
だが、違う。僕が驚いているのは、そんなところじゃない。
僕が愕然としたのは、その治癒魔法の腕前に対してではなかった。
「なんで……」
長い着物の裾から、力強い二本の脚が伸びている。
袖口からは、筋骨隆々とした人間の腕。
そして、その中央にあったものは。
艶やかな黒い魚体。
瞬きを知らない、丸い瞳。
流線形の身体を持つ、一匹の巨大なマグロだった。
「なんで、
緑の光が、傷ついた少女を優しく包み込む。
慈しむように傷口へ手を添え、少女の苦痛を和らげている。
「
人を襲うはずの怪物が、人を慈しみ、救おうとしている。
僕が当然のものとして受け入れてきた世界の常識が音を立てて、根底から破壊した。