アプレ・ラプルイの朝日〜聖劍と王冠、ヤンヘラ女神の御名において〜 作:鹿鳴弥
太陽が西へ傾き始めていた。
燦々と輝く白い陽は山際へ近づき、正午を回った砂浜には、僅かな熱がこもり始めている。
波が寄せては返し、海と砂が海岸の音を奏でていた。
潮騒。
護岸が施された東塔では聞いたことのない、潮の唄。
本の中でしか知らなかった、青の音。
「お、俺は一体、何のためにここまで……」
膝から崩れ落ちたコレトーさんが、呆然と砂浜を見つめている。
僕は目を逸らし、海原へ視線を向けた。
気まずさといたたまれなさで、喉が詰まりそうだ。
隣にいるランニングマグロ君も、同じように視線を逸らしている。
やたらと潮騒の音が耳に入ってきたのは、目の前の光景へ意識を集中させたくなかったからかもしれない。
「ぐおおお…………! 絶対、リヴェータ様に密出国したことバレてるよなあ……! 嫌だぁ……! 黄金の収穫もなしに、エリス式ブートキャンプへぶち込まれるのは嫌だぁ……!」
コレトーさんは半泣きだった。
胸を押さえ、砂浜を転げ回っている。白衣に乳白色の砂がまとわりつき、見るも無残な姿になっていた。
「えっと……。大丈夫ですよ、コレトーさん! 皆で考えれば、何か名案も浮かぶはずです」
片膝をつき、コレトーさんの顔を覗き込む。
駄々をこねていた彼女の動きが止まった。
希望に潤んだ灰色の瞳が、真っすぐ僕へ向けられる。
「でも、どうすんだよ。どうやって競売へ潜入するっていうんだよぉ。無駄な希望を持たせんじゃないよぉ」
だが、それも一瞬だった。
瞳に浮かんでいた希望がしおれ、ふてくされたようにそっぽを向く。
勢いよく頭を左右に振ると、特徴的な銀髪に付着していた砂が飛び散った。
大きなため息を吐き、再び砂浜へ倒れ込む。
どんよりとした空気が、辺りを覆った。
……だんだん、面倒臭くなってきたな。
いや、途中で放り出すのは、最低の行為だ。
やると決めたなら、とことんやる。
問題の芽は根まで掘り起こし、二度と生えてこないように叩き潰さなければ、後になって更に面倒なことになる。
東塔で身につけた経験を、蔑ろにはできない。
頭を振り、浮かびかけた怠惰な思いを吹き飛ばす。
「一応、僕は黄金競売の護衛として、リーリエさんから依頼を受けています。そこが何かの突破口になるんじゃないかな、と」
「マジ!?」
コレトーさんが、ばね仕掛けのように跳ね起きた。
勢いよく上半身を起こし、希望に満ちた瞳を僕へ向けてくる。
「へへ……。エディンの旦那ぁ……! こっそり俺を中へ入れてくれたりは――」
「しませんね」
「ナンデぇ!? ちょっとくらいいいじゃん!!」
「信頼に関わるので駄目です。依頼はきっちり果たします。いくら揉み手をしても駄目ですよ」
仕組みの裏を突く方法を考えるのは構わない。
だけど、信頼を裏切るような真似をするつもりはなかった。
当然だ。
リーリエさんは、僕たちならできると信頼して依頼を託してくれた。
ならば、それへ誠心誠意応えるのが筋というものだろう。
僕自身の評価がどうなろうと、さほど興味はない。
だけど、寄せられた期待や信頼へ砂をかけるような真似や、仲間であるリリアやアルターの評価まで下げるような行為は、絶対に許容できない。
「どうにか、正面から参加する手段があればいいんですが……」
「ちなみに、競売へ入るための条件は?」
「この水陰村へ入ったうえで、競売の参加許可証を入り口で見せればいい、とリーリエさんは言っていました」
「じゃあ駄目じゃんね。俺、参加許可証なんか持ってないし……」
コレトーさんは唇を尖らせた。
人差し指同士をつつき合わせながら、深いため息を吐いている。
「そうでもないと思いますよ。水陰村へ入れている段階で、最初の条件は満たしていますから」
「それはそう。なんか、行ける気がしてきたなぁ~! あとは参加許可証を偽造すれば……」
「それを見つけたら、僕がリーリエさんへ突き出しますからね」
「意味ねえじゃん!!」
調子のいい人だな。
やたらと元気を取り戻したコレトーさんを横目に、顎へ手を当てて考える。
残る問題は、参加許可証。
でも、あれはリーリエさんが直々に錬成した代物だ。
そう簡単に入手できるとも思えな――。
上着のポケットへ手を入れた瞬間、指先に違和感が触れた。
カードのような薄い物体が二枚、ポケットの中に入っている。
冷たい感触。
金属で表面を覆われているような、滑らかな手触り。
恐る恐る、それをポケットから取り出した。
「競売参加許可証……だ」
思い出したのは、リーリエさんの屋敷を出る直前のこと。
『絶対に使うことになると思うから、持っとけ』
『そいつをどう使おうが、エディン君の勝手だ。使い道に、此はいちいち口出ししないさ』
……リーリエさんは、確かにそう言っていた。
水陰村へ入ってからも、何に使えばいいのか分からず、ずっと処遇に頭を悩ませていた。
「え、エディンさん? も、もしや、それは……!」
「差し上げます!!」
「即答かよ!? てか、いいのかよ。貴重なもんだろ、これ。そんなほいほい他人へ渡していいのか?」
僕は迷わず、参加許可証をコレトーさんへ手渡した。
「だって、僕には必要ありませんから。必要としている人に渡すのが、一番有意義な使い方でしょう。……それで」
にっこりと笑い、コレトーさんと向かい合う。
「リーリエさんの目を、どうやって誤魔化しましょうか」
コレトーさんの笑顔が、音を立てて凍りついた。
※※※
「そうだ……。師匠がいたんだった……。忘れていた……」
「忘れていること多すぎませんか?」
「へ、へへ……。すいやせんねえ、エディンの旦那ぁ」
参加証を胸へ抱き締めながら、コレトーさんは気色の悪い笑みを浮かべる。
凄いや、こんなに下心が透けて見える笑顔なんて、滅多にお目にかかれない。
コレトーさんの一種の才能だな、これ。
「師匠にバレたくねえ……。なんつーか、単純に気まずい」
「どうしてですか? お世話になった相手なのでしょう。挨拶するのは、いいことじゃないですか」
「
「分かりません」
「不明。理解できません」
「クソッ、感覚が伝わらねえ!」
コレトーさんは天を仰ぎ、銀髪を乱暴にかき上げた。
「まあ、つまり普通に気まずいのよ。それに、今の俺は聖教国所属だ。もうこの国の人間じゃない。しかも密入国者。分かる?」
ああ……。
何となく分かったかもしれない。
要するに、まだ強くなれていない段階で、リステリアへ帰らなければならなくなった場合の僕だ。
それは確かに気まずい。
「なるほど……。では、変装するのはどうでしょう」
「容姿は、師匠のところにいた時代からめちゃくちゃ変わってんだって!」
「ほむ……。いっそ、大道芸でもしながら入場してみては? 両手から水を噴き出しながら歩く、とか」
「それ、もうやったことあるんだよなぁ……」
「どうして経験済みなんですか?」
普通は未経験だろう。
何をどう生きたら、そんな大道芸をする機会が訪れるんだ、この人。愉快すぎるでしょ。
「声を変えるとか。鶏の真似をしながら入るとか」
「おう。なんでお前、さっきから頓珍漢な案しか出さないん??」
「意外性はあります」
「求めてないのよ、それ。俺が求めてるのは偽装なのよ」
し、仕方ないじゃん!
本当に、何も思いつかないんだから!
そもそも僕は、嘘をつくのも得意じゃない。
そういうことには不慣れなのだ。
僕を頼ること自体が、人選ミスでしかない。嘘とかつかずに生きてきた十三年なんだぞ。
嘘つく相手がいなかっただけだけどさ。
「提案」
ランニングマグロ君が、姿勢よく片手を挙げた。
「コレトーさんは、非常に男らしい口調と振る舞いをしています。ならば、正反対の女性を演じ、別人として潜入すればよいのでは?」
コレトーさんと僕は、互いに顔を見合わせた。
灰色の瞳に、僕の蒼い目が映り込む。
「そ――」
「「それだー!!」」
※※※
「解説。作戦を説明します。コレトーさんは、まったく別の人物を演じ切ってください。正体を誰にも悟られず、黄金競売へ参加するのです」
ランニングマグロ君は、自身の魔力を宙へ浮かせていた。
黒板代わりにした平面状の魔力を操作し、その上へ文字を表示していく。
「成功すれば、黄金を入手して無事に本国へ帰還できます。しかし、失敗すれば密入国の件も含め、リーリエさんへ正体が露見します」
「あのー……。
砂浜へあぐらをかいて座ったコレトーさんが、僕の羊羹を頬張りながら魔力板を眺めている。
なぜかコレトーさんは、ランニングマグロ君をハンドラーと呼び始めていた。
「挽回。安心してください。対策は考えてあります」
ランニングマグロ君はそう言うと、どこからか分厚い本を取り出した。
表紙には、『あなたが思う、大和撫子』と書かれている。
コレトーさんと一緒に中身を覗いてみれば、礼儀作法や言葉遣い、歩き方や食事の所作まで、大量の情報が載っていた。
「あのー。覚えられる気がしないんですけど。覚えられなかった場合は?」
「回答。作戦の失敗確率が高まります。コレトーさんは、競売までに内容を記憶し、正体を見破られないよう任務を遂行してください」
「アッ、はい。頑張りまーす」
コレトーさんは、本を血眼になって読み始めた。
しかし、コレトーさんは帰る時にどうするつもりなんだろう。
海辺へ突き刺さっている飛空艇らしき残骸は、かなり大きい。
横幅だけでも三メテルほど。僕二人分くらいの大きさがある。
いかに錬金術の達人とはいえ、あれほど大きな物を造り直せば、リーリエさんに気づかれそうなものだけど。
……まあ、イルクに頼めばいいか。
いざとなれば、兄貴分であるイルクへ事情を説明し、彼女を旅に同行させてもらえば何とかなるだろう。
【赤戦神艦】で旅をしていた時、イルクが聖教国の出身だと聞いた。
帰国するまで彼に丸投げしても、恐らく大きな問題にはならないはずだ。
「分っかんねえ……。女、クッソ面倒臭いな、これ……」
がしがしと頭を掻きながら羊羹を頬張り、あぐらをかいて砂浜へ座っているコレトーさん。
……本当に、この人は女性なのかな?
仕草があまりにも男性的だ。
決めつけはよくないけれど、彼女の振る舞いは男性――それも、中年男性のものにしか見えない。
話を戻そう。
ともかく、彼女は聖教国の重鎮だ。
長期間にわたって密入国している事実が露見すれば、外交問題になるのは避けられない。
リステリアから出奔している僕が言えた話じゃない?
大丈夫。
強くなったら、僕も東塔へ戻るつもりだから。
祖国の危機を救えるだけの力を手に入れたら、きちんと帰国する予定だ。
手へ力を込め、握り締めた拳を見つめながら考える。
――【天璽聖劍】と、<
【勇者】の力。
【天璽聖劍】はともかく、<
思い出すのは、ヴァルガスさんから託された<
魂を覆うような、魔法法則や物理法則とも異なる、神聖さを感じる力の鎧。
【聖劍宮】を攻略していた時、常に傍らへあった仮初めの力を、今の僕は完全に喪失している。
<
そう考えれば、いずれ僕も聖教国へ足を運ぶことになるだろう。
<
「了承。理解しました」
ランニングマグロ君は、真っすぐに魔力板を見つめている。
内容を確かめるように、何度もツナツナと復唱していた。
「ハンドラー、質問。ハンドラーって御簾の中に住んでるんだろ? 普段はどうやって人目を避けてんの?」
コレトーさんが、羊羹を食べながら尋ねる。
「回答。魔導具を用いておりました」
ランニングマグロ君も羊羹を頬張りながら、コレトーさんの疑問へ答えた。
やっぱりか。
ランニングマグロ君は、長い間【水陰村】へ隠れ住んでいた。
これほど目立つ体躯でありながら、魔物だと発覚していなかったのだ。
彼が住んでいた御簾も視てきたが、隠蔽や認識疎外、幻影に関する魔力の残滓は残っていなかった。
そう考えれば、何らかの魔導具へ頼っていた可能性が高い。
直感だったけど、当たっていた。
「それって、このマント?」
コレトーさんが片手で、襤褸切れのような布を取り出した。
「気休めにしかならないと思うぞ。これで競売会場なんかに行ったら、一発で正体がバレるぜ」
衝撃の事実が、彼女の口から放たれた。
※※※
「しっかり壊れてんね。潮風の影響だと思われ」
コレトーさんは、マントの残骸をまじまじと眺めながら淡々と告げる。
「それに、こいつは軽い認識疎外の霧を纏わせるだけだ。修理しても、人が大勢集まる場所じゃ簡単に見破られるね」
そ、そんな……。
二人の正体を隠すために使えると思っていた手段の一つが……。
重苦しい空気が、肩へ圧し掛かる。
眉間へ皺を寄せながら思考を巡らせ、他の方法を探ってみる。
だけど、上手い手段は何一つ思い浮かばなかった。
あ。いや、待てよ。
「ないなら、作ってしまえばいい」
隠蔽用の魔法なんて、今まで学んだことはない。
だけど、やるべきことは光学情報と魔力反応の隠蔽だ。
作成難度は高いかもしれないが、試してみる価値はある。
「円形魔法陣を基礎にして……。雷と闇を主要原素へ設定……。光学情報と認識へ干渉して……。あとは、結界術式を魔法として再現すれば……。よし。圧縮すれば、二万文字くらいで収まるな」
ぶつぶつと独り言を呟きながら術式を組み上げ、一気に魔法陣を構築する。
「<
幾重にも積層された、立体魔法陣を浮かべる。
大きさは、手のひらほど。
この程度なら体のどこへでも隠せるし、悪くない出来なんじゃないか。
「はえー、すっごい……。第四等級くらい? 大魔法の一歩手前じゃん。にしても、見たことない魔法だな……」
コレトーさんが灰色の瞳を輝かせ、僕の作った魔法陣を覗き込む。
「<
「僕です」
「僕ゥ!?」
コレトーさんが目を剥き、勢いよくこちらを振り向いた。
口を大きく開き、顔中に驚愕を浮かべている。
「い、いつ造ったん? お前さ、超越者とかじゃないよね? 長命種の人間ってわけでもないよな?」
「はい。十三歳です」
コレトーさんが、何度も頭を左右へ振る。
額へ手を当て、大きなため息を吐いた。
「……おーけー、分かった。もしかして、生まれた時から魔法を開発してたタイプ?」
「いいえ。今、造りました」
「今造ったァ!?」
コレトーさんの口が、顎の外れそうなほど大きく開かれた。
端正な顔が台無しだ。
何度も瞬きを繰り返し、小さな両手で僕の肩を掴んでくる。
「おま、お前なあ! 魔法開発がどれだけ大変なのか分かってんのか!? お前の倍どころじゃない年齢の魔法師が、何十年もかけて造るもんだぞ!? 魔法開発に行き詰まった末、精神を病んで療養院送りになる奴だっているんだぞ!」
コレトーさんは顔を青ざめさせ、何度も僕の肩を揺さぶってきた。
がくん、がくんと体が前後に揺れる。
肩の肉が軋むほど強く掴まれている。
痛い……。
「学堂の変態どもに、こんなことが知れたらどうなると思ってんだ!? 何十年も金と時間をどぶに捨ててきた奴らに、研究対象として殺されるぞ!?」
なるほど。
怒っている理由は分かったけど、言い回しが物騒すぎる。
「まあ、いいや。この魔法はどうです? 悪くないでしょう」
肩へしがみついているコレトーさんを引き剥がし、ぼうっとこちらを眺めているランニングマグロ君へ魔法陣を見せる。
コレトーさんとの会話は楽しい。
だけど、この人と話していたら、会話が無限に脱線する。
海へ目を向ければ、夕日が水面を橙色に染めていた。
イルクたちと別れてから、既に一時間ほど経っている。
そろそろ戻らなければ、イルクが心配し始める頃だ。
話を進めなければ。
「……否定。意味が分かりません。難解すぎます。ワタシには、この術式を発動することも、維持することもできません」
「………………え?」
体が固まった。
ランニングマグロ君は、僕が展開している魔法陣を困惑した目で眺め、青黒い魚肌を指先で掻いている。
ば、馬鹿な……。
恐らく、リリア……は難しいか。アルターでも使える程度には簡略化した術式だ。
治癒魔法を操れるほど聡明な彼が、使えないなんてことがあるのか?
「使えるわけねえだろ。お前、これ第四等級の魔法だぞ? 十段階のうち、上から四番目なの。分かる?」
コレトーさんが銀髪をかき分け、灰色の目で僕を睨みながら指を突きつける。
「いくら燃費よく仕上げても、普通の術者じゃ集中力が続かねえんだわ。第四等級なんてな、八十歳くらいの魔法師が、ようやく覚えてるかなって規模だぞ。そんなもんの維持を、他人へ強要すんなっ」
軽い調子で、コレトーさんの手刀が僕の頭へ叩き込まれた。
「痛っ」
そうか……。使えないのか。
参った、かなり簡略化して仕上げたつもりだったのに、これでも使えないとなると困る。
「が、ここにいるのは俺」
コレトーさんが、残っていた羊羹の一片を口へ放り込む。
小さな喉が動き、羊羹が喉奥へ消えた。
赤い舌が、指先に付着していた糖分を舐め取る。
「千年に一人の錬金術の大天才、小鳥遊コレトー様にかかれば」
コレトーさんは不敵に笑い、魔法陣を浮かべた。
懐から取り出したのは、霊木の枝。
手から生み出した光で、枝と僕の魔法陣を包み込み、錬金術を起動する。
「この程度の術式を魔導具化するくらい、わけもないってことよ」
霊木の枝が折り畳まれていく。
飴細工のように柔らかく形を変え、先ほどの魔法陣を再現する術式核へ変貌していく。
余った木片も折れ曲がり、木製の指輪を形作った。
「ほい。魔法演算と術式維持に特化した魔導具ね。特定の魔法を発動することだけに性能を絞ってある。魔力の自動徴収機能も組み込んだから、残存魔力にだけは注意しろよ。魔力さえあれば、術式は勝手に維持される」
コレトーさんは指輪を、ランニングマグロ君へ投げ渡した。
彼は受け取った指輪を人差し指へ嵌め、魔力を流し込む。
瞬間、彼の体を淡い光が覆った。
光が幻影を生み出し、手足の生えたマグロの姿を、精悍な男性へと塗り替えていく。
黒髪に、紅い瞳。
成人男性ほどの背丈を持つ、細面の青年だ。
「ん。よし。人前へ出る時は、これを付けとけ。あとは……」
「よいしょ」と声を漏らしながら、コレトーさんがランニングマグロ君の背へ登った。
魔導具が自律的に幻影を調整し、まるで彼がコレトーさんを背負っているかのような外見へ変わる。
背中が曲がり、重たい荷物を背負っているような姿勢になった。
「人目のある場所では、こうしてればいい。横幅もある程度は誤魔化せるし、これなら正面からぶつかってくる阿呆もおらんやろ」
「なるほど……。では、これで解決ですね」
「いや、まだ解決しとらんて」
コレトーさんが、呆れたように目を細める。
「名前だよ。符丁。スパイ任務には必要だろ」
「あ、確かに」
完全に忘れていた。
競売会場で、コレトーさんを本名で呼ぶわけにはいかない。
「では、ドールさんで」
「雑ゥ! もっと考えろよ! なんかさ、あるじゃん? アリスとか、キキとかさぁ!」
「あとは……君ですね」
「無視すんなし。泣くぞ? いい歳した大人が、でっけ~~~声で泣くぞ?」
「君、そういえば名前はあるの?」
「露骨に距離取られるの、普通に傷つくからやめてくんない?」
砂浜を転がりながら喚き続ける
彼らに名前という文化が存在するのかは分からない。
知性を持つ魔物と接触したこと自体が初めてなのだ。
人間の常識が、どこまで通じるのかも分からない。
「回、答……。ありません。ワタシに、名前はありません」
一瞬。
ランニングマグロ君の瞳に、幾つもの感情が浮かんだ。
苦しみ。
悲しみ。
そして――怒り。
僕ではない、何かへ向けられた負の感情が渦巻き、すぐに掻き消えた。
「そっか」
それ以上は、何も聞かなかった。
出会って一日も経っていない人間が踏み込んではいけない何かを、彼の中に感じた。
「なら、僕が名前を付けてもいい?」
だから、気づかないふりをした。
ランニングマグロ君の瞳が、僅かに揺らぐ。
意外なものを見つけたような、知らない何かへ触れたような。
そんな
「マグロ……。マグロにちなんだ名前だから……」
考えを声に出しながら、顎へ手を当てる。
コレトーさんから向けられる白けた視線は、意図的に無視した。
どうせ、僕の命名能力について何か言いたいのだろう。
「――ログマ! 君の名前は、ログマだ!」
考えをまとめ、その答えと一緒に手を差し出す。
ランニングマグロ君――ログマは、じっと僕を見つめていた。
彼が何を背負っているのかは知らない。
何を憎み、何を呪っているのかも知らない。
だけど、せめてもの祝福を。
これから共に歩むと決めた彼へ、僕から信頼の花束を。
「――拝領。ありがとうございます、エディン。ワタシはログマ」
「アナタの期待に応える、ログマです」
僅かに微笑み、ログマは僕の手を握り返した。
今は何も知らない。
無理に暴くつもりもない。
ただ、君という種が、欺瞞なく自らの名を名乗れる世界が訪れますように。
僕は祈りと共に、彼の手を強く握り返した。