アプレ・ラプルイの朝日〜聖劍と王冠、ヤンヘラ女神の御名において〜 作:鹿鳴弥
朝。
眩い光が、室内を照らしている。
晴天の朝日が
「ん……」
清々しい朝だ。
目を閉じたまま布団の中で身じろぎし、今日の予定へ思考を巡らせる。
今日は昼から海岸の探索。
まだ朝餉の香りはしない。
《蒼眼》で屋敷の周囲を視てみれば、近くの家々の煙突から炊煙が上がっていた。
海岸では、漁師たちが今朝の漁で得た魚を、船から次々と降ろしている。
その傍らでは、イルクが何やら交渉をしていた。
今朝の料理当番は、確かイルクだ。
イルクは料理に凝り性なところがある。
朝ごはんが完成するまでには、まだしばらく時間がかかると見ていいだろう。
「ん~……」
つまり、あと一時間くらいは眠っていられるということ。
ああ、素晴らしき二度寝。
食べ物の心配もせず、安心して眠りこけられるなんて、贅沢にもほどがある。
いざ、布団を頭から被り、再び夢の世界へ旅立たん――。
「むん……?」
つん、つん。
頬を二度、指で突つかれた。
「エディン」
布団の中へ、女性の細い右手が入り込んでいる。
沈みかけていた意識を引き戻し、布団の外へ目を向ける。
赤い髪の少女が、僕のすぐ傍に座っていた。
リリアだ。
寝間着姿のまま僕の布団へ手を突っ込み、じっとこちらを見つめている。
「どしたの」
霧散しかけていた意識をどうにか掻き集め、毛布から頭を出す。
眠そうな目だ。
朝方のリリアにしては珍しい。
勝ち気な猫のように吊り上がった目尻が、今は柔らかく垂れている。
隣からは、アルターの大いびきが聞こえてきた。
珍しく僕の布団に被害がないと思ったら、リリアの布団を奪い取り、頭から包まって眠っている。
こんにゃろう、僕が風邪引いたらどうすんだ。破産するまで出前取るぞ。
「外、行かない?」
※※※
潮の香る海岸線。
山の端から差し込む光が海を照らし、寄せては返す波が白く煌めいている。
「ちょっと寒いわね」
隣を歩くリリアへ、苦笑いを向ける。
彼女が着ているのは、素朴な白いワンピース。
白い肩や腕が露出していて、見ているこちらまで寒くなってくる。
春先とはいえ、冬が明けたばかりの朝方だ。
夏に着るような薄着では、リリアといえど風邪を引いてしまう。
「まだ春先だからね」
僕は着ていたコートを脱ぎ、黙ってリリアの肩へ羽織らせた。
うん、よし。これで、少なくとも見た目の寒々しさはなくなった。
「……アリガト」
「どういたしまして」
リリアは僅かに俯き、頬を赤くした。
コートの襟元を両手で掴み、その内側へ顔を埋めるようにしている。
「エディンの匂いがする」
「ほんと? 臭かった? 毎日浄化魔法はかけてるけど、ちゃんと洗濯もした方がよかったなあ」
このコートは、イルクから貰ったものだ。
もともと着ていた服はイルクに回収され、【赤戦神艦】の中で新しい服を見繕ってもらった。
最初は必要ないと断ったんだけどね。
『その継ぎ接ぎまみれ、血痕まみれの服で街中を歩く気~?』
なんて言われたら、ぐうの音も出ない。
洗濯して乾かす時間が惜しかったし、何度も洗えばコートの生地も傷む。
だから浄化魔法だけで済ませていたけど、やっぱりそれだけでは不十分だったのかな。
「ううん」
リリアは小さく首を横へ振った。
「わたしは好きよ。エディンの匂い」
花が咲くような笑顔で、そう言った。
「……そっかあ」
照れるようなことを、平然と言ってくれる。
顔が熱くなってきた。リリアは時々、何でもないことのように、こういう言葉を口にする。
どう反応すればいいのか、いつも困ってしまう。
リリアは上機嫌に鼻歌を歌い始め、後ろ手を組んで僕の少し前を歩く。
腰に剣がない。
朝ならば必ず振り回している愛剣も、鍛錬用の木刀すら持っていない。
本当に、ただの散歩だったんだ。
僕だけ木刀を持ってきたのが、馬鹿みたいじゃないか。
いや、リリアは最初から散歩だと言っていたけどさあ……!
「ふふ」
木刀を持ってきた自分に難しい顔をしていると、リリアがどこか嬉しそうに笑った。
「エディンは、やっぱりわたし達のことをよく見ているのね」
「そりゃね。リリア達のこと、大好きだし」
「………………!」
「ちょ、リリア。叩かないで。分かった、分かったから」
顔を真っ赤にしたリリアが、僕の腕をぽこぽこと叩いてくる。
片手で軽く押し留めながら、何度も繰り出される弱々しい拳を受け流す。
「……とにかく」
リリアは小さく息を吐き、表情を整えた。
「エディンは、いつもわたし達を見てくれている」
静かな口調だった。
普段の威風堂々としたリリアらしくない、凪いだ水面のような声。
耳を澄ませば、その向こうに潮騒が聞こえるほどの静けさだった。
「ずっと、わたし達を一番に考えてくれている。いつも、わたし達に嘘を吐かずに行動してくれている」
リリアは穏やかに微笑んでいた。
「そのうえで、エディンに聞きたいの」
足を止める。
赤い髪が、朝の潮風に揺れた。
「エディン」
真っすぐに、彼女の碧眼が僕を映す。
「わたし達に隠していること、あるよね?」
心臓が跳ねた。
どうして、どうしてリリアは、僕が何かを隠していると分かったんだ。
「わたし達も、エディンを見ているから」
リリアは優しく笑う。
……そうか。
仲間を大切に思い、いつも見ていたのは、僕だけじゃない。当たり前のことを、僕は失念していた。
……もう、隠しておくべきじゃない。
バレていたのなら、もう喋ったほうがいい。
「リリア、実は――」
ログマのことを打ち明けなきゃ。
彼の正体を知りながら保護し、みんなに隠していたことを、きちんと説明しなければならない。
逡巡を呑み込み、リリアへ向き直った。
「――いいの」
唇へ、リリアの人差し指がそっと添えられた。
彼女の表情は変わらない。
とても嬉しそうに、僕の前で笑っている。
「無理に言わなくていいの」
リリアの指先から、微かな温度が伝わってくる。
「今は話すべきじゃないって、エディンが思ったのでしょう?」
僕は何も答えられない。
「なら、エディンが話してくれるまで、わたし達は待つ」
彼女は人差し指を僕の唇から離した。
「でも、いつかは話して」
少しだけ、眉を下げる。
「エディンが、もう話しても大丈夫だと思えた時に。絶対よ?」
そして、再び太陽のように笑った。
「わたしは――ううん。わたし達は、エディンを信じているから」
リリアは踵を返す。
「じゃあ、またあとでね!」
呆然と立ち尽くす僕を残し、手を振りながら屋敷の方へ戻っていった。
「そう、か――」
何のことはない。
隠し事をしていることなんて、最初から気づかれていた。
自分は、何を馬鹿馬鹿しいことで悩んでいたんだろう。
リリア達は、僕を信じてくれている。
僕が話せるようになるまで、待ってくれている。
それなのに僕は、彼女達を誤魔化すことばかりに必死になっていた。
「ほんっと、すごいなあ。みんな」
胸の奥に詰まっていた大きな何かを、息と共に吐き出す。
顔を上げた。
山の向こうから、太陽が昇る。
冷えた春先の空気を暖かな光が照らし、コートを脱いで軽装になった僕の身体を包んだ。
「こりゃ、ちゃんとログマを説得しなきゃ」
山間を越えて差し込む陽光を鼻先で感じながら、先を歩いていく少女の後を追う。
「エディーン! 早く戻らないと、朝ごはんが遅れちゃうわ!」
太陽のように笑うリリアの、よく通る声。
それが、朝焼けに染まる静かな海岸線へ響き渡った。
「今行くー!」
外れかけていた木刀をベルトへ巻き直し、僕達が借りている屋敷へ向かって駆け出した。
※※※
「おー、おかえり~。朝の散歩は、もういいのかい~?」
厨房では、既にイルクがお玉を振るっていた。
味噌の優しい香りと、煮込まれた魚の匂い。
屋敷全体に漂っていた香りの大元は、既に戦場と化していた。
菜箸とお玉の残像が、鍋と鉄鍋の間を目まぐるしく行き来している。
「うん。朝ごはんを任せっきりにしちゃって、ごめん」
小さく頭を下げ、イルクの隣へ寄る。
「リリアちゃんは?」
「素振りしに行った」
「相変わらずだねえ」
イルクは苦笑した。
お玉で鍋の中を掬い、小皿へ僅かに汁を注ぐ。
「味見、お願いできる~?」
「いいの!? ありがとう!」
差し出されるまま、小皿へ口をつける。
舌先を通る、透き通るような魚介の旨味。
味噌の濃厚な味と香りが同時に舌を打ち、白身魚の上品な脂が喉を通り過ぎていく。
「おいしい!」
「そりゃよかった。随分と昔ながらの台所でね~。慣れるのに苦労したよ」
そう言いながら、イルクは手慣れた動作で竈へ炭を投げ入れる。
火元へ繋がった竹筒に取りつけられたペダルを踏み込むと、竈の奥へ勢いよく空気が送り込まれた。
炎の勢いが一気に強くなり、羽釜の隣に開いた口から赤い火が噴き出す。
「僕も手伝うよ」
「お、いいの~? なら、串魚を焼いてもらおうかな」
イルクが、左手に嵌めた黄金の腕輪を起動させる。
異空間から、串を打った小魚が八本現れた。
それを《
塩は絶妙な加減で振られている。
八本の串を手に持ち、炭火へ翳した。
あとは、焼き加減へ集中するだけ。
ジュッ……。
魚の表面から水分が飛び始める。
見る見るうちに皮が乾き、僅かな湯気が立ち上った。
熱を受けた皮が縮み、羽釜から漂う米の甘い香りへ、魚の脂の匂いが混じり始める。
食欲を掻き立てる、悪魔的な香りだ。
やがて、魚の表面が僅かに張り始めた。
ジュウ……ゥ。
皮に光沢が生まれる。
魚の脂が溶け出し、一滴の雫となって炭火へ落ちた。
じゅわり、と白煙が立つ。
炭火と魚の香ばしい匂いが、一層濃くなった。
――今だ。
《蒼眼》で焼け具合を見切り、素早く一本の串を引き上げる。
「お、ナイス~」
イルクから賞賛の言葉が飛んでくる。
へへん、どうだ。
僕の料理の腕前も、なかなか捨てたものではない。
次々と焼き上がった串を引き上げ、皿へ盛りつけていく。
ついでに一本だけ串を抜き、身の中に残った骨を丁寧に取り除いた。
リモルさんの分だ。
リモルさんは骨が残っていると、魚を食べようとしない。
全くもってわがままな話だ。
【伯方】にいた時も、骨が入っているというだけで魚を丸ごと残していたことがある。
僕が食ったからいいんだけどさ、出されたものを食べないってなかなか僕にとって不快なんだよね。
さて、イルクの方はどうなったかな。
そう思い、ふと彼へ目を向けた。
「うわあ……」
三つほどの作業を、同時にこなしている。
右手の菜箸と鉄鍋――卵焼き器で、見事な卵焼きを作っている。
すぐさま左手でお玉を握り、別の鍋に入ったあら煮を掻き混ぜる。
そのまま足元のペダルを踏み込み、竈の火力まで細かく調節していた。
(まだまだだな)
僕には、あれほど異なる動きを一度に処理することはできない。
イルクには、まだまだ及ばない。
料理の腕前も、戦闘も、イルクから教わりたいことは、山ほどある。
「よし、いい感じだね~。ちゃちゃっと運ぼうか~」
羽釜の蓋から勢いよく水蒸気が噴き出した。
それを合図に、イルクは再び汁物の味を確かめ、満足そうに頷く。
手慣れた仕草で椀へ味噌汁を注ぎ、盆の上へ朝食を並べていった。
ご飯。
焼き魚。
あら煮。
卵焼き。
人数分を用意すると、イルクが人差し指をくい、と傾ける。
盆の数々が《統巡》によって宙へ浮かび上がった。
「うん!」
僕もイルクが持ち切れなかった分を手に取り、残りを《統巡》で浮かせながら広間へ向かう。
さあ、朝ごはんだ。
※※※
「さて。今日の予定を確認していこうか~」
僕の隣に座るイルクが、両手を合わせた直後に口を開いた。
目の前には囲炉裏。
自在鉤から吊るされたあら煮の鍋が、火にかけられている。
「わたしは、この人の護衛ね」
左隣に座るリリアが、ご飯を箸で口へ運びながら、右端に座っている少女へ視線を向けた。
コレトーさん。
今はドールさんと名乗っている少女だ。
「一応、アルターもついていくのですよ~」
あら汁へ口をつけながら、アルターがこちらへピースサインを向けてくる。
ほむ。アルターが一緒なら安心だ。
熱心で真面目なリリアと、享楽的で適当なコレトーさん。
どう考えても、相性がいいとは思えない。喧嘩してコレトーさんがボコボコにされる。普通に最悪だ。
アルターなら、二人の間を取り持つ優秀な緩衝材になってくれるだろう。
「よろしく~。俺はエディンと一緒に、周囲の探索へ行ってくるから~」
イルクが僕の頭へ手を置き、ゆったりと撫でる。
「あら。エディンは、てっきりわたし達についてくると思っていたのだけど」
リリアが目を細め、ドールさんへ横目を向けた。
当のドールさんは、居心地が悪そうに味噌汁を啜っている。
しかし、器の持ち方も、汁を飲む所作も非常に丁寧だ。
昨日までとは打って変わった、深窓の令嬢じみた振る舞いだった。
「仕方ないでしょ~。エディンの《蒼眼》があった方が、探索は捗るんだからさ」
イルクが肩を竦める。
「こっちには、こっちの約束もある。ドールさんの護衛は、二人に任せるよ。ドールさんも、それでいい?」
「——もちろんです」
ドールさんは食器を静かに置き、懐から取り出したナプキンで口元を拭う。
「わたくしも、異論はございません」
滑らかに微笑んだ。
「エディンさん。どうぞ、わたくしには構わず、お役目を果たしてくださいませ」
昨日の失態とは比べものにならないほど流暢だ。
イルクの迷宮特典って、やっぱりとんでもないな……。
【愛し姫の代詠】。
効果は、姿の変容。
そして、あらかじめ設定された人物像に合わせて、口調や立ち振る舞いを自動的に翻訳するものだと聞いた。
それにしたって、昨日の醜態からかけ離れすぎていないか?
姿そのものは、コレトーさんから大きく変わっていない。
しかし、身元の特定に繋がりそうな装飾品や特徴は、全て認識できなくなっている。
隣のリリアも、若干引いた顔でドールさんを見つめていた。
まあ、昨日の
俯瞰で見たら、僕もおんなじような顔をしていた。
「何か?」
ドールさんが、可憐に小首を傾げる。
すごい。
とんでもなく可愛い小首の傾げ方だ。
奥ゆかしさから最も遠い場所にいたコレトーさんからは、到底考えられない。
「ほほほほほほ……」
リモルさんが、奇妙な笑い声を上げた。
視線は真っすぐ、ドールさんへ釘づけになっている。
座っているのは囲炉裏の一番奥。
ドールさんから最も離れた位置へ、意図的に隔離されていた。
その紅い目には、やっぱり危険な好奇心が宿っている。
「なんだよ、リモル。気色の悪い笑い方をしやがって」
「なに」
リモルさんは口の端を持ち上げる。
「他者との交流に難のある人嫌いのイルクが、これほど自然に見知らぬ人間を宿へ招き入れたのだ。面白い以外の感想など出まい?」
口元が、愉悦の弧を描いた。
「よほどの重要人物と見える」
リモルさんの瞳が細まる。
「しかも、意図的に僕から遠ざけた位置へ座らせている。はてさて、そこまでして守りたい人物とは何者なのか、とね」
「簡単だ。エディンが、漂着していた女の子を放っておけなかったから泊めているんだよ」
イルクは全く動じず、卵焼きを口へ運んだ。
「それに、お前は国際指名手配犯だろう。どこの世界に、指名手配犯を客人の隣へ座らせる奴がいるんだ」
呑み込んでから、冷淡に言い放つ。
「この場へ同席させてもらえているだけでも、ありがたく思え」
……上手い。
イルクは全く動揺を見せず、嘘も吐かずに言い切った。
それにしても、今日はイルクと一緒に行動するのか。
一瞬、浜辺へ置いてきた友人のことが頭をよぎった。
イルクとの探索が嫌なわけではない。
だけどログマは、今も一人だ。早く彼の性格や考え方を詳しく知り、人の中へ馴染むための方法を探したい。
リリアとの約束に関わる隠し事も、ログマのことだし。
リリアは僕を信じて待ってくれている。いつまでも待たせ続けるのは、僕の性に合わない。
「問題ございませんわ、エディンさん」
食事を終えたドールさんが、真っすぐこちらを見た。
「あの件は、わたくしが応対いたします」
柔らかく微笑む。
「エディンさんは心置きなく、探索へお向かいくださいませ」
……なるほど。
ログマのことを、それとなく聞いておいてくれるのか。
ありがたい。リリアとアルターも上手く離しておいてくれるのなら、なおさら助かるけど……。
ちょん、ちょん。
二度、僕の肩を指先で突つかれた。
イルクだ。
先ほどとは一転して、にへらと笑っている。
イルクは《統巡》の応用で宙へ気魄を躍らせ、文字を描いた。
《蒼眼》を持つ僕にしか読めない、薄い文字。
『リリアちゃんとアルターちゃんへ隠していることについてでしょう? なら、俺からそれとなく伝えておく。安心しろ』
……流石はイルク。イルクにも、隠し事をしていると気づかれていたか。
僕はイルクへ小さく頭を下げ、続いてドールさんにも頭を下げた。
「よろしくお願いします」
※※※
燦々と日が照る、昼頃。
「うーむ」
僕は《蒼眼》を全開にしながら、村の周囲を歩いていた。
「何かあったかい~?」
「まだ、何も視えないなあ」
隣にはイルクがいる。
目的は、イルゲルム――あるいは、操られた魔獣の群れの痕跡を探すこと。
本来なら人を襲わないはずのランニングマグロが、なぜ人間を襲ったのか。
その原因を調査したいと、リーリエさんへ申し出たのは僕だ。
「瘴気の濃さが、西へ進むほど増している。この流れを辿って――」
どろり。
海から、黒い汚泥が零れ落ちた。
粘つく黒い魔力を口の端から吐き出しながら、一匹の異形がこちらへ一直線に迫ってくる。
「イルク」
「応よ」
短く呼びかける。
端正に整った偉丈夫の顔が、獲物を見つけた鮫のような獰猛な笑みへ変わった。
敵だ。
一匹のランニングマグロ。しかし、その身を満たしているものは魔獣の清浄な魔力ではない。
口の端から涎を垂らし、正気を失っている。
手足の生えた魚体から濃厚な瘴気が溢れ、血走った目でこちらを睨みつけていた。
「TSUNAAAAAA!!」
けたたましい雄叫びが、辺り一帯へ撒き散らされる。
瘴気を伴った叫びが海岸線を揺らし、周囲の濁った魔力が渦を巻いた。
その渦の中から、次々と魔物が生まれる。
首のない武士。
槍のような触手を持つイソギンチャク。
空中を泳ぎながら、不気味に笑うクマノミ。
「<
ランニングマグロが魔法陣を描き、魔力を通した。
周囲の水気がベールのように魔物達を包み込む。
やがて青い霧となり、魔物の姿を淡く揺らがせた。
――火を拒む術。
しかも、人間種が扱う形式の魔法だ。
<
軽減率は大したことがない。が、この近くは海。退魔の力も加味すると、ダメージを与えるのは至難。
刃を通そうとしても、水の霧が勢いを殺し、切れ味を鈍らせる。
まるで、炎と刀の両方を警戒しているような術だ。
ははは。なるほど。
こいつら、僕の戦い方を知っているな?
「合わせるよ」
イルクが虚空へ手を伸ばす。
空間から巨大な紫色の馬上槍を取り出し、それを片手で軽々と振り回した。
「なら、遠慮な――」
腰を深く落とす。
身体を僅かに捻り――。
「――くっ!」
一気に弾けた。
跳躍するように砂浜を駆け抜け、素手のまま魔物達へ殴りかかる。
『――。』
幽鬼のような首無し武士が刀を構え、僕へ振り下ろした。
「そおいッ!」
急減速。
足元の砂へ魔力を通し、掬い上げるようにして思い切り投げつけた。
魔力を帯びた砂が魔物達へ打撃を与え、僅かに動きを鈍らせる。
左腰へ納めた刀へ意識を向ける。
踏み込みによって固めた砂を足場に、大きく脚を開いて立った。
目を閉じる。
「飲み込め」
イルクが馬上槍へ気魄を流し込む。
周辺の瘴気が大きな円を描き、巨大な槍へ向かって集まり始めた。
一陣の風が吹く。
乾いた風ではない。
瘴気と海水を含んだ、腐臭の漂う湿った風。
病を運ぶような風が、瘴気の円を通過した瞬間――。
「――【
周囲に満ちていた瘴気の悉くが、槍へ吸い寄せられた。
それは弱い魔力すらまとめて巻き込み、穂先へ向かって呑み込んでいく。
坂を転がり落ちるように、<
魔法の形が崩壊する。
魔物達を覆っていた水の霧が、瞬く間に掻き消えた。
「――じゃあね」
居合一閃。
強く一歩を踏み込む。
鞘から走った黒い刃が、そこにいた三体の魔物を、一太刀のもとに斬り伏せた。
異形の身体が斜めにずれ、砂浜へ崩れ落ちる。
「――Aooo」
残心を取ろうとした、その時。
海中から、巨大な海蛇が襲いかかってきた。
両目は赤く染まり、口から瘴気を吐き出している。
二股に分かれた舌の隙間から、紫色の毒息が漏れていた。
新たな魔物。
「壊放」
刀を構え直そうとした瞬間、イルクが【
紫色の奔流が一直線に放たれる。
海蛇の巨大な身体、その半分が跡形もなく消し飛んだ。
赤黒い血液を胴体から撒き散らし、海蛇が音を立てて浅瀬へ倒れる。
「いやー、危なかったね」
イルクは、何事もなかったように笑った。
左手の腕輪へ気魄を流し、倒した海蛇の身体を亜空間へ格納する。
「ありがとう、イルク。ごめん。手間をかけちゃったね」
「なんのなんの~。助け合いこそが、冒険ですから」
飄々とした笑みを浮かべたまま、僕の傍へ歩み寄ってきた。
「それにしても、やっぱり人間種の魔法を使っていたね」
「うん。魔力波長を視たけど、間違いない」
魔物と見比べることで、ようやく確信できた。
ランニングマグロの魔力波長は、人間のものに近い。
魔物や魔族の扱う魔法は、人間種の魔法とは根本から異なる。
魔力そのものの性質が違うからだ。
<
あれは僕自身の魔力波長を、魔族に近いものへ一時的に変質させることで発動している。
それに対して、ログマを始めとしたランニングマグロの魔力は、あまりにも人間に近い。
「俺も安心したよ」
イルクが、倒れたランニングマグロの死体へ屈み込む。
「やっぱり、ランニングマグロは本来の意味での魔物じゃない。魔獣――いや、亜人族だね~」
イルクは魚体を検分する。
その片腕には、逆さの十字架が刻まれたブレスレットが嵌められていた。
「天へ伸びる樹木を表した【
イルクがブレスレットを外し、僕へ見せる。
「木の原素を司る創世神の紋章だね」
そこには、天へ向かって伸びる一本の樹木と、大地を示す逆さの十字架が刻まれていた。
「ランニングマグロってね。本来は、かなり温和な種族なんだよ」
イルクはブレスレットへ付着した汚れを、親指で拭う。
「七柱いる創世神の一柱。豊穣の女神たる
「エレメンチェレ……?」
「ああ。エディンは、真名の方しか知らないのか」
イルクが僅かに考え、言い換える。
「木を司る創世神、エレナ=ヴァギと言えば分かるかな?」
「ああ、ヴァギ神か」
エレナ=ヴァギは、リステリアでも信仰している者が多かった。
どちらかと言うと水の創世神、
エレナ=ヴァギは特に農家と軍人。
それ以外の人々からは、あまり人気がなかった記憶がある。結構、両極端な宗派だった記憶がある、
「話を戻すよ~」
イルクが立ち上がる。
「今の話からも分かる通り、ランニングマグロは人間にも友好的な亜人族だ。海を主な活動圏にしているけど、人との交流や交易も行っている」
倒れた魚体へ視線を落とす。
「だから、本来なら人を襲うはずがないんだよ」
イルクが顎へ手を当てる。
その時、僕の脳裏を一つの影がよぎった。
五つ目の魔族。
執事服を纏った、僅かに赤い肌を持つ大柄な戦士。
影を操り、【豚鬼宮】で死闘を繰り広げた男の姿。
「ねえ、イルク」
一拍置き、息を呑み込む。
「魔族って、魔獣を魔物へ変えられたりする?」
「…………できるね」
イルクの目つきが鋭くなった。
「できるよ。やり方は、反吐が出るほど下劣だけど」
「なら、もう一つ確認したい」
イルクの傍へ寄り、倒れたランニングマグロの身体へ手を伸ばす。
「魔族は、魔物を操れるよね?」
「ああ……」
イルクが長く息を吐いた。
苦々しい表情を浮かべ、静かに答える。
「できるよ」
その声は、重かった。
恐らく、僕とイルクは同じ結論へ辿り着いている。
ランニングマグロ達は、イルゲルムによって強制的に魔物へ変えられている。
これまでは、イルゲルムではない可能性も残っていた。
だけど、今となっては犯人はあいつで決まりだ。
僕への対策を、あまりにも露骨に講じていた。
前回の奇襲もそうだ。
そして今回、<
あれは、僕が<
まして、ここは海のすぐ傍だ。
何の対策もなくとも、<
それでもなお、炎と刀の両方へ備えた。
前回の分身体を仕留めた、『夜舞い』を警戒してのものだろう。となると、分身体と本体の記憶は共有していると考えていい。
僕を知る誰かの指示としか思えない。
「……ランニングマグロ達を、埋葬してあげないとな」
小さく呟く。
彼らは、人を襲いたくて襲ったわけじゃない。
自分の信仰も、理性も、生き方も、全てを奪われたのだ。
「イルゲルムは、魔物の軍勢を率いて、ここへ攻め寄せるつもりなんだろうね」
イルクが自分の頭を乱暴に掻いた。
懐から煙草の箱を取り出す。
一本抜こうとして――そのまま箱ごと強く握り潰した。
「エディン」
イルクが、僕へ向き直る。
「この国から逃げないか?」
僕の瞳を覗き込むように告げた。
その目は何かを探るような彩だった。心の底から案じるような顔で、僕を見ている。
「俺なら、エディンを連れ出せる」
潮風に混じり、イルクの熱を帯びた声が耳へ届く。
「エディンが守りたいのは、この国じゃなくてリステリアだろう?」
イルクは一歩、僕へ近づいた。
「聖教国へ行こう」
真剣な声だった。
「俺の育ての母であり、俺の上司でもある――リヴェータ・ロット・アイネイアス枢機卿のところなら、エディンを歓迎して――」
「行かない」
言葉を遮る。
「行かないよ、イルク」
真っすぐに、イルクを見つめ返した。
「何を言ってるの?」
イルクの目が、僅かに揺れる。
「心配してくれるのは嬉しいよ」
でも、と続ける。
「逆の立場だったら、イルクは逃げるの?」
イルクは答えない。
「友達がいる国でさ。『お前が守りたいのはこの国じゃないんだから、逃げろ』って言われたら、イルクは逃げる?」
「…………逃げねぇ、な」
イルクの拳へ、更に力が込められた。
握り潰された煙草の箱が、小さな音を立てて歪む。
眉間に皺が寄り、海原へと視線が向けられていた。
「それと同じだよ」
僕は、自分の手に宿る力を見つめる。
「モーリス君がいる」
指を握る。
「リーリエさんがいる」
拳を作る。
「ヴァルガスさんだって、生きていた国だ」
胸の奥から湧き上がるものを、言葉へ変えていく。
「そんな国を見捨てるなんて、僕はしたくない」
「エディン――」
「矜持だよ、イルク」
顔を上げる。
「イルクが教えてくれた、僕の矜持」
あの日。
僕の力を、役に立つものだと認めてくれた。
僕の生き方を、僕自身に選ばせてくれた行き方。僕の心の背骨になった、イルクの教えだ。
「役に立つか、立たないかは僕が決める」
一歩、イルクへ踏み出す。
「僕の力を何に使うかは、僕が決める」
「だから、そんな寂しいことを言わないでよ」
イルクの目を、真っすぐに見つめる。
「イルクにとって、今の僕は足手まといかもしれない」
「違うよ、エディン。俺が言いたいのは、お前が危険に――」
「それも含めて、自己責任でしょ」
イルクの言葉を、真っすぐに断ち切る。
「ここで引くなんて真似、絶対にするもんか」
ここで関わった、すべての人々を思い返す。
リーリエさん。
モーリス君。
リリアやアルター。
僕を信じて、最後まで背を預けてくれた仲間達。
ヴァルガスさんが最期に向けてくれた、全幅の信頼を宿した笑顔。
「誰が何と言おうと」
僕が、ここで逃げてしまえば。
「たとえ、ここで死ぬことになったとしても」
僕は、僕でいられなくなる。
認めてくれた人達の信頼を、自分から手放すことになる。
そんな生き方をするくらいなら。
そんな自分へ成り下がるくらいなら。
死んだ方が、まだましだ。
「だからさ、イルク」
俯きかけたイルクの顔を覗き込み、笑いかける。
「鍛えてよ、僕を」
イルクの藍色の目へ、僕の姿が映っている。
「イルクが、安心して背中を預けられるくらいまで」
一度、息を吸う。
「徹底的に」
イルクは、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で問い返す。
「血反吐を吐くことになるぜ?」
「望むところだよ」
僕は笑い、拳を差し出した。
イルクは長く、長く息を吐いた。
本当に仕方のない弟分を見るような顔で。
それでも、どこか嬉しそうに笑いながら。
大きな拳を持ち上げる。
僕の拳へ、イルクの拳が静かに重なった。