アプレ・ラプルイの朝日〜聖劍と王冠、ヤンヘラ女神の御名において〜 作:鹿鳴弥
夕日が水平線へ傾きかけていた。
暮れの夕闇と麦穂色の空が混ざり合い、東から夜が昇り始めている。
「ふふふ~……」
大きな屋敷の一室。
畳が敷き詰められた立派な部屋には、長身の男性が笑みを浮かべていた。
イルク。
珍しく着流しに袖を通し、武装のほとんどを外していた。
机に頬杖をついている。
視線の先には筒状の魔導具があり、中には紫色の破片が入っていた。
「いやあ。ほんと、エディンはすごいなあ」
イルクはぼやくように語る。
「まだ一か月も経ってないんだぜ? なのに、あんなに頑張ってさあ。スポンジみたいに知識を吸収しやがる」
将来が楽しみだ、とイルクは語りながら、目の前の魔導具を観察する。
「さて、鑑定結果はどうなるかなっと」
筒状の魔導具に満たされた液体が、ごぽごぽと泡を立てる。
瘴気から魔族の強さを測る代物は、七色に変化しながら鑑定を続ける。
「ま、分身体とはいえね。エディンが倒せたくらいなら、上から三番目。伝説級くらいでしょ。そんぐらいなら俺一人でよゆーよゆー。戦いの余波で町がぶっ飛ぶ心配もないし」
イルクは退屈な演劇でも見るような、興味の薄そうな目で魔導具を見守り――。
「――は?」
目を大きく見開いた。
それも一瞬。
弛緩していた表情を引き締め、茶を一気に飲み干す。
着流しから普段のスーツ姿へ着替え、即座に腰へ刀を佩く。
言葉はない。
ただ、僅かに駆け足で自室を去る。
魔導具が示していた文字。
『黒晶級』
この魔導具が表示しうる、最強の等級だった。
※※※
「よいしょ、っと」
夕日が傾いてきた。
ログマの庵から戻った僕は、人型の形代に魔力を込めていた。
コレトーさんに作ってもらった形代だ。
東塔時代から保管していた魔物の素材を渡せば、すぐに錬金術で作ってくれた。
イルクから昨日出された課題。
戦闘における自分の明確な弱点を克服するため、とにかく魔力を貯蔵しているんだ。
「よし」
僕の魔力が十分に充填された形代を見て、僕は頷いた。
コレトーさん、普段の態度はあれだけど、やっぱり錬金術の腕は確かだ。
僕の魔力の半分を詰められる形代なんて、露店でも売っていない。
僕も作成を試みたけど、満足のいくものができなかった。魔力の一割も込めていないのに爆散したもん。
やるなら、もっと練習しなきゃ。
「エディ~ン」
なんて考えながら形代に魔力を込めていると、三回のノック。
イルクだ。飄々とした、普段通りの喋り方。
……だが、妙だ。
普段よりも口調が速い。
「どうぞ~」
すぐさま僕は入室を勧める。
イルクはすぐに襖を開け、部屋へ入ってくる。
イルクが一度も目を合わせてくれない。
普段なら視線を合わせてくれるイルクが、明後日の方向を向いている。
「ほ~。感心感心。陰陽道で魔力の温存を試みてるのね。偉い偉い。ところで」
イルクの目が細まった。
「その程度で、この国に残してもらえると思ってるのかな?」
※※※
ずかずかとイルクが廊下を歩く。
「待って、待ってよ! もう僕一人分くらいの魔力は溜め込めたんだよ!? なのになんで!」
右手で僕を俵のように担いだまま、無言でイルクは宿の出口へ向かう。
止まる気配がない。
喋ろうともしていない。
ただ、イルクはじたばたと暴れる僕の抵抗を意に介さず、歩みを進めている。
話を、まったく聞いてくれない。
「なら、力ずくで……!」
身体に気魄を回す。
肉体の器を広げ、魔力を巡らせて活性化。
イルクの拘束から逃れるべく、思い切り身体を捩る――。
「うご、かない……!」
イルクの動きは止まる気配を見せない。
外へと向かう勢いが速まるばかり。
イルクが左手を天へ掲げる。
腕につけた黄金の腕輪が輝き、外に巨大な影が生まれ――。
反転する。
真っ赤な戦艦が空に浮いている。
【赤戦神艦】だ。神の嵐すらも突破できる、超級の艦船。
まずい。
あれに乗せられたら、もうこの国から出るしかなくなる……!
……どうしよう、どうしよう。
期待に応えられなかった。イルクの足手まといになっちゃった。
鼻がつんと詰まって、息が苦しい。
どうすれば……!
一歩、イルクが外へ踏み出した瞬間。
氷の華が、イルクの足を縫い付けた。
「まあ、待て」
奥から響く、尊大な少年の声。
足音はない。空中をふわふわと浮きながら、イルクの後ろから声をかける。
緩慢な動作で、イルクが後ろを見る。
その目には感情が映っていない。
凪いだ殺意。
一般人なら、それだけで殺せそうな濃密な殺意が、リモルさんへ浴びせかけられる。
「それはあまりに横暴だろう。エディン単独で、イルクを相手に食い下がってみせたのだろう?
それで十分ではないかね? 何を焦っている」
リモルさんは身じろぎ一つしない。
笑っている。いつものような、にたにたと絡みつくような笑み。
「……てめえには、関係ねえだろ」
イルクは吐き捨て、青い稲光を迸らせる。
足の氷塊が焼き飛ばされ、イルクは足を軽く振った。
その足には痛ましい傷ができている。
火傷したような跡が、スラックスの裾から覗いていた。
「地金が出ているぞ、フレドリクス。いつもの三文芝居はどうした」
朝食を食べる前のような悠然とした態度で、イルクを挑発し続ける。
「てめえには関係ねえ」
「ほほほ。もう少し語彙を学んだらどうだ? ああ、いや。できぬか。なにせ」
にい、と笑みを深めてリモルさんが続ける。
「焦燥のあまり、愛しい弟分の顔すら見られない愚か者には、土台無理な話よな」
「………………!」
イルクが顔を背ける。
目が合った。
イルクの瞳は揺れていた。
表情は引き締まっている。だけど、その目だけは潤んでいた。
「……くそ」
イルクはそう吐き捨てると、僕を下ろした。
「イルク……。僕、頑張ったよ……? 新しい回復魔法だって考えたんだ。お願い。僕の話を聞いてよ」
「………………」
イルクは痛ましい顔をしたまま、そっぽを向いた。
「はあ。見てられんな」
リモルさんは心底から呆れた顔を浮かべ、肩を竦めた。
イルクは何も言わない。
ただ、唇が一文字に結ばれている。握った拳が揺れていた。
表情が、揺れていた。
「てめえには、分からねえだろ。俺が、どれだけ……!」
「ああ。分からんさ。分かろうとも思わん。それはお前の感情なのだ。僕の知ったことではない」
「だがな」
リモルさんはモノクルの位置を直し、イルクを睨みつけた。
「努力をすべて見なかったことにし、彼が危険へ挑む自由に手をかけるのは虐待だ。貴公が蔑んでいたエディン君の親御と、やっていることは何も変わらんよ」
「…………!」
イルクは拳を握り締める。
「そのうえで、魔力量の多寡を問う? 他ならぬ貴公がか? それで不快な思いをした貴公が、エディン君に同じことをしていると気づけんのか」
リモルさんの舌が鋭さを増していく。
口元を吊り上げるように歪め、どこか小さくなったイルクをよそに、僕のもとへやってきた。
「エディン君。君の、君たちの開発した魔法を見せたまえ。君の魔法の師として、僕には見る義務と権利がある」
※※※
囲炉裏のある広間へ移った。
場には三人。僕、イルク、リモルさん。
全員、囲炉裏を囲うように座っている。
目の前には湯呑が置かれている。
中は玉露のお茶だ。
夜の帳が下り始めた頃だった。
春もまだ浅い頃。南東に位置するリステリアよりも北にあるこの国では、まだ肌寒い時期。
囲炉裏の火が弾ける。
火の粉が舞い、薪の弾ける音が響く。
イルクは眉を顰め、腕を組んでいた。
そっぽを向き、顎に指を当てたまま外を見ていた。
「――たった一日で魔法開発なんざ、できっこねえよ」
荒っぽい言葉のまま、あぐらをかいて言う。
「これでも俺は魔導の頂点、アイネイアス家の人間だ。魔法の開発なんざ、うまくいくわきゃねえんだ」
イルクの視線の先には、浮遊する赤い戦艦。
後部にある噴射口には、青い火花が灯っていた。
艦全体に空間迷彩が施されている。
魔力探知の対策もされているそれは、僕の《蒼眼》以外で捉えることは困難だろう。
「だが、エディン君は貴公の<蒼仙法>をたった一日で物にしたではないか」
リモルさんは空中にふわふわと浮き、魔力を放出したまま笑っている。
何でもないように振る舞っている。
だが、その体内の奥で練っている魔力は、臨戦態勢のそれ。
意識のすべてを、イルクへ傾けていた。
「治癒魔法は勝手が違えんだよ」
イルクは頭を乱暴に掻きむしり、リモルさんへ半目を向ける。
「他人の体内をいじくる治癒魔法は、自分と世界を一体化させる<蒼仙法>とは方向性が違う」
カミソリのような視線をリモルさんへ突き刺し、湯呑を手に取った。
「治癒魔法の難易度は、すべての魔法の中でもトップクラス。超越者でも開発には数十年かかるもんだ。
ログマが洞窟で使ってた治癒魔法も未熟なもんだったろうが。あれでイルゲルムを相手に戦えるわけがねえんだ」
一気に中の茶を飲み干す。
心なしか力強く置かれた湯呑の音が、部屋に木霊した。
「<
いいか、エディン。本体はな、お前が戦った分身体とは比べ物にならない強さなんだよ」
イルクは黄金の腕輪を天へ掲げる。
空中に球の影が浮かび、現実へ反転する。
護符で包まれた、弾力のある塊だった。
――心臓だ。
赤い普通のものではない。夜の闇よりもなお濃い、暗黒の臓物。
どくん、と脈を打った。
息が、できなくなった。
瘴気を超えたどす黒い何かが、一瞬で周囲の大気を穢し尽くし、僕の肺と魔力回路に致命的な損傷を与え――。
――耐性獲得。『呪力』
瞬間、息が軽くなる。
【星輝戴星】が発動し、聞いたこともない力への耐性が全身を駆け巡った。
「これが黒晶級の化け物。<第三の太陽>、アイオーンの心臓だ。
エディン。お前が倒した分身体は、こんな圧を放っていたか?」
ふるふると首を横に振る。
「だからな、お前には――」
「イルク」
優しく話し始めたイルクの言葉を遮る。
目に力を入れ、真っすぐイルクの目を見つめる。
一瞬、イルクの目が細くなった。
それを気にせず、立ち上がってイルクのそばへ寄る。
「見てて」
指先が、僅かに震えている。
失敗したら、間違いなく連れていかれる。
――やるんだ。
やってやる。
大きく息を吸い、唾と一緒に恐怖を飲み込む。
覚悟を決める。
掌を広げ、魔力を展開する。
行き先はイルクの足元。
凍傷と、法力の稲妻によって焼き焦げた足を、じっと睨む。
掌で固めた魔力を分散させ、円と十字の魔法陣を描く。
「ほお」
リモルさんは興味深そうな目を浮かべ、空中に寝そべった。
巻きつく蛇のような視線を気にせず、治癒の術を起動させる。
緑色の光がイルクの足を包み込み、瞬時にその怪我を癒した。
「…………嘘だろ」
イルクが大きく目を見開いている。
「本当だよ」
立ったまま、座ったイルクを見つめる。
「頑張ったよ、イルク。イルクから出された課題を越えるために。
いろんな人を助けられるくらい低燃費の魔法を、ログマと一緒に作ったんだ」
何通りも、何時間もかけて作った。
イルクが言うように、何年も時間をかけたわけじゃない。
でも、僕はイルクからの課題で配られた
「僕には【星輝戴星】もある。リモルさんから教わった<紅蓮砲殲火>もある。何より」
「イルクから教わった武術と、<蒼仙法>がある。リリアとアルターの二人もいる」
イルクは唇を噛み、目を逸らそうとする。
「イルク」
だけど、させない。
イルクの頬を両手で掴み、こちらへ向かせる。
「約束する。絶対、足手まといになんかならない。それでも僕を連れていくのは、一緒に戦うのは嫌?」
「………………それは」
イルクが言葉を濁らせ、乾いた唇を開こうとする。
「もういいだろう、イルク」
そこへリモルさんがくちばしを突っ込んだ。
「ここまで規格外の成長を見せられたのだ。お前の論は、すでに崩れておるよ」
リモルさんは心底楽しそうに笑い、空を泳ぎながら僕のそばへ寄る。
「そこな、強さだけが取り柄の馬鹿はな、エディン君が心配なのだよ。イルゲルムという大物がエディン君を狙い、それを受けて立とうとする姿がね。
魔力量の不足や、消耗の大きい回復魔法に頼り切りなのが心配でならない。という建前で、君を安全な国へ移動させようとしているのだろう」
親指をイルクのもとへ向ける。
――そうだろうな、とは思っていた。
イルクは優しいから。
僕が傷つくのを嫌がって、死ぬのを怖がっているんだって、痛いほど分かる。
「イルク」
だからこそ、正面から向き合う。
「僕も、冒険者だよ」
短く、イルクへ言葉を伝える。
冒険者とは、自由なもの。
自由とは、自分の道と、自分の末路に責任を持つこと。
いつまでもイルクの庇護の翼の下にいるものではない。
自分の足で、脅威へ立ち向かうものなんだ。
イルクは大きく目を見開いた。
視線が左右に揺れ動き、何かを喋ろうとしては口を閉じる。
大きく、ため息をついた。
「――分かったよ。ごめん、エディン。俺が悪かった。しばらく、一人にしてくれないか」
イルクは力なく笑い、部屋から出ていった。
その表情は暗く、力がなかった。
「いやはや。愉快愉快。やはり正論で人を殴るのは極上の気分だ」
リモルさんは最低の発言を繰り出した。
「イルク……」
イルクの去った部屋の方角を見る。
話しかけに行くことも、《蒼眼》で覗くこともはばかられるほど、深い悲しみを背負っていた。
※※※
「はあ…………」
イルクは部屋に戻るや否や、大きなため息を漏らす。
黄金の腕輪から映像を空中へ映し、中に封じている迷宮特典を数える。
その中に、エディンを守り切れるものがあるか。
神話級の相手と死力を尽くしながら、彼を護れるものがあるか。
伝説の大魔族、イルゲルム。
二千年前の大戦争、五年戦争を生き延びた老兵。
エディンは理解しているのだろうか。
エディンたちが討伐した分身体と、本体とでは天と地ほどの戦力差があることを。
オーブを見て、イルクは分かった。
あれは、己が死力を尽くしてようやく勝ちの目が見える相手。
現代の魔族とは比べ物にならない、強大な魔族。
「俺だけじゃ、厳しいかもな」
大きくため息をつき、夜へ傾き始めた空を睨む。
神話級の魔族。
それはつまり、神格にも匹敵する強さを持つ者。
並の超越者では、相手にもならない。
「隠密にまつわる伝説ばかりが残っていたからって、油断していたな……」
イルクは揺れる蝋燭を見ながら、思案を巡らせる。
あれに確実に勝てるとなれば、同じく二千年前から生きる、最強の超越者でなければ相対は困難だ。
イルクが知る限り、神話級を相手に勝利を確実に見込める人類は、故人を含めてたったの五人。
――<雷光>のアルフェウス。
――<翼ある蛇>のリヴェータ・ロット・アイネイアス。
――無劫、クロウ・レイヴン。
――【現竜神】エリス・アヌマティ。
そして――。
「イルク」
背後から、気配。
「……っ!」
瞬時に《
十%まで解放した最大威力の回し蹴りを、背後へ見舞う。
巨岩すら粉砕するイルクの蹴り。
旋回する暴風の化身が、背後に現れた人物の腕へ吸い込まれ――。
「落ち着け」
受け止められた。
部屋に満ちる強烈な衝撃。
屋敷もろとも吹き飛ばしかねない風圧まで、目の前の人物は、受け止めた腕に纏わせた魔法で封じ込めていた。
「すまない。取り込み中だと思ったからな。思考が片づいた気配が見えたため、声をかけさせてもらった」
現れたのは、痩躯の壮年だった。
白髪交じりの茶髪。
頬や額には傷痕の目立つ、細身の人物。
渋柿色の冒険者装束に身を包み、大きな十文字槍を背負う男がいた。
五人目の大英雄。
――依頼達成率百パーセント。
誰にも気配を捉えきれない、幽谷の執行者。
<鉄山血河>のローグ。
イルゲルムを倒せる可能性の高い、最強の英雄の一人であり。
イルクが慕う、二千年前の英傑の一人である。
※※※
「いきなり背後に立つのは、やめてもらえませんか。心臓に悪い。ローグさん。いつからいらっしゃったんですか」
「今日の朝から待機していた」
ローグは淡々と告げる。
イルクとて無能ではない。
部屋にある私物から、砂虫、ネズミに至るまで、すべての気配を捉えることができる。
しかし、眼前の男。
ローグから感じる気配は、ほとんどない。
まるで植物のような闘気。
強者が持つ特有の圧が、彼からは感じられない。
「壮健そうで何よりだ。先ほどの一撃、防護魔法を張っておらねば粉砕されていたな。あれほどの一撃を易々と繰り出す者など、世界でもそうはいまい。
休みの最中でも、強さに陰りはないようだな」
ローグは抑揚を感じさせない声で、イルクへ応じる。
イルクは何も言わない。
顔を伏せ、困ったように視線を逸らすばかりだ。
ローグも語らない。
鳶色の瞳でじっとイルクを見つめ、部屋の外へ視線を向ける。
「あれが今代の勇者か」
視線の先。
遠見の魔法を使っているのだろうか。
エディンを見ながら、ローグは座り込み、スキットルからコニャックを呷る。
「優秀だな。あれほどの治癒魔法は学堂にもない。一からあれを作り上げるなど、相当なものだ。アルフェウスを彷彿とさせる。あれで十三の齢とは、末恐ろしいものだな」
イルクは僅かに肌が粟立つのを感じた。
彼は、一度たりともエディンの年齢をローグへ伝えていない。
会話でも、エディンの齢を口に出していない。
そのようなことは些事だとばかりに、ローグは見抜いていた。
「……ローグさん。なぜここに。イフィゲネイアの調査で忙しいはずでしょうに。教え子もいるでしょう」
「ある程度片づいたのでな。今日は友人からの頼み事で、ここまで来た」
そう言うと、ローグは手紙を差し出す。
手紙を見ると、青い封蝋が押印されていた。
青の封蝋に、翼を持つ銀の蛇が刻まれている。
「リヴェータ様からの手紙……!」
イルクは血相を変え、封蝋を慎重に指で外す。
急いで手紙を開け、中を確認する。
「どうだった」
ローグの茶色の瞳が、イルクへ向く。
「……俺への労りが半分。<魔人戦線>の悪化についての内容が半分でした」
「そうか」
ローグは知ったことではないとばかりに、葉巻へ火をつける。
<魔人戦線>。
二千年前から続く、魔族と人族の大戦争。
大陸の西端にて、血で血を洗う闘争が繰り広げられている戦場は、小康状態に戻っているはずだった。
「膠着状態だったはずでは。封印が解けたんですか」
「新たな【魔王】が就任してな。軍隊全体に強さが戻った。
今の侵攻経路の狭さならば、まだ現在の戦力で抑えが利く。
だが、お前が守護していた月佳樹の海を走破されると、今の人軍では抑えきれん」
ローグは淡々と語る。
「休みは終わりだ。お前にはすぐにでも、魔界の門番としての仕事へ戻ってもらう。リヴェータも、それを望んでいた」
だが、イルクの表情は硬いまま。
視線は動いていない。だが、その意識はずっと後ろへ。
エディンのもとへ向いていた。
「分かっている」
ローグが静かにイルクの肩を叩く。
「あの子が大事なのだろう? それはリヴェータも理解している。
任せろ。休みが終わりとは言ったが、まだ猶予はある。しばらくの間、月佳樹の海は俺が面倒を見ておこう」
ローグはそう言うと、イルクの前に新たなスキットルを置き、蓋を開けて渡す。
コニャックだ。
琥珀色の酒面が、銀の酒瓶の中で揺れた。
ブドウ酒を蒸留させた、華やかな香りが部屋に満ちる。
同じ焦げ茶色の瞳をしたローグが、感情を窺わせない虹彩をイルクへ向ける。
「……ひときわ懐かしい魔族の気配があった。俺が対処してもいいが」
反応を示さないイルクに、ローグが小さく声をかける。
「いいえ。俺がやります」
イルクは力強く答える。
渡されたコニャックを一気に飲み干し、鋭い目をローグへ向けた。
「あいつは、イルゲルムは、弟分とかち合った奴です。なら、兄貴分である俺がエディンを守らなければならない。
それに、舞台を整えてくれた奴らもいる。ここで引いたら、俺はあいつの兄貴分を名乗れません」
イルクは少し自嘲気味に笑い、僅かに肩を竦めた。
「たとえ、兄貴分として失格でも。その筋だけは通しますよ、師匠」
イルクは、昔呼んでいた呼び方でローグを呼んだ。
「そうか」
ローグは何も言わない。
しかし、まったく変わらない鉄のような表情筋。その口角が、僅かに上がっていた。
「よく頑張ったな」
ぽん、とローグはイルクの頭に手を乗せる。
優しく、彼の頭を撫で回す。
イルクは何も言わない。
俯き、堪えるように目と口に力を入れていた。
「なら、あれの処遇はお前に任せる。だが、無理はするなよ。イルゲルムだけが敵ではないだろうからな」
ローグはコートを着直す。
持っていた葉巻を魔法で灰へ変え、灰皿の中へ落とした。
ローグは乾いた目を、イルクへ向ける。
「あの子の――エディンといったか。別れについては、きちんと済ませろ。得意ではないだろうが、別れる時くらいは向き合えよ。
そういうものは、しこりになりやすい。努々、忘れるな」
イルクが俯く。
ふと、前を見た瞬間には、ローグの姿は消えていた。
イルクは何も言わない。
残されたスキットルを飲み干し、部屋の窓を開ける。
涼しい夜風だ。
潮の香りが僅かに鼻腔をかすめ、清涼な空気が部屋を満たした。
「別れ、か」
天に輝く月を見る。
縋るように、問うように、月へ言葉を投げかけた。
返ってくるはずのない悩みを胸に、イルクは窓にもたれかかり、目を閉じた。