――ぽちゃん。
涼やかな桃の香りが、僕の鼻腔を満たしていた。
「…………ん、んう……」
頬を撫でる冷たい水の感覚。波一つ立たない水面の上。ぼんやりと温かい空気があった。
目を開ければ、見渡す限りの蒼い湖。
触れても押しても沈まない水の上に僕はいた。
「目が覚めたかなァ?」
鈴を転がすような声が僕の耳朶を打つ。
顔を上げれば、白皙の少女の姿があった。
同心円を描く黄金の瞳。白く、透き通るような肌と髪。
半透明、天衣無縫の貫頭衣。
「あれ……あ?」
寝ぼけたような僕の声が現実離れした領域に響いた。
「ふふ、そうだよォ。ずいぶんと激戦だったようじゃないか」
幾重にも円を重ねた黄昏色の瞳が僕を見下ろす。
アレアは足を踏み出した。歩むたびに波紋が生まれ、僕のところにやってきた。
膝を折り、倒れた僕に視線を合わせた。
「そうだ……、僕、ログマを助けて……」
思考を記憶に向ける。
閃光のように、記憶が戻る。
爆炎と衝撃。強烈な破壊の嵐。
ログマの手を握った直後、空に小さな太陽が生まれ――。
「アレア! あの後ログマは! みんなはどうなった!?」
彼女の肩を掴み、揺らす。
アレアの瞳が細まったけど、そんなことを気にしている場合じゃない! この領域にきているってことは、現実の僕は意識を失っているということ。ちんたらとしている暇はない。
「――落ち着きなよ」
思考が、凍るような感覚が走った。
アレアは笑っている。その表情に変化は全くない。なのに、息ができない。背筋が寒い。膝が震え、片膝が湖面につく。
世界が、いやに静かだった。
「ふふ。怯えてるのかなァ? そんなエディンもかわいいね」
アレアは楽しそうに口を曲げ、僕の肩に手を置く。
凍えるような思考が霧散する。遅れて鼓動が動き出し、肺が呼吸を吹き返す。
「はあ……っ、はあ……っ。
ごめん、アレア。取り乱した」
「いいよォ?
エディン以外なら不敬の代償を払わせたろうけどね。
キミなら特別さ」
アレアは口元に手の甲を当てて笑う。
「仲間思いのエディンだものねェ。多少の不敬を許すのも、ボクの度量さ」
彼女は手を湖に向かって振る。
いくつもの波紋が浮かび、そこに現実が映りこむ。
「よかった……。みんな、無事だった……!」
凍った海の上には、気絶したみんながいた。
天空には巨大な魔法陣が花開いていた。花弁のような魔法陣が、空に浮かんだ島を中心に展開されている。
……熱を吸収する、特殊な結界か。
「……待って。上空が、変だ」
影の球体が、空に浮かんでいた。
先が全く見通せない。いや、わかる。あれは、イルゲルムの力だってことは理解できる。
理解できないのは……!
「イルク……!」
兄貴分の生死。
上空ではイルゲルムと戦っていたはず。なのに、イルゲルムの姿が見えない。
「へえ。創世侵食か」
アレアが顎へ指を当てたまま笑う。
その目は面白そうなものを見るように影の球体を凝視していた。
「
「名の通りさ。自分だけの世界を創り、現実世界を侵食するものさ。
権能じゃなく、源流能力でそれを果たすとはねェ。魔王の添え物にしてはなかなかの研鑽のものだよ」
白皙の君は感心したようにうなずいていた。
「あの中では源流能力にかかった制限がなくなる。能力の出力も範囲も、桁が違うものになる。まさしく、神の力に近しいものを振るえるだろうさ。
ただまあ、効果が切れたら源流能力も使えなくなるんじゃないかなァ? 」
「つまり、イルクは……」
「死ぬだろうね。」
アレアは楽しそうにイルクの未来を語った。
「信じられないかい? なら、未来を喚んでみようか。『
やわらかい唇が、何かを呟いた。
無限に分かれた樹形図が、湖の上に浮かんだ。それは大きな幹――現実に生えた、色とりどりの未来だった。
幾本も別れた枝が青色に輝き、幹へと逆行する。
湖面に、血まみれになったイルクの姿が見えた。
生命が、イルクの身体にはなかった。血が抜けきって、地面に叩き捨てられたまま、空洞になった瞳が大地を映していた。
【出雲】の都市からは黒い煙が上がっている。壊れ、燃え落ちた灰都であった。
そこには、煤だらけのリーリエさんがイルゲルムの首を獲っていた。
無数の屍を背に、リーリエさんが険しい顔でたたずんでいた。
そこには、命が流れ切ったリリアの姿もあって――。
「おや。思いのほかやる奴もいるんだねェ。あそこから下手人と魔物の群れを討ち果たすとは。カノジョ、実力は
血の気が、だんだん引いていく。
早まる鼓動。痛くなるほどの耳鳴りが頭に響く。喉の奥が裏返るような吐き気が、鼻につんとした痛みを届ける。
「――ふう」
五臓六腑から来る不快感のすべてを押しのけ、大きく息を吸う。
「アレア」
「これは、僕なら変えられるんだよね?」
腹に鉄の覚悟を抱える。アレアを見据え、小さく問う。
あそこには僕の死体がなかった。つまり、そこにいなかった物なら、僕という異物なら、この未来を押しのけられる。
その確信があった。
「――あァ。もちろんさ」
彼女は口元を楽し気に歪める。
いくつも重なった円が収縮し、湖に手を翳す。
湖から、青い剣身の聖劍が浮かんでくる。
「あれは、エディンがいない可能性を呼び寄せたもの。だから、キミが頑張ればこの未来は跳ねのけられる。エディン」
アレアは青い剣の上に乗り、彼女の頬へ指をあてる。
「おねだりの仕方は、覚えてるでしょォ?」
小首をかしげ、上目遣いの目でアレアの口元が半円を描いた。
「うん」
僕はアレアの言葉に軽くうなずいた。
軽く跪き、彼女に首を垂れる。
『われは不完全なる者、ここに集い、完全なる御身を仰ぐ。
われは知らず、ゆえに知らんとする。
われは満たされず、ゆえに満ちようと足掻く。
その労を、その旅路を、御身の御前に差し出さん』
魔力を練り上げ、魔力を紡ぐ。
描かれるのは青い球体。幾十にも絡まった魔力が青い球体を描き、僕の周囲を周遊する。
『願わくは、安寧を乞う声と侮りたまうな。
われらが祈りは怠惰の願にあらず。
限りある身が、限りなき御身へ捧ぐ、対価ある祈りなり』
青が弾ける。
青い球体が縮小し、細長い棒となって僕の右腕に纏わりつく。
それは、聖劍となった。
【天璽聖剣】。黄金の柄と、刃を持つ誉れ高き【勇者】の剣。【聖劍宮】を踏破した証が、右手に握られていた。
力強い波動が手に帰ってくる。
今までのそれとは違う。桁の違う力の奔流が、その劍から放たれていた。
「お披露目だ」
アレアがパチン、と指を鳴らす。
両目がわずかに熱を持つ。《蒼眼》の力が限定的に作用し、手に握った聖劍の力を暴く。
【天璽聖剣 アレアライト】
所持者:エディン・イラ・リステリア
迷宮深度: 【黄金】
含有魔力: 【評価規格外】
物質構成: 特殊黄金、黒晶、魔鋼、
能力出力:【評価規格外】
能力規格:【現在封印中】
能力特性:■■■■・■■■■・聖劍解錠。
備考:世界への侵略者を討ち果たすために異世界の鍛冶師が鍛え上げた最強の聖剣。アプレ・ラプルイ,アルフェウス・ジ・パン,トワと言った【勇者】たちが振るっていた。別名、【■■■■】。現在は拘束が施されている。
解放率、15%
「そう、か――」
わずかに解放率が上がっていた。
見知らぬ表記も増えている。
口角が少し緩む。
そう、か。僕は、本当に【勇者】に近づいたんだ。
本の中で憧れていた、あの【勇者】に。
「おっと。そろそろお目覚めの時間だ」
パチン、とアレアは指を鳴らした。
光の門が僕の背後に浮かび、わずかに門を開いた。
僕はアレアに一礼し、後ろを向く。
門は僕の背丈よりもわずかに大きい。手で触れれば重厚感のある扉がゆっくりと外に開いた。
扉には白く光る輝き。
先には覚醒がある。現実へと戻る門である。理屈はない。《蒼眼》がまともに機能しない今、この結論は直感でしかない。
「ああ、そうそう」
アレアが何かを思い出したように呼び止める。
「足りないものは、小さな魔神に頼るといい。……って、少し助言が過ぎたかな?」
彼女はいたずらっぽく笑い、僕に視線を向けた。
「アレア」
「ありがとう」
僕は改めて頭を下げ、扉の外へ足を踏み出した。
今度は振り返らなかった。
※※※
ひんやりとした風が肌を撫でる。
目覚めた場所は氷の海の上。乾いた潮の香が鼻先を凍てさせた。
「目覚めたか」
少し硬い声のリモルさんが隣に浮いていた。
付近を《蒼眼》で視回す。周囲の魔物のほとんどが凍り付き、ひび割れていた。海上にあった百鬼夜行はすべて、氷の藻屑と果てた。
下手人のリモルさんの表情は硬い。
上空には、影の繭が浮いている。剣戟音も、激しい火花も見えない。《蒼眼》でも視通せない異世界が、あの領域の中には広がっていた。
「全員無事だ。魔物の群れは一掃した。イルクはあの創世侵食……。黒い球の中に囚われた。生死は不明」
浮遊する青髪の少年は事務的な口調で語る。
「生きています。生きていなければ、イルゲルムが創世侵食を解いていない理由にならない」
空に浮かぶ黒い繭を睨みながら、僕はリモルさんに語る。
「……ふ。そうだな。貴公の言うとおりだ」
リモルさんは口の端を歪め、少し安堵したように笑う。
何度かため息を吐きながら、彼は髪をかき上げる。その視線は、上空にある黒い影の繭にあった。
彼らしくない、物憂げな表情が浮かんでいた。
「リモルさん」
「ご相談があります」
※※※
「はあ……っ、はあ……っ!」
影繭の中で、一人の青年が膝をついた。
全身におびただしい裂傷。汚れを知らない彼の先の背広は、彼の血で汚れている。鎖は断裂し、光の粒子となって消えた。
「自動、修復に入ったか……っ」
イルクは喀血し、震える膝を握りしめる。
戦闘で振るった規格外の膂力と頑強さは露と溶け、恩赦は効果を失っていた。
「しまいか」
影の世界に冷厳な声。
イルゲルムは影の中でくつろぎながら、無数に現れる影鬼を従えながらイルクを睥睨している。
傷だらけの背広の周辺には、無数の水晶が転がっている。
白い屏風が影の中に生成されている。が、その光の屏風も明滅していた。わずかに影の脅威からイルクを護ったこの迷宮特典も、もう限界を迎えていた。
「なるほど、その鎖は誰を縛るでもなく、貴様を縛る戒めであったか」
イルゲルムの身体にも、いくつかの傷を負っていた。
その体に残された魔力は見る影もなく少ない。残存魔力は一割を切り、影に宿る魔力も微量でしかない。
「《
貴様の規格外の膂力、己では制御しきれぬのだろう? それこそ、
イルゲルムは乱れた服装を直し、イルクを上から見下ろす。
「迷宮特典を失っては、我を倒す術もあるまい。
攻性魔力を持たず、治癒を阻害できぬ貴様ではな」
イルクに対して大上段にイルゲルムは講釈を垂れる。
青年は、何も答えられない。答えるだけの余裕を、もう残していなかった。
イルクの50%解放は諸刃の剣。
理外の身体能力を世に解き放つ代償として、彼の身に着けている迷宮特典を破損させる。
【罪と罰】とて例外ではない。
小さな太陽を生み出す拳に耐えられるほど、この特典は強くない。
結果として一時的に身体能力を解放する《
それを理解したうえで、イルクは止まれなかった。
「そして、貴様は迷宮特典を同時に5つまでしか使えん。
その衣服。特典を収納する腕輪。貴様の力を縛る鎖。貴様が自由に使える特典は、実質二つしかあるまい。
誇るがいい。この縛りの中で、よくぞ我をここまで追い詰めた」
イルゲルムは拍手し、イルクを称える。
敗者を称えるは魔族の務め。手練を見抜くは戦の倣い。しかし、イルゲルムの称賛は義務ではなく、心の底から出た惜しみないものだった。
両刃槍を抜き、イルクへと余裕の表情で歩み寄る。
すでに、勝負は決していた。
イルゲルムにとって、あとは消化試合。もはやイルクの命を絶つのみ。
先ほどの強さのままならばいざ知らず、今のイルクの首を刎ねるなど、赤子の手を捻るよりも簡単であった。
イルクの喉元に、刃が向けられる。
「あの世で自慢するがいい」
イルゲルムが刃を振りかぶる。
イルクは抵抗しない。血を口から吐き出し、己の膝を強くつかむのみ。
彼の表情が、血が滲むように曇る。握る手には青筋がやどり、強く震えている。
「ごめん、エディン……」
刃が狙い過たずイルクの首を刎ねる――。
――黄金が、影の世界を切り裂いた。
「――ッ!?」
イルゲルムが目を見張った。
影の世界が崩れていく。黄金の奔流が影を叩き割り、世界が元の形を獲り戻した。
「ごめん、イルク」
少年の声が響く。
蒼き、稲妻を見に纏っていた。空を魔力を放出しながら自在に飛行し、イルクに肩を貸している。
少年が術式を描く。
円十字の魔法陣から光が放たれた。燭光のような淡い光に包まれ、イルクの身体に刻まれた裂傷をわずかに癒した。
「遅くなった」
その手には、抜けずの聖劍。
【勇者】以外には持てぬ、最強の一振り。
【天璽聖剣】を抜いたエディンが、天上の戦いに参戦した。