少年が不敵な笑みを浮かべていた。
モーリス君は……。否、リーリエさんは二本の指を揃える。
片手に握られている符は五枚。それぞれに精緻な魔力操作で魔力を通し、空に抛る。
陰陽道とは魔導具術。
世界に存在する魔法法則へ接続する通常魔法とは違い、魔導具の内部に小規模な法則を仮設し、道具そのものを代償として術を成立させる。
ゆえに、外界との接続が瘴気に汚染されていようとも、術式を封入した魔導具さえ無事ならば行使できる。
五つの符が五角形を象る。
魔力の線が符から放たれ、退魔の線は五芒星を象った。
「四海の大神よ。百鬼を退け、ここに楽土を
――急急如律令」
リーリエさんが高速で唱えた。音が三重、四重に反響し、反響するたびに詠唱が重なり、五芒星の光が増す。
掌で印相を四度組む。目にも留まらないほどの早業で、正確に組まれた印が術式となり、五星の陣と重なった。
青い光が、海辺を満たす。
海辺に満ちていた赤黒い瘴気が弾かれるように祓われ、正常な空気を造りだしていた。
――とんでもない術式の精度だ。
印相、詠唱。それだけじゃない。脈拍から呼吸、それすらも計算に入れた術の行使。
すべての動作に神秘的、魔法的な意味がある。同じ術を組むことは僕にもできる。
だけど、あれほどの精度。あれほどの退魔の即効性を持たせることは、僕ではできない。
「ほれ。そんなところでちんたらしてないで、こっちおいでよ」
リーリエさんが上空にいる僕らへ視線を飛ばす。
視線に魔力が込められていて、その魔力が僕の放出している魔力と絡み合う。
片足を引きずるように、茶髪の少年が歩く真似をしていた。
柏手一拍。
「……え?」
視界は海辺。
上空にいたはずの僕らは、いつの間にか砂浜の上にいた。
目の前には怪物を前に悠然と立ち尽くす茶髪の少年――。モーリス君の姿があった。
「<
……すごい気軽に言ってくれるけど、これ相当な高等技術だよね?
なのに、術が発動する魔力の兆候すら視えなかった。こんなこと、初めて。
リーリエさんは僕らに振り返り、悪戯っぽく笑った。
「露払いはお姉さんに任せな。そのあとに、もう一仕事してもらうから。体力回復に努めとき」
「は……はい」
返事を返し、隣で立ったままのイルクに視線を送る。
リーリエさんを苦苦しい表情で眺めていたが、ため息を吐いて僕の隣に腰かけた。
「さて……」
少年が怪物たちに視線を送る。
溢れかえる百神。おぞましく、この世の者とは思えないほどの瘴気を放つ悪意の怒涛が相手。
「よう。ずいぶんブサイクになったもんだな。リューリュ」
対峙するリーリエさんは、あくまで自然体。
昼下がりに散歩でも来たかのように、肩から力を抜いている。
『……はぁ? まさか、リーリエ・アモン……?』
「様をつけろよ、弟子崩れ。
まさか、首塚村に封じた怨霊を真霊に宿して操作するとか。
キモ過ぎてもはや笑っちまうね」
白い肉塊に浮かんだリューリュの顔が歪む。
『まさか……。まさかとは思いましたが!
ははははっ、そこまで落ちぶれましたか!
そんなどこの骨とも知らない凡夫しか弟子を取れなくなっているとは! 我等を殺したあと、よほど弟子に不自由したと見える!』
「盛り上がってるところ悪いが……」
リーリエさんは懐から取り出した符に口をつけ、煽るように言い放つ。
「ちっぽけな才能を誇ってたお前たちなんかより、非才を弁えた上で手を伸ばすモーリスのほうが、遥かに優秀だぜ?」
『~~っ! ほざけぇえっ!』
怪物の群れが一斉にリーリエの周囲から殺到する。
縦に割けた口の蠢く花、三つ首の巨大な蜘蛛が津波のごとくリーリエのもとに迫る。
「――『失せろ』」
瞬間、周辺の瘴気が破裂した。
化け物たちもその勢いに押され、遥か海の彼方へと吹き飛んでいく。
「言霊術!? なんつー威力だ!」
イルクが目を見開いた。
傍目で見ていてもおかしなことをしている。
周辺の瘴気を二重詠唱でいじり、術式化して言霊を強化した。
小手調べ感覚で出せる器用さじゃない。どういう魔力操作のセンスしてたらこんなことできるんだ。
怪神たちがまだ続く。
「
リーリエさんが複雑な印を結びながら、祝詞を唱えた。
五重、六重と反響し、符を海へ向かって投げた。
符は、竜の如き稲妻となった。
稲妻が蜘蛛の糸のように交錯し、邪神の群れに強烈な重圧を与えた。
しかし……。
『――ははははははっ、全く足りてない! 全く届いていませんよぉっ!』
怪物たちが一歩、動き始めた。
足止めにはなっている。だが、これほどの術をもってしても、邪神の群れを留めるには及んでいない。
「………………」
モーリス君の腕に、一筋の血が走った。
リーリエさんが扱う術の精度と出力に身体が耐えきれなくなってきたんだ。
『そんな脆弱な器のどこが、我等より優秀なのですか!
本来のユーであれば、今の天狗術で我らは霊的に押しつぶされていた!
正面から、すべてを踏みつぶせるユーに、あなたには不足もいいところなんですよぉ!』
リューリュが絶叫する。
事実、一歩ずつ怪物たちはこちらに向かって迫ってきていた。
天を覆う稲妻の重圧にも、少しひびが入っていた。
「そうだね。本来の此が来ていたらお前ら如き一蹴していただろうさ」
リーリエさんは余裕そうな態度を崩さない。
二本の指を揃えた刀印を組み、一枚の符を懐から取り出した。
「だけど、それじゃあ民草を護れん。
超越者たるもの、平民を護れ。閣下の、アルフェウス閣下から此に教えられた数少ない教えさ。
何より、こいつを喚び出すまでの時間稼ぎでしかないしな」
指を複数に交叉させ、ゆっくりと印を結んでいく。
「約束をしたからには、お前にも手伝ってもらうぜ?」
リーリエさんは厳粛な空気の中、指に挟んだ符へ魔力を籠める。
清浄な空気の足元に、巨大な魔法陣が展開される。
これは……召喚系の魔法?
「こいつは生意気でね。此じゃなく、モーリス君に力を貸したいんだと」
魔法陣が幾層にも重なっていく。
膨大な魔力が、地中とリーリエさんの身体からあふれ出す。そのすべてが統御され、肉眼でもはっきりと見えるほどの魔力光が発揮されていく。
「ひとつ。大規模な供養が果たされたこと。
ひとつ。死んだ人間であること。
ひとつ。最低でも銀級の強さを持つ器であったこと」
「さあ、すべての条件はそろっている。
お披露目だぜ、最新の英霊様よ」
リーリエさんが笑みを深める。
複雑に両手で印相を組む。天地は荒れ狂い、竜のような稲妻が脈動する。
世界の数式が、法則がリーリエさんの持つ符の一点に収束していく。
其は――。
「<英霊降臨――
――
光は赤き大剣を持つ、懐かしい巨躯に姿を変えた。
※※※
赤龍公――。ヴァルガスさんが、少年のそばに寄った。
ああ、ああ――! 黄金級迷宮で失った。【聖劍宮】で失った、誇り高き騎士がここにいる。
《蒼眼》で視ればわかる。あれは、本物のヴァルガスさんではない。
あのヴァルガスさんは、もう死んだ。もう帰らない。彼は記録に過ぎない。
英霊降臨。
聖別された強き器を基盤に、記憶と人々の祈りを注ぎ込んだ、形の似た精霊を召喚する儀式。
彼の魂に似せた器に、逸話や信仰を乗せた存在だ。
本人ではないことは重々承知。
それでも、だけども。熱くなった両目からこぼれるものが、止まってくれない。
『――』
彼は何も語らない。
ヴァルガスさんが、赤い大剣を振るう。
赤黒い瘴気が剣先から伸び、怪神たちを薙ぐ。
強烈な斬撃。生前のヴァルガスさんの一撃を軽々と超えた横薙ぎは、怪物の群れに致命的な損傷を与えていく。
『――はッ。英霊といえど、その程度ですか』
リューリュは嘲笑う。
ヴァルガスさんが――。赤龍公が与えた傷の周辺、肉が泡立って癒されていく。
後方で待機している真霊が、身震いする。
その肉が溶ける。真霊たちの八割が一本の肉に融合する。
それは肉臼のような姿となった。海の果てを見渡せぬほど、巨大な肉の塊。
刹那、肉臼が裂ける。中から大蛇のような舌がすさまじい速度で伸びた。
大蛇のような舌がヴァルガスさんを捕らえ、嫌な音を立てて締め付ける。
『ほぅら。ミーの手札にかかれば、この通り。一瞬ですよ』
リューリュが語り、呪力を放出する。
放出されたそれは、海に沈んでいた幾千もの魔物を強化した。
死んだはずのものですら、呪力によって蘇っている。
海岸線を軽々埋め尽くすほどの魔物が、臨界ギリギリまで呪力を注ぎ込まれていた。
赤龍公は、舌に包まれたまま身動きが取れなくなっている。
結界に近づいて、自爆する気か……!
「予言しよう」
魔物の群れ。
呼び出した英霊は拘束され、手札のない状態。
それでも、リーリエの顔は曇らない。
「お前たちは、ここで潰える」
※※※
魔物の群れが、真霊の代わりに突撃してくる。
リーリエさんのそばに寄った途端、それは爆裂した。
強烈な爆風をあたりにまき散らし、瘴気で周辺の大気を汚した。
リーリエさんの背後、<神鉄結界>に呪力の塊が直撃する。
それは<神鉄結界>の一部を腐らせ、腐臭を漂わせながら溶解させた。
『残弾は千発以上! いかにユーといえど、これはどうにもしようがありませんよぉ!』
呪力を限界まで注ぎ込まれた魔物が、またも爆散する。
「いやあ、お前らやっぱ馬鹿だわ」
リーリエさんが鼻で笑い、符を投げた。
それは魔物の顔面に貼り付けられる。間髪を入れずその魔物が肉の球になり、符に焼き付けられた。
――調伏。式神術。
七つの符を投げ、殺到する魔物を式神に変えた。
しかし、リーリエさんの懐にあった符はこれで尽きた。
『たかが式神七匹! こちらは千匹以上いますよ! もう、勝ち目なんかないのではないですかぁ!?』
「はは、もう勝った気か? だからお前ら、三流のままだったんだよ」
リーリエさんは鼻で笑い、先ほど従えた式神を天に舞わせる。
赤龍公の身体が、虹色の光の柱に包まれた。
天を衝くほどの巨大な柱。天と地を結ぶ、光の柱であった。
「真霊、魔物。すべて陰の存在だけで揃えてくるとかさ。
本当に陰陽道を此から学んでたのかな?
陰陽道の本質とは道具の使い捨てによる相乗効果。つまり、生贄による儀式だ」
空が、急速に曇り始める。
式神が黄金の光の粒子に代わり、空に虹の光が宿り始める。
リーリエさんが爪を噛みちぎり、宙へ抛る。
それは黄金の光となり、五芒星の陣が激しく燃え始めた。
『ま、まさか――、これは――!』
青い魔力が円を描く。
《蒼眼》で視る魔力ではない。肉眼でも見られるほどに圧縮された魔力が、光の円となっている。
光の柱から力が伸び、天に浮かぶ光の円に伸びる。
光の円帯が回転する。
青白い円帯が収縮し、太陽の周りを周遊する。
太陽の光が円によって乱反射し、太陽光そのものが魔法文字へ変わっていく。
四ツ目のウミヘビ、口が割れたヒトデ、相貌のイルカ、風に浮かぶ蛇……。
それら一つ一つに、黄金の炎が灯る。
天の巨大な円に、五芒星の陣が刻まれた。
「雨ごいだよ。ただし、ちょっと複雑なだけのね」
それは風を呼んだ。ごう、と吹き荒れた上空の風が道を作る。
彼方で渦巻いていた積乱雲が招かれ、螺旋を描きながら太陽の光帯を覆う。
<荒神祭>によって一度開かれた天の経絡は、まだ完全には閉じていない。
リーリエは残留していた術式へ、調伏した式神と英霊の聖性を無理やり流し込み、潰えた儀式を再点火したのだ。
雲が、魔法陣となった。
形は五芒星。風が経絡を作り、稲妻が雲に溜め置かれる。
「<諸天経法・荒神祭>」
たった一人で祝詞もなしに、リーリエさんは再現してのけた。
退魔の豪雨が、海上に降り注いでいく。
魔物を、真霊を、呪力の悉くが洗い流されていく。
『ぐおおおおおおおあああああ………………ッ!』
雨が収束する。
【出雲】全域を曇らせるに足る積乱雲は、ごく一部の海域に圧縮されている。
「『天竜領域浸食。雲海固定。疑似神罰具現機構、設定』
――そういえば、さっき。本体が来ていたら霊的に押しつぶされるだのなんだの言っていたね」
ぱちん、と指を鳴らした。
リーリエさんが印相を重ねる。
溶け、消えようとしているリューリュを見下し、不敵な笑みを浮かべた。
「ならお望み通り、正面から踏みつぶしてやろう」
片手で組む、三叉槍の印相。
これこそは、<荒神祭>の秘奥。退魔の暗雲、神の戦車を呼び寄せる術の、最終奥義。
「<
暗雲が唸りをあげる。
漆黒の稲妻が、海へと落ち。
世界の一切を、白に包み込んだ。
※※※
「ぐが……っ、がぁ――っ!」
視界が明滅するほどの、激しい雷光。
その中で、リューリュは魂を灼く雷鳴に身体を打ち抜かれていた。
(――からだが、崩れ。――さいせい、できな――。
逃げる――どこへ――)
意識が白に染まっていく最中、リューリュは逃げ口を必死に探す。
天地のどこにも、逃げ場はない。稲妻を避け、逃げられる場所などどこにも――。
(あった! あそこだ!)
リューリュは最期の力、すべてを振り絞ってそこへと逃げる。
天に空いた、果てなき風穴。
すなわち、魔物になり果てたイルゲルムが封印された出来損ないの迷宮、その入り口へ。
すべての穢れを、腐心して手に入れた真霊としての出力もすべて捨てる。
ただ、死にたくない。その一心で、天の虚星へと逃げ込んだ。
「――」
それを見逃さぬ視線がふたつ。
雷鳴を巻き起こした、国家最強と。
蒼い瞳を持つ、未来の【勇者】であった。