一帯には雨が降っていた。
地上を染め上げるような強烈な稲妻により、明滅した世界に色が戻っていく。
海に満ちていた魔物は跡形もなく消し飛んでいた。千を超える数を誇った魔物は悉く黒い雷鳴に消滅させられ、遺骸すら残っていない。
海に落ちた巻物は、どこにもない。
「ちっ。逃げられたか」
茶髪の少年――その身に宿るリーリエさんが舌打ちを鳴らす。
世界はまだ赤い。
海上には未だ、暗黒の門に空いたままだ。
天に空いた空洞から呪力が泥のように流れ落ちてきている。
赤黒いヘドロのような滝はとどまることを知らない。
<荒神祭>の雨により浄化が始まっているが、それでも泥は飽和を始めていた。
魔物が発生しては片端から浄化され、滅却していっている。
だが、大本を絶たねばこの一帯の魔力環境は汚染されたままだろう。
背後の<神鉄結界>に淡い揺らぎが生まれた。
揺らぎから出てきたのは着物を着崩した白髪の女傑。煙管の代わりに長い金属の杖を片手に握っている。
リーリエ・アモンの本体であった。
「状況は?」
「大詰めだよ、本体。見りゃわかんだろ」
リーリエさん――。モーリス君に宿る分身が本体の言葉に辛辣に返す。
「そっか。モーリスは?」
「いまは魂の奥で眠らせてる。だいぶ頑張ってくれた。けど、そろそろ限界だわ」
少年が<荒神祭>を維持しながら何でもないように語る。
「だろうな。此の分霊を入れてドンパチさせたんだし。そろそろ此が変わるか」
大人の女性の方のリーリエさんが魔力を指に宿らせ、モーリス君の額に台形の術式を描く。
瞬間、モーリス君の身体から力が抜けた。気を失い、倒れ込むモーリス君をリーリエさんが片手で抱きかかえた。
そのまま呼び出した式神にモーリス君を乗せ、静かに寝かせていた。
「………………ヴァルガスさん」
ふたりを通り過ぎ、前線で戦い続ける彼の姿を見る。
護摩壇の代わりになったにも関わらず、彼の戦闘力は維持されたまま。
本物でないことなど百も承知。なのに、胸を掻きむしりたくなるような衝動が、全身を衝いていた。
「さて。大本を絶つ準備をしますかね」
リーリエさんは伸びをすると、一枚の符を取り出した。
黄金色に輝く金箔の形代。僕のそれを遥かに超える量の魔力が注がれている。
術式が複雑に組まれたそれは、超級の逸品であると断言できる。
空に浮かばせ、指を四度鳴らす。
太鼓を叩くような特殊な踏み込みを片足で行い、杖を連続して五度地面に衝いた。
「『
七色に変色し続ける光の帯が、リーリエさんを包むように舞い降りる。
不思議な匂いが鼻をくすぐる。何か、薬草を焼いたような香が舞い降り、符に特殊な神秘を焼き付けた。
「ほれ」
リーリエさんが符を空へ抛る。
鳥のように空を飛び、天に空いた大穴へと向かっていった。
符が穴に触れる。あふれかえる泥に符が塗れ、輝きを失っていく。
「『
曇天が、完全に晴れわたった。
<荒神祭>の術が、完全に解けたんだ。
赤く染まった空が青に返り咲く。
虹が円を描いた。
それは泥門を包み込み、光の渦の中へと固めていく。
七色の光環は巻貝のような形を取り、泥のことごとくを修めた。
しかし――。
「ちっ。やっぱり、迷宮を取り除ないと話にならないか」
巻貝から、わずかに泥が零れ落ちてきていた。
あふれ出る泥は雫のごとき量。とはいえ溢れ出るそれが魔物を生みし続けていた。
「いったい……?」
「最初、<獣涜の儀式>ってので迷宮を作っていただろう?
あれが軛になってる。おかげで、歪界への門を閉じきれないのさ」
僕の疑問にリーリエさんが答えてくれた。
なるほど……。つまり、歪界の門をドアとするとあの迷宮が足。
あの迷宮はドアに挟まった足みたいなもんだ。
閉じきろうにも、足がつっかえていて閉じきれないってわけか。
大きなため息をリーリエさんが漏らした。
「――まあ、こうなるだろうなとは思ってたけどさ。
国の、引いては身内の問題。これ以上迷惑はかけたくなかったんだが」
「もう手遅れなくらいだろ」
頭に手を置いたまま術を維持するリーリエさんに、イルクが冷静な突っ込みを入れた。
「そうですよ、リーリエさん。ここまで来たんです。皿まで食らいますよ」
イルクの言葉に同意し、リーリエさんに笑いかける。
「毒を食らわば、ってか。まあ、そうだねえ」
リーリエさんが腕を組み、あきらめたように大きくうなずいた。
「なら、エディンくん。イルク。
この国から出す最後の依頼を出す」
居住まいを正す。
リーリエさんは緩めていた空気を鋭いものに変え、僕らに向き直った。
「あの人造迷宮の攻略を。つまるところ、あれだ」
リーリエさんは少し恥ずかしそうに顔を歪めたのもつかの間。すぐに表情を為政者の者に変えた。
「――この国を、救ってほしい」
深々と、僕らに頭を下げた。
思わず息を飲んだ。
彼女は二千年を生きる、最強の超越者だ。だからこそ、それは風のような性格となっていた。
大胆不敵、自由奔放を極めたようなリーリエさんが頭を下げるところなんか、想像もつかなかった。
彼女が頭を下げるに足る、守るべきものとは何か。
国だ。国民であり、無辜の民の生活。それを護ることこそ、彼女にとっての誉れ。
誉れであり、責務であるこれが、彼女の頭を下げさせるに足るものだったのではないか。
囚われぬが故に、自分の誇りに縛られた風。
――重い。
腹に鉛が落ちたような感覚。ああ、為政者とは。超越者とは。守護者とは、ここまでの覚悟を持つものなのか。
「――もちろんです」
返答をするのに数秒の時間を要した。
リーリエさんの重圧を受けるのに、間髪入れずの返答などできなかった。
背景を、彼女の覚悟を見ずに返事をしてはならない気がした。
「その依頼、完遂して見せます」
「次代【勇者】――。いえ」
息を飲み、言葉を切ってリーリエさんに向き合う。
胸に手を当て、軽く一礼する、リステリアにおける最高の敬意の表し方でもって。
「蒼輝王国リステリアが第三王子。
エディン・イラ・リステリアの名に懸けて」
※※※
一礼を終え、しばらくたった後。
「ほれ、イルク。【罪と罰】を出しな」
リーリエさんがイルクに手招きした。
「なんで出す必要があるんだよ」
「余波で派手にぶっ壊したんだろ? ならさっさと修復した方がいいだろ」
「おま……迷宮特典だぞ? 自動修復以外で治す術なんかあるわけねえだろ」
「はい? お前、誰の前で物いってる?」
リーリエさんが腕を組み、イルクを睥睨する。
「世界で一番の錬金術師は此だぜ?
いいからだしな。応急処置くらいは請け負うさ」
イルクが渋々といった様子で鎖を取り出す。
一部が黒く焦げ、溶けた飴のようになっていた。あれほどの打撃を放ったんだ。そうなるのも当然か。
リーリエさんが髪の毛を一本、引き抜く。
白く、手入れの行き届いた髪の毛が変質していく。
繊維質から、金属質へ。複数の希少金属を結ったような一本の糸に変わった。
(なるほど。源流能力の応用か)
彼女の源流能力、【生体艤装】。
武装と肉体を融合させることができるもの。
彼女曰く、普段は霊魂内に武装を格納しているらしい。
それを応用すれば、格納している好きな金属に肉体を変質させることもできる、と。
僕の分析の目を気にするそぶりもなく、リーリエさんが錬金術の陣を描く。その上に、金属化した髪の毛を乗せた。
青い魔力光が迸った瞬間、【罪と罰】は修復されていた。
「とりあえず、20%までは使えるようにした。
それ以上の出力で振り回したらまたぶっ壊れると思うから。そのつもりで」
「お、おう……。すげえな……」
いまだ魔力光が迸る中、リーリエさんが空を見る。
「さて。それじゃあ<禹歩>であそこまで飛ばす。二人には改めて――」
空に間抜けな音が響く。
それは、落下音だった。
ひゅるるる、と少し愉快な音を立てながら、誰かが空から落ちてくる。
「リリア!?」
目を凝らせば、それは赤毛の少女だった。
空へ浮かぶ赤い空中戦艦にいたはずの彼女は、宝剣を片手に地上めがけて飛び降りてきていた。
「わ、わ、わ、わ――!」
――! あの軌道はまずい。受け身も取れてないじゃないか。
全身に魔力強化を施し、空から落ちてくるリリアめがけて跳躍。
落下地点を《蒼眼》で読み、顔から真っ逆さまに落ちている彼女を受け止める。
腹にまで響くような衝撃を受け流し、空で一回転。
足から《統巡》の枝を伸ばして力場を操作し、ゆっくりと地面に降りる。
「リリア、だいじょうぶ?」
「え、ええ! 平気よ! 全然平気! 本当に平気! だから、降ろして……」
リリアの心臓はすごい早鐘を打っていた。
普段より早い鼓動と、真っ赤な顔。あんな高高度から魔法も使わず飛び降りるからだ。
抱えたままの彼女を降ろすと、リリアが小さな力で僕の裾を掴んでいた。
でも、降ろした途端に指を放した。
「こほん。話はわからないけど、だいたいわかってるつもりよ。
あの迷宮に行くのでしょう? なら、わたしも行くわ」
リリアは堂々とした態度で語る。
「イルゲルムとの戦いの決着でしょう? ……さっきは無様を曝したけど、絶対足手纏いにはならないわ」
「足手纏いなんて思ってもない。リリアがいてくれたら心強いよ」
彼女の手を握り、笑顔で握手する。
すると、<神鉄結界>の一部に揺らぎが生まれた。
「パーティそろって迷宮攻略なのに、アルターを忘れてもらっちゃ困るのですよ!」
白髪に蜂蜜色の瞳の少女、アルター。
算盤を懐にしまい、指先に黄金の魔力を集わせた。
「月光魔法の強化は、アルター以外にはできないのですよ」
「アルター! 来てくれてありがとう。頼もしいよ」
砂浜に、魔力の光が集う。
そこには二人の人影の姿。小さな少年のものと、魚人の姿が現れた。
「危機は去ったようだな。なら、最後の余興だ。僕も混ぜてもらおうか」
「肯定。ログマはエディンについていきます」
リモルさんと、ログマの二人だった。
「ログマ! 身体は平気なの?」
「肯定。無論です。今度こそ、エディンのお役に立ちます」
ログマが静かに手を差し出してくる。
それに応え、彼の手を取る。じんわりと温かい、人の温かさであた。
「…………僕、も!」
式神に身を預け、気絶していたモーリス君が起き上がってくる。
顔色は少し土気色。ほんの少し、手も痙攣している。
だが、瞳に宿った力は本物だった。
手に活を入れ、モーリス君が震えを克服して立ち上がる。
「行かせてくれ、エディンくん。まだ、足りないものも多いと思う。
だけど、今度こそみんなで……!」
「――もちろん。今度こそ、一緒の迷宮攻略だ」
僕はモーリス君の手を取り、握りこむ。
今度こそ、負けられない。【聖劍宮】のようなへまは犯さない。
リーリエさんが目を細め、僕らを見ていた。
「モーリス」
彼女は懐から大きな符を取り出し、彼に飛ばした。
そこには、モーリス君の一か月分の魔力を積載した符。そして、召喚維持の演算が術式として組み込まれていた。
「餞別だ。
せっかくの【聖劍宮】のリベンジだ。こいつを連れてってやらないのは寂しいだろう」
それは、赤龍公を維持するのに十分な魔力と複雑な術式が込められていた。
ヴァルガスさんを見る。相変わらず何の感情も浮かばせていない。
だが、その瞳は熱烈に僕らへ向けられていた。
「――ありがとう、ございます」
力強く、モーリス君が式神を握った。
その瞳には、かつて出会った時のような浮ついた熱も感情もない。
腹に槍を括った、戦士の熱があった。
リリアが、イルクが、アルターが頷く。
モーリス君を承認する、何よりの返事であった。
「みんな」
【天璽聖劍】を抜く。
光が手に集い、刃が空に浮かぶ。
リーリエさんが足を掲げる。
引きずるような姿勢を取り、いつでも行けるとばかりにウィンクしてきた。
リリアは凛々しい表情に獰猛さを宿らせ。
アルターは顎を引き、野性味に満ちた笑みを浮かべ。
イルクは腕を組み、目的地である空を見つめ。
ログマは緊張を顔に張り付けつつも、誇らしげに拳を構え。
リモルさんは泰然とした様子で魔力を練り。
モーリス君は、覚悟を決めた様子で天を睨んでいた。
「――征くよ」
爆発するような咆哮。
同時に、リーリエさんの<禹歩>により、僕らは空へと飛んだ。