まいすいすいだーりん 作:インフレした小山羊
お父さんが、私を通して母を見ていると気がついたのは、何歳の時だっただろうか。
小学生?それとも、中学生?
まぁ、なんでもいいのだが。
気がついた時には、もう知っていた。
お父さんは私を見る時、ほんの少しだけ目を細める。懐かしそうに、苦しそうに、嬉しそうに。たぶん本人は気づいていない。気づいていないからこそ、余計にたちが悪い。
私の髪を撫でる指。
私の名前を呼ぶ声。
私が笑った時に、一瞬だけ止まる呼吸。
その全部が、私に向けられているようで、私だけに向けられてはいなかった。
お父さんの目は、いつも私の少し向こう側を見ていた。
写真立ての中で笑っている
私を産んで、私を置いて、勝手に死んでいった
母。
私にとっては、そう呼ぶしかないだけの人。
お父さんにとっては、今でも世界で一番綺麗なままの人。
ずるいな、と思った。
死んだ人は老いない。
怒らない。
間違えない。
みっともなく泣いたりもしない。
朝寝坊もしないし、料理を焦がしたりもしない。
言わなくていいことを言って、誰かを傷つけたりもしない。
ただ、写真の中で綺麗に笑っているだけでいい。
それだけで、お父さんの中に居座り続けられる。
あぁずるいなぁ……本当に、ずるい。
私は毎日生きているのに。毎日、顔を洗って、ご飯を食べて、学校に行って、帰ってきて、お父さんと話して、たまに喧嘩もして、泣いたり笑ったりしているのに。
それなのに、お父さんの一番奥にいるのは、いつだって死んだ
別に、最初から憎んでいたわけではない。
母親なのだから、好きになれたらよかったと思う。写真の中の人に手を合わせて、産んでくれてありがとう、なんて素直に思えたら、きっと私はもっと良い娘だった。
でも無理だった。
だって私は、
声も知らない。匂いも知らない。手の温度も、怒った顔も、泣いた顔も、寝起きの顔も、なぁんにも知らない。
知らない人なのに。
その知らない人に、私はずっと負けていた。
おかしな話だと思う。生きている私が、死んだ
毎日お父さんの隣にいるのは私なのに。
お父さんのご飯を作るのも、洗濯物を畳むのも、風邪を引いた時に薬を持っていくのも、全部私なのに。それでもお父さんは、ふとした瞬間に私ではない人を見る。
私の顔で。私の声で。私の身体で。
母を見ている。
それに気づいた時、悲しかった。
次に、腹が立った。
最後に、少しだけ嬉しくなった。
だって、つまり、私はあの人のいる場所に、一番近いのだ。
お父さんの中で、母と私は繋がっている。
それは屈辱だった。
でも同時に、入口でもあった。
最初は、母の代わりでもいい。
お父さんが私を見てくれるなら。
私の声に耳を傾けてくれるなら。
私の温度を覚えてくれるなら。
最初は、それでいい。大事なのは、最後なのだから。
最後にお父さんの目に映っているのが、写真の中の
そんなことを考えて日々を過ごしていた時、状況が動き出した。それはまだ肌寒い、初春の事だった。
その夜、お父さんは珍しく深酒をしていて、酷く酔っ払っていた。
いつもなら、お父さんはそこまで飲まない。飲んでも缶ビールを一本、せいぜい二本。それで少し顔を赤くして、昔の話を少しだけして、眠そうに笑うくらい。
でも、その日は違った。
テーブルの上には空いた缶がいくつも転がっていて、グラスの底には、溶けた氷が薄く濁って残っていた。
確か……そう、命日だった筈だ。母の。
だから、仕方ないのかもしれない。
そう思った。
そう思おうとした。
お父さんは、リビングの棚の上にある写真を見ていた。白い写真立ての中で、母はいつも通り笑っていた。綺麗に、若いまま、何も知らない顔で。
私は少しだけ離れたところから、それを見ていた。
お父さんの横顔は、泣きそうだった。
泣けばいいのに、と思った。
泣いてくれたらよかった。そうしたら私は、いつもの良い娘の顔をして、隣に座って、背中を撫でて、「大丈夫だよ」と言えた。
そういう役なら、慣れている。
母を失ったお父さんを支える娘。
かわいそうなお父さんのそばにいる、かわいそうな娘。
そういう綺麗な形なら、いくらでも演じられる。
けれど、お父さんは泣かなかった。
ただ、写真の中の女を見ていた。
私ではなく。
だから、魔が差したのだと思う。
そう少しだけ、少しだけ悪戯をしたくなった。
「あなた」
そう声をかけると、お父さんはゆっくりこちらを見た。
その瞬間、目が揺れた。
本当に、分かりやすい人だと思う。
一瞬だけ、息を忘れたみたいな顔をした。手に持っていたグラスが、わずかに傾く。溶けた氷が、からん、と小さな音を立てた。
私は笑った。
写真の中の女が、きっとそうしただろう角度で。
「どうしたの?そんな顔をして」
自分の声が、自分のものではないみたいだった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
お父さんは何かを言おうとして、唇を動かした。けれど声は出なかった。ただ、じっと私を見ていた。
私を。いや、違う。私の形をした、別の誰かを。
それが分かった。分かってしまった。
胸の奥が、きゅっと痛む。けれど同時に、どうしようもなく甘いものが、喉の奥に込み上げてきた。
ああ。
今、私はあの人の場所にいる。
お父さんが、ずっと見ていた場所。
私がどれだけ良い娘でいても入れてもらえなかった場所。
そこに、ほんの少しだけ足を踏み入れている。
「……あぁ、ナグサ」
お父さんの声は、ひどく掠れていた。
「おまえ、なのか……?」
ナグサ。
私の名前ではない。母の名前だった。
写真立ての中で笑っている
私を産んで、私を置いて、勝手に死んだ
お父さんの中で、今も綺麗なまま生き続けている
その名前が、お父さんの口から零れた。
私を見ながら。
私の顔を見て。
私の声を聞いて。
私の身体を前にして。
お父さんは、
胸の奥が、冷たくなった。
それから、熱くなった。
悲しかった。
悔しかった。
腹が立った。
でも、それ以上に。
嬉しかった。
だって、届いたのだ。今までどれだけ手を伸ばしても触れられなかった場所に、私の指先が届いた。
たとえ名前を間違えられても。
たとえ私として見られていなくても。
たとえその目に映っているのが、死んだ母だったとしても。
それでも、お父さんは今、私を見ている。私を通して、母を見ている。
なら、最初はそれでいい。
私は笑った。母なら、きっとそうしただろうと思う顔で。
「えぇ、そうよ」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「どうしたの? そんな、酷い顔をして」
お父さんの喉が、小さく鳴った。
私は微笑む。写真の中の女が、きっとそうするみたいに。
「まるで、悪い夢でも見ていたみたい」
言いながら、胸の奥が冷えていくのが分かった。
これは私の言葉ではない。
私の声で、私の口から出ているのに、私のものではない。お父さんが聞きたがっているであろう言葉を、私が勝手に選び取って、母の形に並べているだけだ。
気持ち悪い。そう思った。
けれど、お父さんの目が私から離れない。
それだけで、気持ち悪さよりも、もっと甘いものが喉の奥に込み上げてくる。
「……あぁ、そうだな……夢を、見ていた」
お父さんは、掠れた声でそう言った。
「俺とコノエを置いて、お前が、死ぬ夢を」
コノエ。
それは私の名前だった。
お父さんは、私を見ながら、私の名前を呼んだ。
けれどそれは、私に向けられたものではなかった。お父さんの中で、私は今、ここにはいない。夢の中で母に置いていかれた、かわいそうな娘としてしか存在していない。
そして目の前にいる私は、ナグサだった。
母だった。
胸の奥が、きゅっと縮む。
痛かった。
腹が立った。
泣きたくなった。それなのに、笑いそうにもなった。
だって、私は今、確かに母の場所にいる。ずっと入りたかった場所にいる。
お父さんの一番深いところに、手をかけている。
たとえそこから見える私は、私ではなかったとしても。
「そう」
私は言った。
母なら、きっとそうするだろうと思いながら、ゆっくりと微笑んだ。
「怖かったね」
お父さんの目が揺れる。
その目に、私の顔が映っている。
私ではない私が。
「でも大丈夫」
声が震えないように、慎重に息を吸った。
「私は、ここにいるから」
そう言った瞬間、心のどこかで、何かが小さく歪んだ。
私は。
その一人称が、誰のものなのか分からなくなる。
コノエなのか。
ナグサなのか。
それとも、お父さんに見てもらえるならどちらでもいい、もっと別の何かなのか。
分からなかった。分からなかったけれど、お父さんの目が私から離れなかった。
なら、それでよかった。今は、それでよかった。
「さぁ、こっちへ来て」
私は手を伸ばした。
母なら、きっとそうすると思った。苦しんでいる夫を抱きしめて、悪い夢から連れ戻すように。泣きそうな顔をした男の手を取り、自分はここにいると教えるように。
「慰めてあげる」
お父さんの指が、私の指先に触れた。
熱かった。
震えていた。
「私は、ここにいるって。そう、感じさせてあげる」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
私は、母の真似をしている。
それは分かっていた。でも、お父さんが見ているのが母だとしても、その手に触れているのは私だった。お父さんの前に立っているのも、声をかけているのも、息をしているのも、全部私だった。
なら、いつか変わる。
きっと変えられる。だから私は、お父さんの手を引いた。
いや。
お父さん、ではない。
この瞬間だけは。
私の方を見て、私の声に縋って、私の手を握っているこの人は。私の人だった。
そう思いながら、私は彼を寝室へ連れていった。
艶やかな夜だった。
享楽的な夜だった。
情熱的な夜だった。
そして、どうしようもなく醜い夜だった。
お父さんは
私の肌に、私の声に、私の吐息に、死んだ女の面影を探していた。私を抱きながら、
分かっていた。最初から、こうなると。
分かっていて、私は目を閉じた。
だって、それでいいと思ったから。最初だけは、それで。
今は母の代わりでもいい。悪い夢の続きでもいい。
それでも、あの夜、お父さんの腕の中にいたのは私だ。
生きて、息をして、震えていた私だ。
すべてが終わったあと、お父さんは気を失うように眠った。
私は、ずっとを見ていた。見つめていた。
乱れた呼吸が、少しずつ静かになっていくのを。
眉間に刻まれた皺が、眠っている間も消えないことを。
私の隣にいるはずなのに、その顔がどこか遠い場所に置き去りにされているように見えることを。
ずっと見ていた。
夜が薄くなり、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでも、私は眠らなかった。
お父さんが目を覚ますのを待っていた。
きっと起きたら、正気に戻る。正気に戻れば、昨夜のことを思い出すだろう。
思い出せば、きっと壊れるだろう。
そう分かっていた。
だから私は、お父さんが息を呑む瞬間も、顔から血の気が引いていく瞬間も、洗面台で嘔吐している時も。すべて、余さず見ていた。
お父さんが、罪悪感に潰されていくのを、私はずっと見つめていた。
かわいそうだと思った。
本当の、本当に。
洗面台に縋りついて、吐くものがなくなっても吐き続けているお父さんは、ひどくかわいそうだった。
背中が丸まっていた。肩が震えていた。いつもは大きく見えるその身体が、今はずいぶん小さく見えた。
ああ、こんなふうに壊れるんだ。
そう思った。
私のお父さんは、優しい人だから。
真面目で、臆病で、どうしようもなく父親でいようとする人だから。
きっと、自分を許せないから。私が、誘った側なのにね?
私が何も言わなくても、勝手に自分を責める。私が責めないほど、余計に苦しむ。私が泣かなければ、泣かない理由を探してまた傷つく。
そういう人だ。
だから、責めてはいけないと思った。
怒ってはいけないし、泣き叫んでもいけない。
それをしたら、お父さんは私から逃げてしまうから。
償わなければならないとか、離れた方がいいとか、私のためだとか、きっとそういう綺麗な言葉を並べて、この家からいなくなろうとする。
それは困る。
とても困る。
お父さんが苦しむのは、少しだけ嬉しかった。
私のことで苦しんでいる。
私のせいで吐いている。
私のことを思い出して、立っていられなくなっている。
ひどい話だと思う。
でも、それがお父さんが私を見ている証だった。
好きだから見ているんじゃなくてもいい。
愛しているから苦しんでいるんじゃなくてもいい。
罪悪感でも、後悔でも、吐き気でも、なんでもいい。
お父さんの中に私がいる。今は、それだけでよかった。
だって、ほら。その時だけは、私は母の代用品じゃなくなるでしょう?
罪でもいい。
後悔でもいい。
吐き気を催すような記憶でもいい。
それでも、お父さんの中に私の場所ができたのだ。
だから、それを連れて消えられるのは嫌だった。
死なれるのも、嫌だった。
お父さんと一緒に心中するのは、少しだけ甘美に思えた。
二人で、一緒に終わる。
あぁそれは、とても、とてもロマンチック。
けれど、それはだめ。
死んでしまったら、お父さんはきっと
そんなの、ただの横取りじゃないか。
警察に行かれるのも、誰かに話されるのも、親戚を呼ばれるのも、家を出ていかれるのも、全部嫌だった。
そんなことをされたら、私は置いていかれる。
お父さんに置いていかれるなんて、絶対に嫌だ。
だから私は、しばらく待った。すぐには声をかけなかった。
お父さんが吐いて、鏡を見て、勝手に自分を嫌いになっていくのを見ていた。
鏡が割れる音がした時は、少しだけ驚いた。
それから、血の匂いがした。
それでも、まだ待った。
たぶん、ここで出ていけば、私はただのかわいそうな娘になってしまう。
傷ついた娘。
父に壊された娘。
守られるべき娘。
それでは駄目だ。
私はもう、そこに戻りたくはない。
いつまでも娘でいたくない。
でも、お父さんは私を娘だと思いたがっている。
だから、その名前を使うことにした。
お父さんが一番捨てられないもの。
お父さんが一番傷つけたと思っているもの。
お父さんが一番守らなければならないと信じているもの。
娘。
その
台所へ向かう足音が聞こえた。
棚を開ける音。
金属が触れる音。
その瞬間、身体が勝手に動いた。
考えるより先に、廊下へ出ていた。
お父さんの背中が見えた。
手には包丁があった。
ああ、やっぱり。
そう思った。
やっぱり、お父さんはそうするのだ。
罪を抱えて生きるよりも、死んで終わらせようとする。
自分がいなくなれば、それで私が救われると思っている。
本当に、どうしようもなく優しい。
そして、どうしようもなく
死んだら終わりだと思っているところが、いかにもお父さんらしい。
終わるわけがないのに。
お父さんが死んだら、私はまた置いていかれる。
お父さんはお母さんのところへ行ってしまう。
私だけが、この家に残される。
そんなの、許せる訳ないよね?。
だから、背中から抱きしめた。
細い腕だと、お父さんは思ったかもしれない。
でも、離すつもりはなかった。
「だめだよ」
声は、思ったより静かに出た。
泣いてもよかった。
叫んでもよかった。
包丁を奪おうとしてもよかった。
でも、そうはしなかった。泣いたら、お父さんは私を被害者にするだろう。叫んだら、お父さんは自分を加害者にするだろう。包丁を奪ったら、お父さんは次の機会を探すだろう。
だから、ただ抱きしめた。
お父さんが自分で包丁を下ろすまで。
自分で死ぬことを、あとにするまで。
「死なないで」
そう言うと、お父さんの身体が固まった。
それだけでは足りない。
分かっていた。
お父さんは、娘のためなら死ねる人だ。私のためだと思えば、いくらでも自分を罰する人だ。
だから、死ぬことが私を置いていくことなのだと教えなければならない。
「私を、置いて逝かないで」
その言葉は、半分は本当だった。
半分ではなく、ほとんど本当だったかもしれない。
置いていかないで。
それは、ずっと昔から私の中にあった言葉だ。
おかあさんに言いたかった言葉。
お父さんに言えなかった言葉。
誰にも、明かしたことのない
その言葉を口にした瞬間、お父さんの力が少し抜けたのが分かった。
効いた。
やっぱり、本音はよく効く。
「……すまない」
お父さんが言った。まただ、と思った。
お父さんはすぐ謝る。謝れば、自分が悪いことにできるから。
自分が悪いことにすれば、私をかわいそうな子にできるから。
かわいそうな子にしてしまえば、今度は私のために離れようとする。
そんなのは困る。
だから、謝らせてはいけない。
「謝らないで」
できるだけ優しく言った。
優しく。
責めずに。
お父さんが逃げ道を見つけられないように。
「謝らないで、お父さん」
お父さんは、その呼び方に怯えた。
分かっていた。それでも呼んだ。
お父さん。今の私は、その名前でしかお父さんを縛れない。
妻ではない。
恋人ではない。
母ではない。
今の私はまだ、娘だ。
でも、娘という名前は弱いだけじゃない。
お父さんにとっては、何より重い楔になる。
「俺を、そう呼ばないでくれ」
そう言われて、少しだけ傷ついた。
本当に。
私はお父さんに、そう呼んでほしくないと言われたのだ。娘でいたくないと思っていたくせに、娘であることを拒まれると、ちゃんと痛かった。面倒くさい。
私の心は、いつも少し面倒くさい。でも、その痛みすら使えばいいと思った。
痛いなら、痛い顔をすればいい。傷ついたなら、傷ついた声を出せばいい。
だって、お父さんはそれに弱いのだから。
「お父さんは、お父さんだよ」
そう言うと、お父さんは壊れそうな声で否定した。
違う。
違わない。
違う。
そのやり取りは、少しだけ子供っぽかった。
昔、私が夜中に泣いて、お父さんの服を掴んでいた頃みたいだった。
あの頃は、私がお父さんに縋っていた。今は、お父さんが私の言葉に縋っている。
立場が少しだけ入れ替わった。
そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
けれど急いではいけない。ここで笑ってもいけない。勝ったと思っても、いけない。
まだだ、お父さんはすぐ逃げる。
死ぬ。
壊れる。
だから私は、ゆっくりやる。
死なせない。
出ていかせない。
謝らせすぎない。
罪を忘れさせるのではなく、罪の隣に私を置く。
お父さんが苦しくなるたびに、私を思い出すように。
お父さんが私を思い出すたびに、苦しさが少しだけ楽になるように。
そうやって、少しずつ。
少しずつでいい。でも着実に、積み上げていく。
だって、時間はあるのだから。
お父さんは生きている。
私も生きている。
死んだ人には、もう時間がない。
だから、私は急がなくていい。
お父さんの手から、包丁が落ちる。
乾いた音がした。
その音を聞いた時、私はようやく息を吐いた。
勝った、とは思わなかった。
ただ、一つだけ分かった。
お父さんは、まだ私の言葉で止まる。
まだ、私の腕の中に戻ってこられる。
まだ、間に合う。
何に間に合うのかは、分からない。
でも、そう思った。
「手」
私は言った。
お父さんの手は、血で汚れていた。割れた鏡で切ったのだろう。
痛そうだった。痛そうで、痛々しくて、かわいそうだった。可哀想で、可愛そうで、愛おしい。
私は救急箱を取りに行くことにした。
包帯を巻いてあげよう。
血を拭いてあげよう。
今日は何も決めなくていいと、言ってあげよう。
死ぬことも、出ていくことも、謝ることも、全部あとでいいと教えてあげよう。
あとでいい。
その言葉は便利だ。
あとでいいと言えば、人は今を選ぶ。楽な方に流される。
今だけ。
今日だけ。
この朝だけ。
そうやって、少しずつ明日を増やせばいい。お父さんが私のそばにいる明日を。
一つずつ、増やしていけばいい。
明日が増えれば、その分だけ、私はお父さんの中に残れる。今日の罪が、明日の生活に混ざる。明日の生活が、明後日の日常になる。
そうやっていつか、昨夜の事も日常にできる。特別なことではなく、間違いでもなく、取り返しのつかない罪でもなく。
ただ、私たちの家にあるものの一つにしてしまえる。
「手当てしよっか」
そう言うと、お父さんは嫌がった。
当然だと思った。でも、本気で拒む力はもう残っていない。
私はそれを知っていた。お父さんの傷を拭く。消毒液の匂いがした。
お父さんは痛くないと言った。嘘が下手だと思った。
「痛いでしょ、ちゃんと」
そう言うと、お父さんの目の奥が揺れた。
あぁ。この人は、まだ痛がれる。
まだ苦しめる。まだ生きている。それが、何よりも嬉しい。
私は包帯を巻きながら、できるだけ普通の声を出した。
「今日は、何も決めなくていいよ」
お父さんは何か言おうとした。
私はそれを止めた。今は言葉にしなくていい。
言葉にしたら、本当になってしまう。
罪も。
罰も。
父親ではなくなったことも。
私がもう、ただの娘ではいられないことも。
全部、本当になってしまう。
だから今は、黙っていてほしかった。
まぁ、方便だけど。本当になってほしくないのは、罪とか罰とか、そういう面倒な部分だけ。
お父さんが父親じゃなくなること。私がただの娘じゃなくなること。そこまで否定した覚えはない。
「今は、私の言うことだけ聞いて」
そう言った時、お父さんの顔が少しだけ歪んだ。
怒ったのではない。拒んだのでもない。何かに耐えるような顔だった。
そして次の瞬間、お父さんは泣いた。
最初は小さく。それから、堰を切ったように。
私は少し驚いた。お父さんがこんなふうに泣く所なんて、初めて見たから。
妻を亡くした男としてではなく。父親としてでもなく。ただ、行き場を失くした人間みたいに泣いていた。
私はその頭を抱き寄せた。自然にそうしていた。
お父さんの髪に触れる。子供の頃、私が泣いた時にそうしてくれたみたいに。今度は私の番だと、そう思ったから。お父さんは何度も謝った。
すまない。
すまない。
すまない。
そのたびに、私は少しだけ腕に力を込めた。
謝らなくていいとは言わない。もう、言っても無駄だと分かっていたから。ただ、ただ抱きしめた。謝るなら、私の腕の中で謝ればいい。
苦しむなら、私の傍で苦しめばいい。
泣くなら、私に縋って泣けばいい。
そうすれば、お父さんの罪の中に、私はずっといられる。
「大丈夫」
私は囁いた。何が大丈夫なのかは、分からなかった。
でも、お父さんにはそれでよかった。
「私、ここにいるから」
お父さんの身体から、少しずつ力が抜けていく。泣き疲れた子供みたいに。
やがて、お父さんは私の腕の中で意識を落とした。
重かった。
でも、離さなかった。
床に座り込んだまま、私はお父さんを抱えていた。
台所には血の匂いが残っていた。洗面所には割れた鏡がある。寝室には、昨日の夜の名残がある。
リビングには、母の写真がある。この家の中には、全部があった。
罪も。
罰も。
死んだ
私は、お父さんの髪を撫でた。
父親ではないと、きっとお父さんは思っている。
それでいい。
今は、それでいい。
父親じゃないなら。いつか、別の名前で呼べる日が来るかもしれない。
妻ではない。
それは、母の
恋人でもない。
そんな軽いものでは足りない。
娘でもない。
いつまでもそこに閉じ込められていたくはない。
もっと曖昧で。
もっと深くて。
もっと逃げにくい名前がいい。
まだ、うまく言葉にはできない。でも、いつかきっと見つける。
お父さんの隣に立つための名前。
お父さんが私を置いていけなくなる名前。
お父さんが、私を私として見るための名前。
私はお父さんを抱きしめたまま、静かに息を吐く。リビングの棚の上に、母の写真が見えた。
白い写真立ての中で、あの人は相変わらず綺麗に笑っている。
老いもせず。
傷つきもせず。
何も知らない顔で。
私は、お父さんの髪を撫でながら、その写真を見つめた。そして、声に出さないくらいの小ささで呟く。
「わたしのもの」
誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。
お父さんにか。
母にか。
それとも、私自身にか。
でも言葉にしてみると、不思議なくらいしっくりきた。
急がなくていい。
時間は、まだまだあるのだから。
この話は、これで終わりです。
ありがとうございますした。
ワスレナグサ:「私を忘れないで」「真実の愛」
ココノエカズラ:「情熱」「あなたしか見えない」