まいすいすいだぁりん   作:インフレした小山羊


オリジナル現代/恋愛
タグ:R-15
娘を産んで間もなく、妻は亡くなった。
男は亡き妻への想いを抱えたまま、男手ひとつで娘を育ててきた。母の顔を知らずに育った娘は、年を重ねるごとに、死んだ妻へ似ていった。
顔立ちも、声も、ふとした仕草も。
日に日に、亡き妻の生き写しと呼べるほどに成長していく娘を前に、男は恐れながらも、いつしかその姿に妻の面影を重ねるようになっていく。
そんな父親だった男と、娘の話


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I'm not a father.

噎せ返るような臭気の中で、目を覚ます。

二日酔いで、こめかみがズキリと痛む。その臭いは、頭蓋の内側にまで染み込んでくるように、嫌に鼻についた。

 

そして、隣の温もりに気づく。

その瞬間、昨夜の情景が鮮明に蘇る。断片ではない。夢でも、酔いの残した幻でもない。自分が何をしたのかを、一つ残らず思い出してしまった。

 

吐き気が込み上げる。

寝台から転げ落ちるように立ち上がり、洗面台へ向かった。間に合ったのかどうかも分からないまま、胃の中に残っていたものを残らずぶち撒ける。

 

それでも、吐き気は収まらなかった。

胃が空になっても、身体はまだ何かを吐き出そうとしていた。喉が焼ける。腹の奥が引き攣る。出てくるものが透明な液体になるまで、洗面台に縋りついたまま吐き続けた。

 

そしてようやく顔を上げた時、酸っぱい臭いの向こうで、鏡の中で男がこちらを見ていた。

その顔は、もう父親のものではなかった。

あっていいはずがなかった。

 

衝動的に、鏡を叩き割る。

乾いた音が洗面所に弾け罅割れた鏡の中で、いくつにも分かれた男の顔が、こちらを見つめていた。

そのどれもが、父親の顔をしてはいなかった。

 

拳から血が滴る。

痛みはある。けれど、それが自分のものだとは思えなかった。赤い雫が洗面台に落ち、白い陶器の上をゆっくりと汚していく。

 

罪には、罰が必要だ。

罪人は裁かれなければならない。

血の流れる手をそのままに、ふらつく足で台所へ向かった。棚を開け、包丁を取り出す。刃に映った顔もまた、見知らぬ男のものだ。

 

これ以上、父親のふりをして生きてはいけない。

 

「だめだよ」

 

そう思った瞬間、背後から細い腕が回される。

温かかった。

だがその温もりは、今は何よりも恐ろしかった。包丁を握る手に、力が籠る。

 

「だめ」

 

耳元で、()の声がした。

息を止めた。喉が引き攣り、声にもならない音が喉から漏れでる。

刃先が喉元で震える。ほんの少し力を入れれば、それで終わるはずだった。罪も、記憶も、今朝の臭気も、鏡の中で割れて散った顔も、何もかも。

 

細い腕だった。

子供の頃、転びそうになった彼女を抱き上げた時の軽さを、まだ覚えている。泣き虫で、母親の顔も知らず、夜になると決まって寝室の扉を叩いた娘。小さな手で服を掴み、置いていかないでと泣いた娘。

 

その娘の腕が、今は背後から回されている。

 

「離せ」

 

声は掠れていた。

自分の声だとは、到底思えなかった。喉の奥に、吐き残した苦味がまだ貼りついている。

 

「離してくれ」

「いや」

 

返ってきた声は、あまりにも穏やかだった。

怒ってもいない。怯えてもいない。泣いてさえいない。ただ当然のことを告げるように、彼女は否定を口にする。

 

「だめだよ、お父さん」

 

その呼び名に、手が大きく震える。

お父さん。

その一語が、今の自分には何よりも重かった。赦しではない。救いでもない。むしろ、刃よりも深く喉を切り裂く言葉であった。

 

「呼ぶな」

 

絞り出すように呻いた。

 

「俺を、そう呼ばないでくれ」

 

「どうして?」

 

背中に頬が押し当てられる。

熱が伝わってくる。生きている熱だった。逃げ場のない、あまりにも確かな温度だった。

そして、忘れてしまいたい夜にも、確かにそこにあった熱であった。

 

「お父さんは、お父さんだよ」

「違う」

「違わない」

「違う!」

 

声が跳ねた。

包丁を握る手に力が入る。けれどそれは、もう自分を殺すための力ではなかった。震えを抑えるための、惨めで矮小な、情けのない力であった。

 

「俺は、お前の父親でいる資格を失った。俺は、お前に……」

 

言葉が続かない。

口にすれば、すべてが決定的になる気がした。すでに取り返しなどつかないのに、言葉にすることだけを恐れている。その卑怯さに、また吐き気が込み上げる。

 

彼女は、何も言わなかった。

ただ少しだけ、腕に力を込める。

 

「死なないで」

 

その声は、懇願に似ていた。

静かに目を閉じる。

 

「私を置いて、()かないで」

 

その言葉は、あまりにも幼かった。

息を呑む。

背中に縋りつく腕は、昨夜のものではなかった。妻のものでもなかった。それは、かつて夜毎に寝室の扉を叩き、泣きながら服を掴んだ、娘の腕であった。

 

母親を知らない娘。

写真立ての中で微笑む女を、母と呼ぶしかなかった娘。

保育園の帰り道、他の子供が母親の手を握っているのを見て、何も言わずに袖を掴んだ娘。

 

置いていかないで。

 

その言葉は、彼女の中にずっとあったのだろう。あの日から。母親が、妻が彼女を産み落とし、そのままこの世を去った日から。ずっと。

 

「……すまない」

 

ようやく絞り出せた言葉は、それだけだった。

謝罪にもならない。償いにもならない。だが、それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。

彼女は、背中に額を押し当てたまま、小さく首を振った。

 

「謝らないで」

 

優しい声だった。

優しすぎた。

 

その優しさに、喉を塞がれる。責められた方がまだよかった。罵られ、拒まれ、突き放された方が、どれほど楽だっただろう。

 

「謝らないで、お父さん」

「……やめてくれ」

「やだ」

「頼む」

「や」

 

幼子のような拒絶だった。

けれど、その腕は少しも緩まない。

包丁を握る手から、力が抜けていくのを感じた。力を込めようとしても、指が言うことを聞かなかった。首筋に触れていた冷たい刃が、わずかに離れる。

それだけで、彼女は安堵したように息を吐く。

その吐息が背中に触れて、また吐きそうになった。

 

「俺は、生きていてはいけない」

 

声は掠れていた。

 

「お前の前にいてはいけない。俺は、お前に顔向けできないことをした。父親が、一番してはいけないことを──」

 

「言わないで」

 

彼女の声が、静かに遮る。

 

「言葉にしないで」

「だが」

「お願い」

 

彼女の指が、血に濡れた手首に触れる。

細い指だ。

その指は、刃物を持つ手を押さえつけるのではなく、まるで怪我をした子供を宥めるように包み込んだ。

 

「言葉にしたら、本当になっちゃう」

 

何も言えなかった。

本当ではないはずがない。すでに起きた。すでに汚れた。すでに壊れた。それなのに彼女は、言葉にされることだけを恐れている。

 

いや。

 

違う。

 

恐れているのは、自分の方だ。

自分の罪を言葉にできない卑怯さを、彼女は見抜いているのかもしれなかった。そして、見抜いた上で、それを許しているのかもしれなかった。許すことで、逃げ道を塞いでいるのかもしれなかった。

 

「忘れよう?」

 

彼女は言った。

 

「そうすれば、楽になるよ」

 

楽になる。

その言葉が、空々しく響く。

 

楽になっていいはずがなかった。

楽になど、なっていいはずがない。自分は苦しまなければならない。覚えていなければならない。昨日のことを、今朝の臭気を、鏡に映った醜い顔を、血に濡れた手を、首筋に触れた刃の冷たさを、一つ残らず抱えたまま朽ちていかなければならない。

 

それが罰だ。

それだけが、この人でなしが、かろうじて人間でいるための条件だった。

 

「忘れられるわけがない」

 

言った。

声は低く、掠れていた。

 

「いや、忘れていいわけがない」

 

「どうして?」

 

彼女は、責めるようには言わなかった。

ただ、本当に分からないというように問うた。

今はその無垢さに、背筋が冷える。

 

「どうしてって……」

「だって、覚えていたら、ずっと苦しいままでしょう?」

「当然だ」

「苦しいのも、辛いのも嫌だよね? だったら、今は忘れちゃおうよ」

 

彼女は、子供に言い聞かせるような声でそう言った。

 

「難しいことは、あとでいいの。今日は、考えなくていい。ねぇ、お父さん……今は、私だけを見て?」

 

その言葉に、胸を抉られた。

私だけを見て。

それは、娘の悲鳴なのだと思った。

母を知らずに育ち、写真立ての中の女を母と呼ぶしかなかった娘。誰よりも近くにいたはずの父にさえ、昨夜、別の女の影を見られてしまった娘。

 

その娘が、今この瞬間だけは、自分を置いていかないでくれと叫んでいる。

 

そう思った。

そう思わなければ、耐えられなかった。

 

「……すまない」

 

また、その言葉しか出なかった。

包丁を握る手から、少しずつ力が抜けていく。手の中の金属は、急にただの物になった。人ひとりの命を終わらせるには、あまりにも軽く、あまりにも冷たい道具だった。

床に落ちた音は、ひどく乾いていた。

その音に、背中の腕がかすかに震える。

 

「すまない」

 

繰り返した。

 

「俺は、お前にまた怖い思いをさせた」

 

彼女は答えなかった。

ただ、背中に額を押し当てたまま、小さく息を吐いた。

その沈黙を、赦しだと受け取った。

受け取ってしまった。

違うのかもしれない。赦しなどではなく、諦めだったのかもしれない。あるいは、怒る力すら奪われた者の沈黙だったのかもしれない。

 

けれど、もう何も判別できなかった。

罪悪感で目が潰れていた。

だから、彼女の腕がまだ離れないことを、自分がまだ必要とされている証のように思った。彼女が泣き叫ばないことを、まだ壊れきってはいない証のように思った。彼女が自分をお父さんと呼ぶことを、わずかに残された親子の残骸のように思った。

 

そう思いたかった。

 

「手」

 

彼女が呟いた。

 

「え?」

「手、血が出てる」

 

言われて初めて、自分の拳を見る。

割れた鏡で切った傷から、まだ血が滲んでいた。指の間を伝い、手首へと流れ、床に小さな赤い点を作っている。

 

「手当て、しよっか」

 

あまりにも日常的な言葉だった。

この家には、そんな言葉が何度もあった。

転んで膝を擦りむいた娘に、絆創膏を貼りながら言った言葉。包丁で指を切った娘の手を取り、薬箱を開けながら言った言葉。熱を出した娘の額に手を置き、濡れたタオルを替えながら言った言葉。

 

手当てしなきゃ。

それはかつては自分の言葉だった。

それを今、娘がこちらに向けている。

ひどく遠い場所から、その声を聞いているような気がした。

 

「いい」

「よくないよ」

「放っておけ」

「だめ。バイキン、入っちゃう」

 

また、その言葉だった。

 

だめ。

 

死ぬことも、謝ることも、苦しむことも、離れることも、彼女は一つずつ否定していく。

けれど、それは娘の幼い必死さにしか見えなかった。父を失うことを恐れる子供の、縋りつくような拒絶にしか見えなかった。

 

「こっち、向いて」

 

身体が強張った。

振り返ることができなかった。

振り返れば、そこにいるのが誰なのかを見なければならない。娘なのか。妻なのか。自分が昨夜そう見てしまった誰かなのか。

それを確かめることが、何よりも恐ろしかった。

 

「……無理だ」

「どうして?」

「お前の顔を、見られない」

 

声に出した途端、喉が詰まった。

あまりに卑怯な言葉だった。

見られないのは、彼女のためではない。自分が耐えられないだけだ。彼女の顔に何を見るのか、自分自身が恐ろしいだけだ。

妻の面影を見てしまうのか。娘の傷を見てしまうのか。

それとも、そのどちらも見てしまうのか。

 

「……見なくていいよ」

 

彼女は静かに言った。

 

「今は、見なくていい」

 

息が止まる。

 

「その代わり、逃げないでね?」

 

背中に回された腕が、少しだけ緩む。しかし、完全には離れない。

それは拘束ではなく、添えられているだけのようだった。

いつでも振り払える。そう思わせるほど弱く、けれど振り払えば二度と取り返しがつかないと分からせるほど確かな腕だった。

 

「手当てだけさせて」

 

答えられなかった。

彼女は返事を待たず、ゆっくりと腕をほどいた。

背中から温もりが離れる。その瞬間、奇妙な寒さを覚えた。

離れてほしかったはずなのに、触れられていることが恐ろしかったはずなのに。

温もりが消えた途端、自分の身体が、血と吐瀉物と罪悪感だけでできた冷たい塊になったような気がした。

 

「ここにいて」

 

彼女は言った。

振り返らないまま、床を見ていた。

落ちた包丁。血の点。台所の白いタイル。

そこに、彼女の素足が映るように現れた。小さくはない。もう幼い子供の足ではない。けれど記憶の中では、彼女はいつまでも寝室の前で泣いていた子供だった。

その記憶に縋ることでしか、正気を保てなかった。

 

「救急箱、取ってくるから」

 

足音が遠ざかる。

その場に膝をついたまま、動けなかった。

逃げるべきだった。今のうちに家を出るべきだった。警察に行くべきだった。誰かに話すべきだった。自分ではない誰かに、この朝を裁かせるべきだった。

 

分かっていた。

 

分かっていたのに、身体は動かなかった。いや、動けなかった。

彼女に、ここにいてと言われた。たったそれだけの言葉に、従っていた。

やがて、廊下の向こうから足音が戻ってくる。薬箱の留め具が小さく鳴った。

 

「手、出して」

 

反射的に手を隠そうとした。

けれど彼女は、それを責めない。ただ床に膝をつき、目の前に座る気配がした。見ないようにしていても、そこにいることだけは分かる。

 

「見なくていいよ」

 

彼女は言う。

 

「私が見るから」

 

その言葉は、ひどく優しい。

優しさの形をして、抵抗を一つずつ奪っていく。

ゆっくりと、血に濡れた手を差し出す。

彼女の指が触れる。

湿ったガーゼが傷口を拭う。消毒液の匂いが、朝の淀んだ臭気に混じる。しみるはずだった。痛むはずだった。けれど、何も分からない。

 

「痛い?」

 

彼女が訊いた。

首を横に振る。

 

「うそ」

 

小さく、彼女は言った。

 

「痛いでしょ、ちゃんと」

 

その言葉に、目の奥が熱くなった。

ちゃんと痛い。

そう言われたことが、なぜか耐えがたかった。

まだ痛みを感じる。血が出る。息をする。娘に手当てをされている。死んでいない。裁かれてもいない。何も終わっていない。

 

終わらせることは、許されない。

 

「お父さん」

 

彼女の声が、静かに落ちる。

 

「今日は、何も決めなくていいよ」

 

顔を上げそうになって、堪えた。

 

「死ぬことも、出ていくことも、謝ることも、全部全部、ぜぇんぶ。あとにしよう?」

 

彼女は包帯を巻きながら言った。

 

「今日は、手を洗って、ご飯を食べて……それから、寝ちゃおうよ」

 

あまりにも普通の順番だった。

手を洗う。ご飯を食べる。寝る。

それだけで一日が終わるかのように。人間はそれだけで明日を迎えられるのだと、彼女は信じているかのように。

 

いや、違う。

信じているのではない。

そういう形にしようとしているのだ。

けれど、それに気づかなかった。気づけなかった。

ただ、自分が今にも崩れそうで、彼女の声だけがそれをかろうじて繋ぎ止めているように思えた。

 

「……俺は」

 

言いかけた言葉を、彼女の指が塞いだ。

口元ではなく、包帯を巻いた手の甲を、そっと押さえるように。

 

「言わないでいいよ、今は」

 

彼女は微笑んだ気がした。

見ていなかった。

見ていないからこそ、その微笑みが妻に似ていたかどうかを知らずに済んだ。

 

「今は、私の言うことだけ聞いて」

 

その声は、甘くはなかった。幼くもなかった。

ただ、静かだった。静かすぎて、そこに混じったものに気づけなかった。

 

「……分かった」

 

そう答えたつもりだった。けれど、喉から出たのは言葉ではなかった。

嗚咽だった。

最初は小さく、喉の奥で潰れるような音だった。次に、肩が震えた。息が乱れ、胸の奥に溜まっていたものが、堰を切ったように溢れ出す。

泣いてはいけなかった。

 

父親なら。

 

父親であるなら、娘の前で泣いてはいけなかった。娘を守る側でいなければならなかった。抱きしめる側でいなければならなかった。安心させる側で、立っている側で、死んだ妻の分まで強くある側でなければならなかったのに。

 

けれど、もう父親ではなかった。なくなってしまっていた。

そう思った瞬間、嗚咽は止まらなくなった。

 

「すまない」

 

震える声で、何度も繰り返す。

 

「すまない、すまない、すまない……」

 

彼女は何も言わなかった。

ただ、そっと身体を抱き寄せるだけ。

細い腕。けれどその腕は、崩れ落ちる身体を支えるには十分だった。

額が、彼女の肩に触れる。

温い。だが、その温かさを恐ろしいと思った。拒まなければならないと思った。今すぐ突き放し、床を這ってでもこの家を出ていくべきだと思った。

それなのに、動けなかった。

 

縋ってはいけないものに、縋る。

娘の腕の中で、まるで子供のように泣く。

罪人のように泣いた。父親ではない何かとして、泣いた。

 

「大丈夫」

 

彼女が囁いた。

 

「私、ここにいるから」

 

その言葉を最後に、世界の輪郭が少しずつ遠のいていく。

頭痛も、吐き気も、消毒液の匂いも、乾きかけた血の感触も、床に落ちた包丁の鈍い光も、すべてが白く濁っていった。最後に残ったのは、彼女の腕の温もりだけ。

自分は父親ではない。父親ではない何かとして、娘の腕の中で泣いている。

それが罰なのだと。

その時は、まだ、そう思っていた。


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