私は親友のままでいたくない   作:さぶろー

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第1話 変わってしまった朝

 

 目が覚めた時、最初におかしいと思ったのは、喉だった。

 

 乾いているわけじゃない。痛いわけでもない。けれど、いつもと違った。息を吸った時の感覚が少し軽くて、胸の奥まで空気が通る感じが、知らないものみたいだった。

 

 ホップは寝返りを打とうとして、そこで止まった。

 

 布団の中で動いた腕が、細い。

 

 いや、細く見えた。

 

 まだ寝ぼけているのだと思った。昨日は遅くまでジムチャレンジのことを考えていた。マサルと一緒に旅に出る日が近づいていて、なかなか眠れなかった。だから変な夢を見ている。そう考えれば、まだ説明がつく。

 

 ホップは布団をはねのけた。

 

 手が見えた。

 

 自分の手なのに、自分の手ではないように見えた。指が少し細い。手首も、腕も。慌てて足を動かす。足は動く。痛みもない。けれど、体の重さが違った。服の中にある体の形が、昨日までと違っていた。

 

 喉が鳴った。

 

「……なんだよ、これ」

 

 出た声が、知らない声だった。

 

 ホップは固まった。

 

 部屋の中は、いつもと同じだった。机の上にはジムチャレンジの資料が置いてある。リュックも、靴も、相棒のために用意していた道具も、何も変わっていない。

 

 変わっていたのは、ホップだけだった。

 

 ベッドから降りる。足元がふらついた。体の重心が違う。慣れているはずの部屋の床が、知らない場所みたいに感じた。

 

 鏡の前に立つまでの数歩が、やけに長かった。

 

 そこにいたのは、女の子だった。

 

 見たことのない女の子が、ホップの部屋で、ホップと同じように息をしていた。

 

 黒い髪。昨日までより柔らかく見える輪郭。目元には、少しだけ自分の面影がある。けれど、それを面影と呼んでいいのかも分からなかった。

 

 ホップは鏡に手を伸ばした。

 

 鏡の中の女の子も、同じように手を伸ばした。

 

「オレ、だよな」

 

 声が震えた。

 

「オレ、ホップだよな」

 

 答えは返ってこなかった。

 

 代わりに、階下から母の声がした。

 

「ホップ、起きてる?」

 

 いつもならすぐに返事をする。起きてる、と言って、急いで着替えて、朝食の匂いにつられて下へ降りる。

 

 けれどその朝、ホップは声を出せなかった。

 

 少しして、階段を上がってくる足音が聞こえた。扉の前で止まる。

 

「ホップ?」

 

 扉が開く。

 

 母が顔を出した。

 

 目が合った。

 

 母の表情が、はっきりと変わった。驚き、困惑し、それからすぐに、ホップの名前を探すような顔になった。

 

「……ホップ?」

 

 名前を呼ばれた。

 

 それだけで、胸の奥が少し痛くなった。

 

「母さん」

 

 返事をした声は、やっぱり知らない声だった。

 

 母はしばらく何も言えなかった。けれど、すぐに部屋の中へ入ってきた。騒がなかった。叫ばなかった。ただホップの肩に手を置いて、低い声で言った。

 

「病院に行こう」

 

 ホップは頷いた。

 

 それ以外に、何をすればいいのか分からなかった。

 

 家の中は、急に静かになった。

 

 母は病院に連絡し、それからダンデにも連絡した。

 

 ダンデはハロンタウンにはいなかった。チャンピオンとしての予定があるはずだった。それでも、母のスマホロトムから聞こえた声は短かった。

 

『すぐ行く』

 

 それだけだった。

 

 病院までの道で、ホップはずっと下を向いていた。

 

 誰かに見られたくなかった。誰かに声をかけられたくなかった。ハロンタウンは小さな町だ。歩いていれば、顔見知りに会う。今までならそれが当たり前だった。けれど今は、その当たり前が怖かった。

 

 自分はホップなのに。

 

 でも、誰もそう見てくれなかったら。

 

 その考えが浮かぶたびに、足が止まりそうになった。

 

 病院では、いくつもの検査を受けた。

 

 体に痛みはない。熱もない。意識もはっきりしている。記憶にも異常はない。けれど、体だけが変わっていた。

 

 医者は何度も確認した。ポケモンの技による影響かもしれない。何らかのエネルギー反応かもしれない。外的要因かもしれない。だが、すぐに断定できるものは何もなかった。

 

 マグノリア博士の研究所にもデータが送られた。ポケモン由来の現象かもしれないからだ。けれど、返ってきた言葉は病院と同じだった。

 

 分からない。

 

 少なくとも、命に関わる異常は見つかっていない。

 

 今の身体は健康。

 

 戻る方法は不明。

 

 その説明を聞いている途中で、病院の廊下が少し騒がしくなった。

 

 ダンデが来た。

 

 母が立ち上がる。ホップは椅子に座ったまま、膝の上で手を握った。

 

 足音が近づいてくる。

 

 廊下の角から、ダンデが姿を現した。

 

 チャンピオンのマントはなかった。帽子も被っていない。急いで来たのだとすぐに分かった。いつものように大きく笑ってはいなかった。

 

 ダンデはホップを見た。

 

 ホップは、兄の顔を見られなかった。

 

「ホップ」

 

 名前を呼ばれた。

 

 優しい声だった。

 

 それがつらかった。

 

「兄貴」

 

 返事をしようとした。いつものように、何でもない顔で。大丈夫だと言いたかった。チャンピオンの弟なのだから、これくらいで取り乱したくなかった。

 

 でも出た声は、やっぱり知らない声だった。

 

 ダンデの眉が少し動いた。

 

 それを見た瞬間、ホップは笑おうとした。

 

「オレ、大丈夫だから」

 

 言った直後に、喉が詰まった。

 

 大丈夫なはずがなかった。

 

 声も、手も、体も、鏡に映る顔も、何もかも昨日までと違っている。病院の椅子に座っているだけなのに、自分の体の置き方さえ分からない。

 

 それなのに、何が大丈夫なのか。

 

 ホップは唇を噛んだ。

 

 ダンデは近づいてきて、膝を折った。視線の高さを合わせる。

 

「無理に大丈夫と言わなくていい」

 

 その言葉に、ホップは何も返せなかった。

 

 無理をしていると見抜かれたことが悔しかった。安心したことも悔しかった。

 

 医者から説明を受ける間、ホップはほとんど黙っていた。

 

 ダンデは細かく質問した。命に関わらないのか。痛みはないのか。今後、体に変化はあるのか。ポケモンの技やエネルギー反応は本当にないのか。戻る可能性はあるのか。

 

 医者は一つずつ答えた。

 

 命に関わる異常はない。痛みもない。今後については分からない。原因も分からない。戻る方法も分からない。

 

 分からない、という言葉ばかりが増えていった。

 

 病院を出た時、空は晴れていた。

 

 腹が立つくらい、いつも通りだった。

 

 ホップは母に上着をかけられた。寒くないと言おうとして、やめた。周りの視線が気になった。誰もこちらを見ていないかもしれない。けれど、見られている気がした。

 

 ダンデが少し前を歩き、母が隣にいた。

 

 守られているのだと分かった。

 

 けれど、守られていることが苦しかった。

 

 昨日までの自分なら、こんなふうに挟まれて歩くことはなかった。ダンデの弟として胸を張って、マサルと一緒にジムチャレンジに行くことばかり考えていた。

 

 そのはずだった。

 

 家が見えてきた。

 

 ハロンタウンの道は、いつも通りだった。風が草を揺らしている。遠くでポケモンの鳴き声がする。家の前の道も、玄関も、何も変わっていない。

 

 そこで、ホップはマサルを見つけた。

 

 道の向こうを、マサルが歩いていた。

 

 スマホロトムを見ていた。何かを確認しながら、いつもの足取りでこちらへ向かってくる。ジムチャレンジのことかもしれない。ダンデからの連絡かもしれない。何も知らず、いつも通りに歩いているだけかもしれない。

 

 ホップの足が止まった。

 

 マサルだ。

 

 そう思った瞬間、息が詰まった。

 

 見られたくない。

 

 その考えが、何より先に出てきた。

 

 マサルなら、きっと名前を呼ぶ。ホップ、と呼ぶ。いつものように顔を上げて、何かを言う。

 

 それが怖かった。

 

 今の自分を見て、マサルが一瞬でも言葉に詰まったら。

 

 知らない誰かを見るような顔をしたら。

 

 ホップは、もう立っていられない気がした。

 

「ホップ?」

 

 母が声をかけた。

 

 ホップは答えなかった。

 

 足が勝手に動いた。

 

 ダンデがこちらを見たのが分かった。母が何かを言った。けれどホップは、そのどれにも応えられなかった。

 

 逃げるように家へ向かった。

 

 玄関の扉を開ける。中へ入る。振り返らない。顔を見られたくない。声も聞かれたくない。今の自分を、マサルに知られたくない。

 

 扉を閉める直前、道の向こうでマサルが顔を上げた。

 

 それだけは見えた。

 

 ホップは扉を閉めた。

 

 背中で扉にもたれる。

 

 息が荒かった。

 

 病院では泣かなかった。ダンデの前でも、母の前でも、泣かなかった。

 

 けれど、マサルを見た瞬間、全部が壊れそうになった。

 

 ホップはずるずると座り込んだ。

 

 膝を抱える。

 

 ジムチャレンジのパンフレットが、廊下の棚の上に置かれていた。少し前まで、何度も何度も開いて見ていたものだった。

 

 マサルと一緒に行くはずだった。

 

 兄に挑むための、最初の一歩になるはずだった。

 

 ずっと楽しみにしていた。

 

 それなのに。

 

「……行けない」

 

 声に出した瞬間、その言葉が本当になった気がした。

 

 ホップは膝に顔を埋めた。

 

 自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。

 




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