目が覚めた時、最初におかしいと思ったのは、喉だった。
乾いているわけじゃない。痛いわけでもない。けれど、いつもと違った。息を吸った時の感覚が少し軽くて、胸の奥まで空気が通る感じが、知らないものみたいだった。
ホップは寝返りを打とうとして、そこで止まった。
布団の中で動いた腕が、細い。
いや、細く見えた。
まだ寝ぼけているのだと思った。昨日は遅くまでジムチャレンジのことを考えていた。マサルと一緒に旅に出る日が近づいていて、なかなか眠れなかった。だから変な夢を見ている。そう考えれば、まだ説明がつく。
ホップは布団をはねのけた。
手が見えた。
自分の手なのに、自分の手ではないように見えた。指が少し細い。手首も、腕も。慌てて足を動かす。足は動く。痛みもない。けれど、体の重さが違った。服の中にある体の形が、昨日までと違っていた。
喉が鳴った。
「……なんだよ、これ」
出た声が、知らない声だった。
ホップは固まった。
部屋の中は、いつもと同じだった。机の上にはジムチャレンジの資料が置いてある。リュックも、靴も、相棒のために用意していた道具も、何も変わっていない。
変わっていたのは、ホップだけだった。
ベッドから降りる。足元がふらついた。体の重心が違う。慣れているはずの部屋の床が、知らない場所みたいに感じた。
鏡の前に立つまでの数歩が、やけに長かった。
そこにいたのは、女の子だった。
見たことのない女の子が、ホップの部屋で、ホップと同じように息をしていた。
黒い髪。昨日までより柔らかく見える輪郭。目元には、少しだけ自分の面影がある。けれど、それを面影と呼んでいいのかも分からなかった。
ホップは鏡に手を伸ばした。
鏡の中の女の子も、同じように手を伸ばした。
「オレ、だよな」
声が震えた。
「オレ、ホップだよな」
答えは返ってこなかった。
代わりに、階下から母の声がした。
「ホップ、起きてる?」
いつもならすぐに返事をする。起きてる、と言って、急いで着替えて、朝食の匂いにつられて下へ降りる。
けれどその朝、ホップは声を出せなかった。
少しして、階段を上がってくる足音が聞こえた。扉の前で止まる。
「ホップ?」
扉が開く。
母が顔を出した。
目が合った。
母の表情が、はっきりと変わった。驚き、困惑し、それからすぐに、ホップの名前を探すような顔になった。
「……ホップ?」
名前を呼ばれた。
それだけで、胸の奥が少し痛くなった。
「母さん」
返事をした声は、やっぱり知らない声だった。
母はしばらく何も言えなかった。けれど、すぐに部屋の中へ入ってきた。騒がなかった。叫ばなかった。ただホップの肩に手を置いて、低い声で言った。
「病院に行こう」
ホップは頷いた。
それ以外に、何をすればいいのか分からなかった。
家の中は、急に静かになった。
母は病院に連絡し、それからダンデにも連絡した。
ダンデはハロンタウンにはいなかった。チャンピオンとしての予定があるはずだった。それでも、母のスマホロトムから聞こえた声は短かった。
『すぐ行く』
それだけだった。
病院までの道で、ホップはずっと下を向いていた。
誰かに見られたくなかった。誰かに声をかけられたくなかった。ハロンタウンは小さな町だ。歩いていれば、顔見知りに会う。今までならそれが当たり前だった。けれど今は、その当たり前が怖かった。
自分はホップなのに。
でも、誰もそう見てくれなかったら。
その考えが浮かぶたびに、足が止まりそうになった。
病院では、いくつもの検査を受けた。
体に痛みはない。熱もない。意識もはっきりしている。記憶にも異常はない。けれど、体だけが変わっていた。
医者は何度も確認した。ポケモンの技による影響かもしれない。何らかのエネルギー反応かもしれない。外的要因かもしれない。だが、すぐに断定できるものは何もなかった。
マグノリア博士の研究所にもデータが送られた。ポケモン由来の現象かもしれないからだ。けれど、返ってきた言葉は病院と同じだった。
分からない。
少なくとも、命に関わる異常は見つかっていない。
今の身体は健康。
戻る方法は不明。
その説明を聞いている途中で、病院の廊下が少し騒がしくなった。
ダンデが来た。
母が立ち上がる。ホップは椅子に座ったまま、膝の上で手を握った。
足音が近づいてくる。
廊下の角から、ダンデが姿を現した。
チャンピオンのマントはなかった。帽子も被っていない。急いで来たのだとすぐに分かった。いつものように大きく笑ってはいなかった。
ダンデはホップを見た。
ホップは、兄の顔を見られなかった。
「ホップ」
名前を呼ばれた。
優しい声だった。
それがつらかった。
「兄貴」
返事をしようとした。いつものように、何でもない顔で。大丈夫だと言いたかった。チャンピオンの弟なのだから、これくらいで取り乱したくなかった。
でも出た声は、やっぱり知らない声だった。
ダンデの眉が少し動いた。
それを見た瞬間、ホップは笑おうとした。
「オレ、大丈夫だから」
言った直後に、喉が詰まった。
大丈夫なはずがなかった。
声も、手も、体も、鏡に映る顔も、何もかも昨日までと違っている。病院の椅子に座っているだけなのに、自分の体の置き方さえ分からない。
それなのに、何が大丈夫なのか。
ホップは唇を噛んだ。
ダンデは近づいてきて、膝を折った。視線の高さを合わせる。
「無理に大丈夫と言わなくていい」
その言葉に、ホップは何も返せなかった。
無理をしていると見抜かれたことが悔しかった。安心したことも悔しかった。
医者から説明を受ける間、ホップはほとんど黙っていた。
ダンデは細かく質問した。命に関わらないのか。痛みはないのか。今後、体に変化はあるのか。ポケモンの技やエネルギー反応は本当にないのか。戻る可能性はあるのか。
医者は一つずつ答えた。
命に関わる異常はない。痛みもない。今後については分からない。原因も分からない。戻る方法も分からない。
分からない、という言葉ばかりが増えていった。
病院を出た時、空は晴れていた。
腹が立つくらい、いつも通りだった。
ホップは母に上着をかけられた。寒くないと言おうとして、やめた。周りの視線が気になった。誰もこちらを見ていないかもしれない。けれど、見られている気がした。
ダンデが少し前を歩き、母が隣にいた。
守られているのだと分かった。
けれど、守られていることが苦しかった。
昨日までの自分なら、こんなふうに挟まれて歩くことはなかった。ダンデの弟として胸を張って、マサルと一緒にジムチャレンジに行くことばかり考えていた。
そのはずだった。
家が見えてきた。
ハロンタウンの道は、いつも通りだった。風が草を揺らしている。遠くでポケモンの鳴き声がする。家の前の道も、玄関も、何も変わっていない。
そこで、ホップはマサルを見つけた。
道の向こうを、マサルが歩いていた。
スマホロトムを見ていた。何かを確認しながら、いつもの足取りでこちらへ向かってくる。ジムチャレンジのことかもしれない。ダンデからの連絡かもしれない。何も知らず、いつも通りに歩いているだけかもしれない。
ホップの足が止まった。
マサルだ。
そう思った瞬間、息が詰まった。
見られたくない。
その考えが、何より先に出てきた。
マサルなら、きっと名前を呼ぶ。ホップ、と呼ぶ。いつものように顔を上げて、何かを言う。
それが怖かった。
今の自分を見て、マサルが一瞬でも言葉に詰まったら。
知らない誰かを見るような顔をしたら。
ホップは、もう立っていられない気がした。
「ホップ?」
母が声をかけた。
ホップは答えなかった。
足が勝手に動いた。
ダンデがこちらを見たのが分かった。母が何かを言った。けれどホップは、そのどれにも応えられなかった。
逃げるように家へ向かった。
玄関の扉を開ける。中へ入る。振り返らない。顔を見られたくない。声も聞かれたくない。今の自分を、マサルに知られたくない。
扉を閉める直前、道の向こうでマサルが顔を上げた。
それだけは見えた。
ホップは扉を閉めた。
背中で扉にもたれる。
息が荒かった。
病院では泣かなかった。ダンデの前でも、母の前でも、泣かなかった。
けれど、マサルを見た瞬間、全部が壊れそうになった。
ホップはずるずると座り込んだ。
膝を抱える。
ジムチャレンジのパンフレットが、廊下の棚の上に置かれていた。少し前まで、何度も何度も開いて見ていたものだった。
マサルと一緒に行くはずだった。
兄に挑むための、最初の一歩になるはずだった。
ずっと楽しみにしていた。
それなのに。
「……行けない」
声に出した瞬間、その言葉が本当になった気がした。
ホップは膝に顔を埋めた。
自分の声が、自分のものではないみたいに聞こえた。
投稿の仕方がこれで合ってたら良いな