二番道路に夜が降りていた。
昼間は草むらの奥から何度も野生ポケモンの気配がしたけれど、今はずっと静かだった。
風が吹くたびに草が揺れる。
坂の先には、マグノリア博士の家が見えている。窓の明かりは遠く、そこだけが夜の中で少し温かそうに見えた。
明日の朝には、あそこへ行く。
そう決めてから、ホップとマサルはキャンプの片付けをした。
食事を終えて、少し休んだポケモンたちを、それぞれボールへ戻す。
「今日はありがとう。ゆっくり休んでね」
ホップはヒバニー、ウールー、ココガラのボールを鞄にしまった。
マサルも、メッソンとガーディを戻している。
「ガーディ、明日また歩こうね」
マサルがそう言うと、ボールの中へ戻る直前、ガーディは元気よく鳴いた。
昼間は賑やかだったキャンプが、急に静かになる。
それは少し寂しくもあったが、同時に、夜のキャンプらしくもあった。
ポケモンたちは休ませる。
人も休む。
そうしないと、明日また歩けない。
ホップはそう思いながら、鞄の中のボールを確かめた。
みんな、そこにいる。
それで十分だった。
テントに入ってからも、ホップはなかなか眠れなかった。
疲れているはずなのに、目を閉じても頭が静まらない。
朝はハロンタウンにいた。
昼には二番道路を歩いていた。
野生ポケモンと出会って、トレーナーとバトルして、ウールーとココガラを捕まえた。
初めてキャンプを張って、マサルと一緒にカレーを作った。
少し焦げたカレーを、ポケモンたちと一緒に食べた。
たった一日なのに、ずいぶん遠くまで来たような気がする。
ホップは静かに身体を起こした。
マサルを起こさないように、そっとテントの外へ出る。
外の空気は、思っていたより冷たかった。
ホップは腕を軽くさすりながら、空を見上げる。
星が出ている。
ハロンタウンで見ていた空と、同じはずだった。
けれど、旅に出た一日目の夜に見る空は、少し違って見えた。
ホップは博士の家の方を見る。
二年前、この家の名前を聞く時、胸の奥が少し重くなった。
原因を調べるため。
戻る方法を探すため。
自分に何が起きたのか、誰かに確かめてもらうため。
でも、今は違う。
明日、ホップは自分の足であの家へ行く。
自分のポケモンたちと。
マサルと一緒に。
「眠れない?」
後ろから声がした。
振り返ると、テントからマサルが出てきていた。
手には上着を持っている。
「少しだけ」
「寒くない?」
「大丈夫」
そう答えたのに、マサルはホップの肩に上着をかけた。
「夜は冷えるよ」
「……ありがとう」
ホップは上着の端を軽く掴んだ。
マサルは隣まで来て、同じように空を見る。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
草の揺れる音だけが聞こえる。
「今日、長かったね」
ホップが言った。
「そうだね」
「朝はハロンタウンにいたのに」
「うん」
「今は博士の家の近くでキャンプしてる」
「遠くまで来たね」
「まだ二番道路だけどね」
「でも、遠くまで来た感じはするよ」
マサルがそう言った。
ホップは少しだけ笑う。
「マサルもそう思う?」
「うん」
「そっか」
それが少し嬉しかった。
自分だけがそう感じているわけではない。
同じ道を歩いて、同じカレーを食べて、同じ夜の空を見ている。
それだけのことなのに、胸の奥が静かに温かくなる。
「カレー、次は焦がさないようにしないとね」
ホップが言う。
「うん」
「きのみも少なめ」
「火も少し弱め」
「マサル、結構覚えてるね」
「次も作るし」
「……うん」
次も。
その言葉が、当たり前みたいに置かれた。
ホップはそれに気づいて、少しだけ視線を落とした。
次も一緒に作る。
次も一緒に休む。
次も一緒に進む。
そう思えることが、今は自然になっている。
その時だった。
夜空を、赤い光が走った。
ただの流れ星よりも色が濃い。
炎の赤とも違う。
ガラルで何度も話に聞いた、ダイマックスの光に似た赤だった。
光は夜をまっすぐ裂くように流れ、博士の家の方角より少し手前へ落ちていく。
「今の、見た?」
マサルが言う。
「見た」
ホップは、光が落ちた方角を見つめた。
胸が少し高鳴っている。
「あれ、願い星だ」
「願い星?」
「うん。兄貴から聞いたことある。ガラルに落ちる、赤い流れ星みたいな石」
ホップはマサルを見る。
「近くに落ちたよね」
「うん。近かったと思う」
「探してみよう」
「分かった」
二人は足元に気をつけながら、光が落ちた方へ向かった。
草むらは夜になると、昼間より深く見えた。
風が吹くと、草の影が揺れる。
夜の道を歩いているのは、ホップとマサルだけだった。
少し怖くないと言えば嘘になる。
けれど、不思議と足は止まらなかった。
隣にマサルがいる。
それだけで、夜の二番道路も歩ける場所になる。
「願い星って、拾うと願い事が叶うって言われてるよね」
ホップは草の間を見ながら言った。
「聞いたことあるよ」
「マサルは、何か願う?」
マサルは少し考えるように黙った。
それから、草むらの先を見ながら答える。
「まだ分からないかな」
「そっか」
「ホップは?」
「私も、まだ分からないかな」
そう答えてから、ホップは少しだけ自分の胸に意識を向けた。
願い事。
そう言われれば、二年前ならすぐに浮かんだと思う。
元に戻りたい。
何もかも、前と同じに戻してほしい。
きっと、そう願った。
迷わずに。
泣きそうになりながら。
けれど今は、すぐには言葉にならない。
元に戻りたいと、まったく思わないわけではない。
二年前の痛みが、全部消えたわけでもない。
それでも、今の自分をなかったことにしたいとは思わなかった。
今の自分で、ヒバニーと出会った。
ウールーとココガラも捕まえた。
マサルと一緒に旅に出た。
少し焦げたカレーを食べて、同じ空を見ている。
それらを全部なくしてまで、何かを願いたいのか。
答えは、まだ出なかった。
「あ」
マサルが足を止めた。
草の間に、小さな赤い光が見える。
ホップも近づいて、しゃがみ込んだ。
それは石のようだった。
けれど、普通の石ではない。
内側に赤い光を抱えているように、静かに輝いていた。
「これだ」
ホップはそっと手を伸ばした。
指先が触れると、少しだけ温かい気がした。
拾い上げると、手のひらの中で赤い光が淡く揺れる。
「願い星……」
ホップは小さく呟いた。
「綺麗だね」
マサルが言う。
「うん」
ホップは頷いた。
「マサルの分もあるかな」
「探してみる」
二人はもう少し周りを探した。
赤い流れ星は一つに見えたけれど、落ちた場所には小さな光がいくつか残っているようだった。
しばらくして、少し離れた草の間に、もう一つ赤い光が見えた。
「あった」
マサルがしゃがみ込む。
ホップはその横に寄った。
マサルが拾い上げると、その手の中でも願い星は同じように淡く光っていた。
「二つあったね」
ホップが言う。
「うん」
「すごいね。旅に出た一日目で願い星なんて」
「明日、博士に見てもらおう」
「うん。そうしよう」
ホップは願い星を落とさないように、手のひらの中で包んだ。
赤い光は強すぎない。
でも、確かにそこにある。
マサルも隣で、自分の願い星を見ていた。
何を考えているのかは分からない。
でも、同じ空から落ちてきた光を、今、二人で持っている。
それが少し嬉しかった。
しばらくして、二人はキャンプへ戻った。
テントの近くは、出てきた時と同じように静かだった。
火はもう落としてある。
荷物も、ボールも、ちゃんと決めた場所に置いてある。
ホップは鞄の中を軽く確認した。
ヒバニーたちのボールが、そこにある。
みんな休んでいる。
明日また、一緒に歩くために。
ホップはテントの前で足を止める。
夜空をもう一度見上げた。
さっき赤い光が走った場所は、もう普通の星空に戻っている。
それでも、手の中には願い星があった。
確かに落ちてきた光。
確かに拾った願い星。
ホップは、落ちた光の方を見つめた。
二年前なら、何を願っただろう。
今なら、何を願うだろう。
答えは、すぐには言葉にならなかった。
けれど、隣にはマサルがいた。
それだけで満足している自分もいた。