それから何日経ったのか、ホップにはよく分からなかった。
朝になれば、部屋の中が少し明るくなる。夜になれば、窓の外が暗くなる。母が何度か部屋の前まで来て、食事を置いてくれる。ダンデも何度か声をかけてくれた。
それでも、ホップはほとんど部屋から出られなかった。
体は健康だと言われた。
痛いところはない。熱もない。命に関わる異常も見つかっていない。病院でも、マグノリア博士のところでも、そう言われた。
けれど、それで安心できるなら苦労はなかった。
ベッドの上に座って、自分の手を見る。
細い指。昨日まで、いや、数日前までとは違う手。少し力を入れるとちゃんと動く。ポケモンのボールを握ることもできる。歩くこともできる。食べることもできる。
それなのに、自分のものだと思えなかった。
ホップは膝を抱えた。
部屋の中には、ジムチャレンジのために準備していたものがそのまま置かれていた。リュック。靴。メモ。資料。マサルと話しながら決めた持ち物。
全部、数日前までは眩しく見えた。
今は、見るだけで胸が詰まった。
スマホロトムは机の上に置いたままだった。何度か光っていた気もする。音が鳴った気もする。けれど、手に取れなかった。
誰かから連絡が来ている。
そう思うだけで怖かった。
母かもしれない。ダンデかもしれない。病院かもしれない。マグノリア博士かもしれない。
マサルかもしれない。
それが一番怖かった。
ベッドの上で、ホップはぼんやりと窓を見ていた。
外では、いつも通りに風が吹いていた。ハロンタウンの草原が揺れる。どこかでポケモンの鳴き声がする。変わってしまったのは自分だけで、世界は何もなかったように動いている。
そのことが、ひどく遠く感じた。
チャイムが鳴った。
ホップは肩を跳ねさせた。
母が玄関へ向かう足音が聞こえる。階下で扉が開く音がした。声が聞こえた。
最初は、誰の声か分からなかった。
けれど、すぐに分かった。
「こんにちは。ホップ、いますか?」
マサルだった。
ホップの息が止まった。
ベッドの上で体が固まる。手が、布団を握った。
どうして。
そう思ってから、すぐに分かった。
当然だった。
ジムチャレンジのことを、ずっと話していた。出発の日も近かった。数日顔を見せず、メッセージにも返事をしなければ、マサルが心配するのは当たり前だった。
下から、母の声が聞こえた。
「マサルくん……」
母の声は、少し詰まっていた。
それだけで、ホップは唇を噛んだ。
「最近、ホップ見かけなかったから。風邪かなって思って」
マサルの声は、いつもより少し小さかった。
「メッセージも送ったんですけど、既読もつかないし」
ホップは机の上を見た。
スマホロトムが、そこにあった。
ずっと見ないようにしていたもの。
ホップはゆっくり手を伸ばした。指先が少し震えた。画面をつけると、通知がいくつも並んでいた。
マサルからのメッセージがあった。
最初のものは、あの日の朝だった。
『さっきバイウールーに顔埋めたら、毛がすごくて顔中毛だらけになった』
『かゆい』
『でもちょっと気持ちよかった』
『ホップも今度やってみろよ。いや、やめた方がいいかも』
くだらない内容だった。
いつも通りの、どうでもいい話だった。
それを見た瞬間、胸の奥が痛くなった。
あの日の朝、マサルは普通にメッセージを送ってきていた。いつものように、何でもない話をしていた。ホップがそれを見て、いつものように返事をしていれば、たぶん笑っていた。
なのに、気づかなかった。
それどころではなかった。
その次の日にも、メッセージがあった。
『今日来ないのか?』
『体調悪い?』
そして今日。
『大丈夫か?』
『返事できそうなら一言でいいからくれ』
『無理なら家行く』
ホップは画面を見つめた。
下では、母とマサルの声が続いていた。
「少し、体調がよくなくて」
母の声がした。
それは嘘ではなかった。
でも、本当でもなかった。
「寝てますか?」
「……今は、部屋にいるの」
「会えますか?」
母はすぐに答えなかった。
その沈黙が、ホップには痛かった。
母は言えない。
勝手に言うことはできない。
ホップのことだから。ホップの体のことだから。ホップが、まだ誰にも見られたくないことだから。
母はきっと、どう答えればいいか分からない。
マサルはきっと、何も知らない。
それなのに、自分だけが部屋の中で黙っている。
ホップはスマホロトムを握った。
怖かった。
今の自分を見られるのが怖い。声を聞かれるのが怖い。マサルが言葉に詰まるのが怖い。知らない誰かを見るような目をされるのが怖い。
でも。
マサルは、親友だった。
数日前まで、一緒にジムチャレンジへ行くはずだった。兄に挑むために、同じ日にハロンタウンを出るはずだった。くだらないメッセージを送り合って、ポケモンのことを話して、勝負のことを話していた。
黙って消えるようなことは、したくなかった。
顔は見せられない。
それでも、自分の言葉で言わなければいけない。
ホップは震える指でメッセージを打った。
『悪い』
そこで一度、手が止まった。
下からマサルの声が聞こえる。母の困ったような声も聞こえる。
ホップは歯を食いしばって、続けた。
『部屋の前まで来てくれ』
送信した。
数秒後、階下の声が止まった。
それから、母の足音と、マサルの足音が階段へ向かった。
ホップはベッドから降りた。
足が震えた。
扉の前まで歩く。たった数歩なのに、ひどく長く感じた。扉の向こうから足音が近づいてくる。
一段ずつ、階段を上がる音。
マサルの足音を、ホップは知っていた。何度も聞いたことがある。遊びに来た時。勝負をしに来た時。ジムチャレンジの話をしに来た時。
その音が、今は怖かった。
扉の前で、足音が止まる。
「ホップ」
扉越しに、マサルが名前を呼んだ。
いつもの声だった。
それだけで、喉が詰まりそうになった。
ホップは扉に背を向けて座った。膝を抱える。顔は見えない。扉一枚隔てている。それでも、近くにいることが分かった。
「……マサル」
返事をした。
自分の声が、扉を通して向こうへ届いた。
その瞬間、体が強張った。
マサルは何も言わなかった。
聞こえただろうか。
今の声を。
昨日までとは違う、この声を。
「ごめん」
ホップは言った。
声が震えた。
「メッセージ、見てなかった。今、見た」
「いいよ。返事できないくらい悪かったんだろ」
マサルの声は責めていなかった。
それが余計につらかった。
「違うんだ」
ホップは膝を強く抱えた。
「風邪とかじゃない」
扉の向こうが静かになる。
ホップは続けた。
「数日前の朝、起きたら……体が変わってた」
言葉にした瞬間、胸の奥が冷たくなった。
自分で言ってしまった。
マサルに、言ってしまった。
「病院にも行った。兄貴も来た。マグノリア博士にも調べてもらった。でも、分からないって。命に関わるようなものじゃないって言われた。体は健康だって」
そこまで言って、ホップは一度息を吸った。
呼吸が浅かった。
「でも、戻る方法は分からない」
扉の向こうから、マサルの息を呑む気配がした。
それでも、マサルは口を挟まなかった。
ホップはそれに少しだけ救われて、少しだけ苦しくなった。
「だから、今は顔を合わせたくない」
声が掠れた。
「見られたくない。マサルに、今のオレを見られたくない」
言ってから、ホップは唇を噛んだ。
今のオレ。
その言葉すら、どこか変だった。
オレなのか。
本当に、まだオレなのか。
分からない。
「ごめん。勝手にこんなこと言って」
ホップは下を向いた。
「でも、ちゃんと伝えなきゃって思った。マサルには、何も言わないままにはしたくなかった」
扉の向こうで、床が小さく鳴った。
マサルがそこにいる。
帰っていない。
それだけで、胸が痛い。
「今年のジムチャレンジ、オレは行けない」
言葉が、思ったよりはっきり出た。
その分、自分に突き刺さった。
「行きたいけど、行けない。外に出るだけで怖い。病院から帰った時も、マサルを見て、逃げた」
あの日の玄関先が頭に浮かぶ。
道の向こうで、スマホロトムから顔を上げたマサル。
それを見る前に、扉を閉めた自分。
「見られたくなかった」
ホップは目を閉じた。
「マサルにだけは、見られたくなかった」
声が震えた。
もう止められなかった。
「でも、マサルは行ってくれ」
喉が痛かった。
「オレのことは気にしなくていい。マサルはジムチャレンジに行って、兄貴に挑んでくれ。ずっと言ってただろ。二人で行くって。でも、今のオレは行けないから」
ホップは扉に背中を押しつけた。
向こう側にマサルがいる。
それが分かるのに、顔を合わせられない。
「ごめん」
何度目か分からない謝罪がこぼれた。
「本当に、ごめん」
扉の向こうは、静かだった。
マサルは、何も言わなかった。
ホップは膝を抱えたまま、息を殺した。
今、扉を開けられたらどうしようと思った。
このまま帰られたらどうしようとも思った。
どちらも怖かった。
扉一枚の向こうで、親友だったマサルが黙っている。
その沈黙を聞きながら、ホップは自分の手を強く握った。