私は親友のままでいたくない   作:さぶろー

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第3話 ホップはホップだよ

 扉の向こうは、静かだった。

 

 ホップは膝を抱えたまま、息を殺していた。

 

 言った。

 

 言ってしまった。

 

 数日前の朝、起きたら体が変わっていたこと。原因が分からないこと。戻る方法も分からないこと。今は顔を合わせたくないこと。今年のジムチャレンジには行けないこと。

 

 そして、マサルには自分を気にせず、ジムチャレンジに行ってほしいこと。

 

 言わなければいけないと思った。

 

 親友だったから。

 

 何も言わないまま消えるようなことは、したくなかったから。

 

 けれど、言い終わった今、ホップは怖くて仕方なかった。

 

 扉の向こうで、マサルが黙っている。

 

 その沈黙が、どんな顔をしているのか分からない。

 

 困っているのかもしれない。

 

 驚いているのかもしれない。

 

 何を言えばいいか分からなくなっているのかもしれない。

 

 そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなった。

 

「……マサル」

 

 呼んでから、後悔した。

 

 返事がなかったらどうしようと思った。

 

 けれど、扉の向こうから、ちゃんと声が返ってきた。

 

「いるよ」

 

 短い声だった。

 

 それだけで、ホップは息を吸えた。

 

 マサルは扉を開けなかった。

 

 ノブが回る音もしない。無理に入ってくる気配もない。ただ、扉一枚を挟んだ向こう側にいる。

 

 ホップが顔を合わせたくないと言ったから。

 

 だから、開けない。

 

 それが分かって、ホップは唇を噛んだ。

 

 こんな時まで、マサルはマサルだった。

 

「……ごめん」

 

 また、その言葉が出た。

 

「オレ、急にこんなこと言って。何日も返事しなくて。勝手にジムチャレンジ行けないとか言って。マサルにまで、変なこと――」

 

「ホップ」

 

 名前を呼ばれて、言葉が止まった。

 

 扉越しでも、マサルの声ははっきり聞こえた。

 

「ホップはホップだよ」

 

 ホップは息を止めた。

 

 マサルは続けた。

 

「どんな姿になっても、俺の親友のホップだよ」

 

 その言葉が、胸の奥に落ちた。

 

 落ちて、そこで止まった。

 

 ばらばらになりかけていたものを、名前で留めるみたいに。

 

 ホップは、何も言えなかった。

 

 鏡の中の知らない女の子。自分のものではないみたいな声。細くなった手。違う体。病院の椅子。分からないと繰り返す医者の声。心配そうな母の顔。兄の優しい声。玄関先で見えたマサルの姿。

 

 全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっていた。

 

 自分が自分ではない何かになってしまった気がしていた。

 

 もう、ホップではないのかもしれないと思っていた。

 

 けれど、マサルは言った。

 

 ホップはホップだと。

 

 どんな姿になっても、俺の親友のホップだと。

 

「……なんで」

 

 声が震えた。

 

「なんで、そんなこと言えるんだよ」

 

「ホップだから」

 

 マサルはすぐに答えた。

 

 迷ったようには聞こえなかった。

 

「声が違っても、今ここで俺にちゃんと話してるのはホップだ」

 

 ホップは俯いた。

 

「違うかもしれないだろ」

 

「違わない」

 

「顔も、体も、声も、全部違うんだ」

 

「でも、ホップだよ」

 

 短い言葉だった。

 

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 

 ホップの中で、何かが切れた。

 

 涙がこぼれた。

 

 最初は一粒だった。すぐに止まると思った。止めなければと思った。扉の向こうにマサルがいる。母も、階下にいるかもしれない。ダンデにだって聞こえるかもしれない。

 

 でも、止まらなかった。

 

 嗚咽が漏れた。

 

 ホップは慌てて口元を押さえた。けれど、涙も声も、指の隙間からこぼれていった。

 

「ごめん」

 

 また言った。

 

「ごめん、マサル」

 

「謝らなくていい」

 

「ごめん」

 

「ホップ」

 

「ごめん、オレ、分かんないんだ」

 

 声が崩れた。

 

「何に謝ってるのかも、分かんない。でも、ごめん。ごめん、マサル」

 

 扉の向こうで、マサルは黙っていた。

 

 帰らなかった。

 

 何も急かさなかった。

 

 ただ、そこにいた。

 

 それが分かった瞬間、ホップはもう耐えられなかった。

 

 膝をほどいて、立ち上がる。

 

 足が震えていた。視界が涙で滲んでいた。扉までの距離はすぐそこなのに、やけに遠く感じた。

 

 ノブに手をかける。

 

 一瞬、怖くなった。

 

 扉を開けたら、マサルに見られる。

 

 今の自分を。

 

 鏡の中にいた、知らない女の子を。

 

 でも、扉の向こうにはマサルがいる。

 

 ホップをホップだと言ったマサルがいる。

 

 ホップは扉を開けた。

 

 廊下に、マサルが立っていた。

 

 目が合った。

 

 マサルは一瞬だけ目を見開いた。

 

 それだけだった。

 

 すぐに、いつものようにホップを見た。

 

 ホップはその顔を見た瞬間、もう何も考えられなくなった。

 

 廊下へ一歩出て、そのままマサルに抱きついた。

 

 昨日までなら、何でもない距離だった。

 

 勝負に勝ってはしゃいだ時も、悔しくて肩をぶつけた時も、何度も近くにいた。マサルの肩に腕を回すくらい、何でもなかった。

 

 今は、何もかも違うはずだった。

 

 それでも、体が勝手に動いた。

 

 マサルの服を掴む。

 

 額を押しつける。

 

 声を殺せなかった。

 

「ごめん」

 

 また言った。

 

「ごめん、マサル」

 

 マサルは少しだけ動きを止めた。

 

 それから、ホップの背に手を回した。

 

 強くはなかった。

 

 逃げようと思えば逃げられるくらいの力だった。

 

 でも、ちゃんと受け止めていた。

 

「謝らなくていい」

 

「ごめん」

 

「いいよ」

 

「ジムチャレンジ、一緒に行けない」

 

「うん」

 

「マサルだけでも、行ってくれ」

 

「行かない」

 

 ホップは息を詰まらせた。

 

 顔を上げようとして、涙でうまく見えなかった。

 

「なんで」

 

「俺は、ホップと行くつもりだったんだよ」

 

 マサルの声は近かった。

 

「ホップが今年行かないなら、俺も今年は行かない」

 

「だめだ」

 

 ホップは首を振った。

 

「だめだよ。マサルは行けるだろ。オレと違って、行けるんだから。兄貴に挑めるんだから」

 

「一人で先に行く気はない」

 

「マサル」

 

「俺が今決めた」

 

 その言い方が、ずるかった。

 

 ホップがどれだけ駄目だと言っても、マサルはもう決めているのだと分かった。

 

 ホップはマサルの服を握ったまま、また泣いた。

 

「オレのせいで」

 

「違う」

 

「でも」

 

「違う」

 

 マサルは、そこだけははっきり否定した。

 

「俺は、ホップと行きたいんだよ」

 

 それ以上、ホップは言い返せなかった。

 

 嬉しかった。

 

 苦しかった。

 

 申し訳なかった。

 

 でも、置いていかれないのだと思った。

 

 マサルが、行ってしまわない。

 

 それだけで、胸の奥に溜まっていたものがまた崩れた。

 

 階下から、母の声がした。

 

「ホップ?」

 

 心配そうな声だった。

 

 ホップは返事をしようとした。

 

 でも、うまく声が出なかった。

 

 代わりに、マサルが少しだけ階段の方を見た。

 

「大丈夫です」

 

 短く、そう言った。

 

 その声を聞いて、ホップはまた泣きそうになった。

 

 何も大丈夫ではなかった。

 

 体は戻っていない。原因も分からない。ジムチャレンジにも行けない。明日からどうすればいいのかも分からない。

 

 それでも、マサルは帰らなかった。

 

 扉の向こうで名前を呼んでくれた。

 

 今のホップを見ても、知らない誰かを見る顔はしなかった。

 

 ホップは、マサルの服を握る手に力を込めた。

 

「……マサル」

 

「うん」

 

「オレ、ホップでいいのかな」

 

「いい」

 

 迷いのない返事だった。

 

 ホップは目を閉じた。

 

 まだ怖い。

 

 鏡を見るのも、外へ出るのも、自分の声を聞くのも怖い。

 

 でも、少なくとも今は。

 

 マサルの前でだけは、少しだけ息ができた。

 

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