扉の向こうは、静かだった。
ホップは膝を抱えたまま、息を殺していた。
言った。
言ってしまった。
数日前の朝、起きたら体が変わっていたこと。原因が分からないこと。戻る方法も分からないこと。今は顔を合わせたくないこと。今年のジムチャレンジには行けないこと。
そして、マサルには自分を気にせず、ジムチャレンジに行ってほしいこと。
言わなければいけないと思った。
親友だったから。
何も言わないまま消えるようなことは、したくなかったから。
けれど、言い終わった今、ホップは怖くて仕方なかった。
扉の向こうで、マサルが黙っている。
その沈黙が、どんな顔をしているのか分からない。
困っているのかもしれない。
驚いているのかもしれない。
何を言えばいいか分からなくなっているのかもしれない。
そう考えるだけで、胸の奥が冷たくなった。
「……マサル」
呼んでから、後悔した。
返事がなかったらどうしようと思った。
けれど、扉の向こうから、ちゃんと声が返ってきた。
「いるよ」
短い声だった。
それだけで、ホップは息を吸えた。
マサルは扉を開けなかった。
ノブが回る音もしない。無理に入ってくる気配もない。ただ、扉一枚を挟んだ向こう側にいる。
ホップが顔を合わせたくないと言ったから。
だから、開けない。
それが分かって、ホップは唇を噛んだ。
こんな時まで、マサルはマサルだった。
「……ごめん」
また、その言葉が出た。
「オレ、急にこんなこと言って。何日も返事しなくて。勝手にジムチャレンジ行けないとか言って。マサルにまで、変なこと――」
「ホップ」
名前を呼ばれて、言葉が止まった。
扉越しでも、マサルの声ははっきり聞こえた。
「ホップはホップだよ」
ホップは息を止めた。
マサルは続けた。
「どんな姿になっても、俺の親友のホップだよ」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
落ちて、そこで止まった。
ばらばらになりかけていたものを、名前で留めるみたいに。
ホップは、何も言えなかった。
鏡の中の知らない女の子。自分のものではないみたいな声。細くなった手。違う体。病院の椅子。分からないと繰り返す医者の声。心配そうな母の顔。兄の優しい声。玄関先で見えたマサルの姿。
全部が頭の中でぐちゃぐちゃになっていた。
自分が自分ではない何かになってしまった気がしていた。
もう、ホップではないのかもしれないと思っていた。
けれど、マサルは言った。
ホップはホップだと。
どんな姿になっても、俺の親友のホップだと。
「……なんで」
声が震えた。
「なんで、そんなこと言えるんだよ」
「ホップだから」
マサルはすぐに答えた。
迷ったようには聞こえなかった。
「声が違っても、今ここで俺にちゃんと話してるのはホップだ」
ホップは俯いた。
「違うかもしれないだろ」
「違わない」
「顔も、体も、声も、全部違うんだ」
「でも、ホップだよ」
短い言葉だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
ホップの中で、何かが切れた。
涙がこぼれた。
最初は一粒だった。すぐに止まると思った。止めなければと思った。扉の向こうにマサルがいる。母も、階下にいるかもしれない。ダンデにだって聞こえるかもしれない。
でも、止まらなかった。
嗚咽が漏れた。
ホップは慌てて口元を押さえた。けれど、涙も声も、指の隙間からこぼれていった。
「ごめん」
また言った。
「ごめん、マサル」
「謝らなくていい」
「ごめん」
「ホップ」
「ごめん、オレ、分かんないんだ」
声が崩れた。
「何に謝ってるのかも、分かんない。でも、ごめん。ごめん、マサル」
扉の向こうで、マサルは黙っていた。
帰らなかった。
何も急かさなかった。
ただ、そこにいた。
それが分かった瞬間、ホップはもう耐えられなかった。
膝をほどいて、立ち上がる。
足が震えていた。視界が涙で滲んでいた。扉までの距離はすぐそこなのに、やけに遠く感じた。
ノブに手をかける。
一瞬、怖くなった。
扉を開けたら、マサルに見られる。
今の自分を。
鏡の中にいた、知らない女の子を。
でも、扉の向こうにはマサルがいる。
ホップをホップだと言ったマサルがいる。
ホップは扉を開けた。
廊下に、マサルが立っていた。
目が合った。
マサルは一瞬だけ目を見開いた。
それだけだった。
すぐに、いつものようにホップを見た。
ホップはその顔を見た瞬間、もう何も考えられなくなった。
廊下へ一歩出て、そのままマサルに抱きついた。
昨日までなら、何でもない距離だった。
勝負に勝ってはしゃいだ時も、悔しくて肩をぶつけた時も、何度も近くにいた。マサルの肩に腕を回すくらい、何でもなかった。
今は、何もかも違うはずだった。
それでも、体が勝手に動いた。
マサルの服を掴む。
額を押しつける。
声を殺せなかった。
「ごめん」
また言った。
「ごめん、マサル」
マサルは少しだけ動きを止めた。
それから、ホップの背に手を回した。
強くはなかった。
逃げようと思えば逃げられるくらいの力だった。
でも、ちゃんと受け止めていた。
「謝らなくていい」
「ごめん」
「いいよ」
「ジムチャレンジ、一緒に行けない」
「うん」
「マサルだけでも、行ってくれ」
「行かない」
ホップは息を詰まらせた。
顔を上げようとして、涙でうまく見えなかった。
「なんで」
「俺は、ホップと行くつもりだったんだよ」
マサルの声は近かった。
「ホップが今年行かないなら、俺も今年は行かない」
「だめだ」
ホップは首を振った。
「だめだよ。マサルは行けるだろ。オレと違って、行けるんだから。兄貴に挑めるんだから」
「一人で先に行く気はない」
「マサル」
「俺が今決めた」
その言い方が、ずるかった。
ホップがどれだけ駄目だと言っても、マサルはもう決めているのだと分かった。
ホップはマサルの服を握ったまま、また泣いた。
「オレのせいで」
「違う」
「でも」
「違う」
マサルは、そこだけははっきり否定した。
「俺は、ホップと行きたいんだよ」
それ以上、ホップは言い返せなかった。
嬉しかった。
苦しかった。
申し訳なかった。
でも、置いていかれないのだと思った。
マサルが、行ってしまわない。
それだけで、胸の奥に溜まっていたものがまた崩れた。
階下から、母の声がした。
「ホップ?」
心配そうな声だった。
ホップは返事をしようとした。
でも、うまく声が出なかった。
代わりに、マサルが少しだけ階段の方を見た。
「大丈夫です」
短く、そう言った。
その声を聞いて、ホップはまた泣きそうになった。
何も大丈夫ではなかった。
体は戻っていない。原因も分からない。ジムチャレンジにも行けない。明日からどうすればいいのかも分からない。
それでも、マサルは帰らなかった。
扉の向こうで名前を呼んでくれた。
今のホップを見ても、知らない誰かを見る顔はしなかった。
ホップは、マサルの服を握る手に力を込めた。
「……マサル」
「うん」
「オレ、ホップでいいのかな」
「いい」
迷いのない返事だった。
ホップは目を閉じた。
まだ怖い。
鏡を見るのも、外へ出るのも、自分の声を聞くのも怖い。
でも、少なくとも今は。
マサルの前でだけは、少しだけ息ができた。