私は親友のままでいたくない   作:さぶろー

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第4話 今年は行かない

 翌日の午後、ホップはスマホロトムを手にしたまま、しばらく画面を見つめていた。

 

 部屋の外は静かだった。

 

 母は下にいる。ダンデも来ている。昨日、ホップがマサルに抱きついて泣いた後、母は何も急かさなかった。ダンデも無理に話を聞こうとはしなかった。

 

 ただ、今年のジムチャレンジのことだけは、いつまでも曖昧にはできなかった。

 

 出発の日が近い。

 

 必要な手続きもある。

 

 ダンデはチャンピオンで、兄で、そしてホップとマサルを推薦するはずだった人だった。

 

 だから、ちゃんと伝えなければいけない。

 

 ホップはスマホロトムを握り直した。

 

 マサルへのメッセージ欄を開く。

 

 昨日のやり取りが残っていた。くだらない話も、心配する言葉も、その下に続いた短い言葉も。

 

 ホップは少しだけ息を吸って、文字を打った。

 

『兄貴に、今年はジムチャレンジ行かないって今日伝える』

 

 送信する。

 

 すぐに既読がついた。

 

 少しして、返事が来た。

 

『頑張れよ』

 

 それだけだった。

 

 ホップは画面を見つめた。

 

 短い。

 

 いつも通りに短い。

 

 大丈夫か、と長く心配するわけでもない。無理するなと止めるわけでもない。何か気の利いた言葉を並べるわけでもない。

 

 頑張れよ。

 

 それだけ。

 

 その短さに、ホップは少しだけ息を吐いた。

 

 いつものマサルだった。

 

 変わったのは自分だけではないかと、まだ思ってしまう。声も、体も、鏡に映る顔も、何もかも知らないものみたいで、どうしてこんなことになったのかと考えずにはいられない。

 

 それでも、マサルは昨日と同じようにそこにいた。

 

 扉を勝手に開けなかった。

 

 ホップをホップだと言った。

 

 どんな姿になっても、俺の親友のホップだと言った。

 

 ホップはスマホロトムを机に置いた。

 

 立ち上がる。

 

 足は少し震えていた。

 

 部屋を出る前に、鏡が目に入った。ホップはすぐに視線を逸らした。まだ、見られない。見てしまえば、胸の奥が冷たくなる。そこにいるのが自分だと、すぐには思えない。

 

 それでも、扉を開けた。

 

 階段を降りる。

 

 一段降りるたびに、胸の中で何かが重くなった。下から母の声が少し聞こえる。ダンデの声もした。

 

 リビングに入ると、母がこちらを見た。

 

「ホップ」

 

 名前を呼ばれる。

 

 ホップは小さく頷いた。

 

 ダンデも立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。急に近づかないようにしたのだと分かった。

 

 それだけで、少し苦しかった。

 

 気を遣わせている。

 

 そう思う。

 

 でも、今はその気遣いがないと、ここに立っていられない。

 

「座る?」

 

 母に聞かれて、ホップは頷いた。

 

 テーブルの向かいに母がいて、斜め前にダンデがいた。いつものリビングなのに、病院の診察室よりも緊張した。

 

 ダンデはしばらく黙っていた。

 

 先に話すのを待ってくれているのだと分かった。

 

 ホップは膝の上で手を握った。

 

「兄貴」

 

「ああ」

 

 ダンデが短く返事をする。

 

 ホップは喉を鳴らした。

 

 声を出すのが、まだ怖い。

 

 それでも、言わなければいけない。

 

「今年は、ジムチャレンジ行かない」

 

 リビングが静かになった。

 

 言葉にしても、昨日ほど胸に突き刺さる感じはなかった。

 

 それは諦めたからではない。

 

 マサルが、置いていかないと言ってくれたからだった。

 

 ホップは続けた。

 

「マサルにも話した。マサルも、今年は行かないって」

 

 母が小さく息を呑んだ。

 

 ダンデは目を伏せる。

 

「そうか」

 

 声は静かだった。

 

 ホップは顔を上げられなかった。

 

「ごめん、兄貴」

 

「謝らなくていい」

 

 ダンデはすぐに言った。

 

 その返事があまりに早くて、ホップは少しだけ目を見開いた。

 

 ダンデは真っ直ぐこちらを見ていた。

 

「お前が謝ることじゃない」

 

「でも、兄貴、推薦してくれるつもりだっただろ。マサルのことも、オレのことも」

 

「ああ」

 

 ダンデは頷いた。

 

「楽しみにしていた」

 

 その言葉に、胸が痛んだ。

 

 責められたわけではない。

 

 けれど、楽しみにしてくれていたのだと改めて分かって、苦しくなった。

 

「でもな、ホップ」

 

 ダンデの声が少し柔らかくなる。

 

「オレが楽しみにしていたからといって、お前が無理に出る必要はない」

 

 ホップは唇を噛んだ。

 

「まだ、正直この体のこと受け入れられてない」

 

 言葉が出た。

 

 思っていたよりも、はっきり出た。

 

「鏡を見る度に、やっぱり辛い。声も、手も、体も、全部違う。なんでこんなことにって、思わずにいられない」

 

 母が何かを言いかけて、飲み込んだ。

 

 ダンデも黙って聞いていた。

 

「でも、マサルが言ってくれた」

 

 ホップは膝の上の手を見た。

 

 まだ自分の手だと思いきれない手。

 

 それでも、昨日その手で扉を開けた。

 

「どんな姿になっても、オレのことを親友のホップだって言ってくれた。だから、オレはオレなんだって、少し思えた」

 

 声が震えた。

 

 それでも止めなかった。

 

「でも、まだ旅には出られない。外に出るのも怖い。ジムチャレンジなんて、今のオレには無理だと思う」

 

 そこで一度、息を吸った。

 

「だから、今年は行かない」

 

 今度は、先ほどより少しだけ強く言えた。

 

「でも、ジムチャレンジをやめるわけじゃない。兄貴に挑むのを、やめるわけじゃない。今は行かないだけだ」

 

 ダンデは何も言わなかった。

 

 ただ、真剣な顔で聞いていた。

 

 ホップは続ける。

 

「マサルも、今年は行かないって言ってくれた。俺はホップと行くつもりだったって」

 

 マサルの言葉を口にすると、また胸の奥が熱くなった。

 

「オレは、それを受け取ることにした」

 

 母が目を伏せた。

 

 泣きそうな顔をしていた。

 

 ホップは少しだけ慌てたが、母は涙をこぼさなかった。ただ、静かに頷いた。

 

「分かったわ」

 

 母の声は少し震えていた。

 

「今年は、行かないのね」

 

「うん」

 

「分かった」

 

 それ以上、母は何も言わなかった。

 

 止めなかった。

 

 急かさなかった。

 

 ただ、受け止めてくれた。

 

 ダンデがゆっくり息を吐いた。

 

「ホップ」

 

「うん」

 

「分かった。今年は待つ」

 

 その言葉に、ホップは顔を上げた。

 

 ダンデは笑っていなかった。

 

 けれど、その目は逃げていなかった。

 

「来年でも、その先でもいい。お前たちが挑みに来るなら、オレはチャンピオンとして待っている」

 

 ホップは喉の奥が詰まった。

 

「兄貴」

 

「ただし、待つと言ったからには、オレも負けるつもりはない」

 

 ほんの少しだけ、ダンデの声にいつもの強さが戻った。

 

「お前たちが来る時、オレは今よりもっと強いチャンピオンでいる」

 

 その言葉に、ホップは少しだけ笑いそうになった。

 

 うまく笑えたかは分からない。

 

 けれど、胸の奥に、ほんの少しだけ熱が戻った気がした。

 

「じゃあ、オレも強くなる」

 

 言ってから、少し驚いた。

 

 そんなことを言えると思っていなかった。

 

 今はまだ、ボールを握る手すら自分のものだと思えない。外へ出るのも怖い。鏡も見られない。声を聞くだけで胸が冷える。

 

 それでも、言えた。

 

 強くなる。

 

 いつか、挑むために。

 

 ダンデは頷いた。

 

「ああ。待っている」

 

 話し合いは、それで終わった。

 

 何かが解決したわけではなかった。

 

 体は戻っていない。原因も分からない。明日から何をすればいいのかも、まだはっきりしていない。

 

 けれど、今年は行かないと伝えた。

 

 母は受け止めてくれた。

 

 ダンデは待つと言ってくれた。

 

 マサルは、頑張れよと送ってくれた。

 

 ホップはリビングを出て、階段の前でスマホロトムを見た。

 

 マサルとのメッセージ欄を開く。

 

 しばらく迷ってから、短く返した。

 

『言えた』

 

 すぐに既読がついた。

 

『よかった』

 

 また短い返事だった。

 

 ホップは画面を見て、今度こそ少しだけ笑った。

 

 まだ怖い。

 

 何もかも怖い。

 

 でも、その短い返事を見ている間だけは、ほんの少しだけ息がしやすかった。

 

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