翌日の午後、ホップはスマホロトムを手にしたまま、しばらく画面を見つめていた。
部屋の外は静かだった。
母は下にいる。ダンデも来ている。昨日、ホップがマサルに抱きついて泣いた後、母は何も急かさなかった。ダンデも無理に話を聞こうとはしなかった。
ただ、今年のジムチャレンジのことだけは、いつまでも曖昧にはできなかった。
出発の日が近い。
必要な手続きもある。
ダンデはチャンピオンで、兄で、そしてホップとマサルを推薦するはずだった人だった。
だから、ちゃんと伝えなければいけない。
ホップはスマホロトムを握り直した。
マサルへのメッセージ欄を開く。
昨日のやり取りが残っていた。くだらない話も、心配する言葉も、その下に続いた短い言葉も。
ホップは少しだけ息を吸って、文字を打った。
『兄貴に、今年はジムチャレンジ行かないって今日伝える』
送信する。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が来た。
『頑張れよ』
それだけだった。
ホップは画面を見つめた。
短い。
いつも通りに短い。
大丈夫か、と長く心配するわけでもない。無理するなと止めるわけでもない。何か気の利いた言葉を並べるわけでもない。
頑張れよ。
それだけ。
その短さに、ホップは少しだけ息を吐いた。
いつものマサルだった。
変わったのは自分だけではないかと、まだ思ってしまう。声も、体も、鏡に映る顔も、何もかも知らないものみたいで、どうしてこんなことになったのかと考えずにはいられない。
それでも、マサルは昨日と同じようにそこにいた。
扉を勝手に開けなかった。
ホップをホップだと言った。
どんな姿になっても、俺の親友のホップだと言った。
ホップはスマホロトムを机に置いた。
立ち上がる。
足は少し震えていた。
部屋を出る前に、鏡が目に入った。ホップはすぐに視線を逸らした。まだ、見られない。見てしまえば、胸の奥が冷たくなる。そこにいるのが自分だと、すぐには思えない。
それでも、扉を開けた。
階段を降りる。
一段降りるたびに、胸の中で何かが重くなった。下から母の声が少し聞こえる。ダンデの声もした。
リビングに入ると、母がこちらを見た。
「ホップ」
名前を呼ばれる。
ホップは小さく頷いた。
ダンデも立ち上がりかけたが、すぐに座り直した。急に近づかないようにしたのだと分かった。
それだけで、少し苦しかった。
気を遣わせている。
そう思う。
でも、今はその気遣いがないと、ここに立っていられない。
「座る?」
母に聞かれて、ホップは頷いた。
テーブルの向かいに母がいて、斜め前にダンデがいた。いつものリビングなのに、病院の診察室よりも緊張した。
ダンデはしばらく黙っていた。
先に話すのを待ってくれているのだと分かった。
ホップは膝の上で手を握った。
「兄貴」
「ああ」
ダンデが短く返事をする。
ホップは喉を鳴らした。
声を出すのが、まだ怖い。
それでも、言わなければいけない。
「今年は、ジムチャレンジ行かない」
リビングが静かになった。
言葉にしても、昨日ほど胸に突き刺さる感じはなかった。
それは諦めたからではない。
マサルが、置いていかないと言ってくれたからだった。
ホップは続けた。
「マサルにも話した。マサルも、今年は行かないって」
母が小さく息を呑んだ。
ダンデは目を伏せる。
「そうか」
声は静かだった。
ホップは顔を上げられなかった。
「ごめん、兄貴」
「謝らなくていい」
ダンデはすぐに言った。
その返事があまりに早くて、ホップは少しだけ目を見開いた。
ダンデは真っ直ぐこちらを見ていた。
「お前が謝ることじゃない」
「でも、兄貴、推薦してくれるつもりだっただろ。マサルのことも、オレのことも」
「ああ」
ダンデは頷いた。
「楽しみにしていた」
その言葉に、胸が痛んだ。
責められたわけではない。
けれど、楽しみにしてくれていたのだと改めて分かって、苦しくなった。
「でもな、ホップ」
ダンデの声が少し柔らかくなる。
「オレが楽しみにしていたからといって、お前が無理に出る必要はない」
ホップは唇を噛んだ。
「まだ、正直この体のこと受け入れられてない」
言葉が出た。
思っていたよりも、はっきり出た。
「鏡を見る度に、やっぱり辛い。声も、手も、体も、全部違う。なんでこんなことにって、思わずにいられない」
母が何かを言いかけて、飲み込んだ。
ダンデも黙って聞いていた。
「でも、マサルが言ってくれた」
ホップは膝の上の手を見た。
まだ自分の手だと思いきれない手。
それでも、昨日その手で扉を開けた。
「どんな姿になっても、オレのことを親友のホップだって言ってくれた。だから、オレはオレなんだって、少し思えた」
声が震えた。
それでも止めなかった。
「でも、まだ旅には出られない。外に出るのも怖い。ジムチャレンジなんて、今のオレには無理だと思う」
そこで一度、息を吸った。
「だから、今年は行かない」
今度は、先ほどより少しだけ強く言えた。
「でも、ジムチャレンジをやめるわけじゃない。兄貴に挑むのを、やめるわけじゃない。今は行かないだけだ」
ダンデは何も言わなかった。
ただ、真剣な顔で聞いていた。
ホップは続ける。
「マサルも、今年は行かないって言ってくれた。俺はホップと行くつもりだったって」
マサルの言葉を口にすると、また胸の奥が熱くなった。
「オレは、それを受け取ることにした」
母が目を伏せた。
泣きそうな顔をしていた。
ホップは少しだけ慌てたが、母は涙をこぼさなかった。ただ、静かに頷いた。
「分かったわ」
母の声は少し震えていた。
「今年は、行かないのね」
「うん」
「分かった」
それ以上、母は何も言わなかった。
止めなかった。
急かさなかった。
ただ、受け止めてくれた。
ダンデがゆっくり息を吐いた。
「ホップ」
「うん」
「分かった。今年は待つ」
その言葉に、ホップは顔を上げた。
ダンデは笑っていなかった。
けれど、その目は逃げていなかった。
「来年でも、その先でもいい。お前たちが挑みに来るなら、オレはチャンピオンとして待っている」
ホップは喉の奥が詰まった。
「兄貴」
「ただし、待つと言ったからには、オレも負けるつもりはない」
ほんの少しだけ、ダンデの声にいつもの強さが戻った。
「お前たちが来る時、オレは今よりもっと強いチャンピオンでいる」
その言葉に、ホップは少しだけ笑いそうになった。
うまく笑えたかは分からない。
けれど、胸の奥に、ほんの少しだけ熱が戻った気がした。
「じゃあ、オレも強くなる」
言ってから、少し驚いた。
そんなことを言えると思っていなかった。
今はまだ、ボールを握る手すら自分のものだと思えない。外へ出るのも怖い。鏡も見られない。声を聞くだけで胸が冷える。
それでも、言えた。
強くなる。
いつか、挑むために。
ダンデは頷いた。
「ああ。待っている」
話し合いは、それで終わった。
何かが解決したわけではなかった。
体は戻っていない。原因も分からない。明日から何をすればいいのかも、まだはっきりしていない。
けれど、今年は行かないと伝えた。
母は受け止めてくれた。
ダンデは待つと言ってくれた。
マサルは、頑張れよと送ってくれた。
ホップはリビングを出て、階段の前でスマホロトムを見た。
マサルとのメッセージ欄を開く。
しばらく迷ってから、短く返した。
『言えた』
すぐに既読がついた。
『よかった』
また短い返事だった。
ホップは画面を見て、今度こそ少しだけ笑った。
まだ怖い。
何もかも怖い。
でも、その短い返事を見ている間だけは、ほんの少しだけ息がしやすかった。