私は親友のままでいたくない   作:さぶろー

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第5話 二年

 最初の数日は、部屋の外へ出るだけで疲れた。

 

 階段を降りる。リビングに行く。母と話す。食事をする。

 

 それだけのことに、息が詰まった。

 

 体は健康だった。

 

 病院でそう言われた通り、歩ける。食べられる。眠れる。痛みもない。ポケモンのボールを握ることもできる。

 

 けれど、鏡を見ることは、まだできなかった。

 

 朝起きて、洗面所へ行く。顔を洗おうとして、鏡に映った自分が目に入る。そのたびに、胸の奥が冷たくなった。

 

 知らない女の子が、こちらを見ている。

 

 目元に少しだけ自分の面影があって、それが余計につらかった。

 

 全くの別人なら、まだよかったのかもしれない。

 

 ホップは何度も、そう思った。

 

 知らない誰かなら、自分ではないと言えた。けれど鏡の中の顔には、確かにホップだった頃の形が残っている。だからこそ、逃げられなかった。

 

 自分ではないと言い切ることもできない。

 

 自分だと受け入れることもできない。

 

 その半端な苦しさの中で、日々が過ぎていった。

 

 マサルからは、毎日ではないが、何かしらのメッセージが来た。

 

『今日ウールーが道の真ん中で寝てた』

 

『どかそうとしたら俺も寝そうになった』

 

『あれは罠だ』

 

 くだらない話だった。

 

 返事をしなくても、次の日にはまた別のくだらない話が来た。

 

『バイウールーの毛、まだちょっと顔につく』

 

『でも慣れてきた』

 

『慣れるなよって言われそうだから先に言っとく。慣れるなよ』

 

 ホップは画面を見て、少しだけ笑った。

 

 笑ったあとで、泣きそうになった。

 

 あの日、自分が見られたくないと言った扉の向こうで、マサルは言った。

 

 ホップはホップだよ。

 

 どんな姿になっても、俺の親友のホップだよ。

 

 その言葉は、毎日効く魔法ではなかった。

 

 鏡を見れば苦しい。声を聞けば胸が冷える。外に出れば、人の視線が怖くなる。

 

 それでも、完全に崩れそうになるたびに、その言葉がどこかで引っかかった。

 

 ホップはホップ。

 

 どんな姿になっても。

 

 俺の親友のホップ。

 

 何度も思い出すうちに、その言葉は少しずつ、胸の奥に沈んでいった。

 

 しばらくして、ダンデから聞かされたことがあった。

 

 ダンデは念のため、マサルにも確認したらしい。

 

 本当に、今年のジムチャレンジには出ないのか。

 

 推薦状は出せる。マサルだけでも行くことはできる。出発を遅らせる必要はない。

 

 そう伝えたのだという。

 

 ホップは、聞いた瞬間、息を詰めた。

 

 自分がいない場所で、マサルは何と答えたのか。

 

 少しだけ怖かった。

 

 けれどダンデは、静かに言った。

 

「マサルは、当然みたいに断ったよ」

 

「……なんて?」

 

「ホップと行くので、今年は出ません。そう言っていた」

 

 ホップはしばらく何も言えなかった。

 

 マサルは、ホップの前だから言ったわけではなかった。

 

 泣いているホップを安心させるためだけに、勢いで言ったわけでもなかった。

 

 ホップがいない場所でも、同じように決めていた。

 

 それを知った時、胸の奥が苦しくなった。

 

 嬉しかった。

 

 申し訳なかった。

 

 でも、その申し訳なさを理由に、もう「行け」とは言わないと決めていた。

 

 マサルの言葉を受け取ると、自分で言ったからだ。

 

 だからホップは、ただ小さく頷いた。

 

「……そう」

 

 それしか言えなかった。

 

 ダンデは何も足さなかった。

 

 その夜、ホップはマサルにメッセージを送った。

 

『兄貴から聞いた』

 

 少しして、返事が来た。

 

『何を?』

 

『ジムチャレンジのこと』

 

『ああ』

 

 そこで一度、ホップは指を止めた。

 

 何と返せばいいのか分からなかった。

 

 ありがとうと言うのは違う気がした。ごめんと言うのも、もう違う気がした。マサルはきっと、どちらも求めていない。

 

 迷っていると、先にマサルから次のメッセージが来た。

 

『いつでも行けるしな』

 

 ホップは画面を見つめた。

 

 今年ではなく、来年。

 

 一人ではなく、二人で。

 

 その短い言葉が、ひどく眩しかった。

 

『うん』

 

 そう返すまでに、少し時間がかかった。

 

 けれど、送信した後、ホップはスマホロトムを胸元に寄せた。

 

 次の日から急に外へ出られるようになったわけではない。

 

 初めて玄関の外に出た時は、数分で戻った。

 

 風が頬に当たっただけで、怖かった。誰かに見られている気がした。誰も何も言っていないのに、町の全部が自分を見ているように思えた。

 

 母は何も言わなかった。

 

 マサルも急かさなかった。

 

 ただ、少し離れたところで待っていた。

 

「戻る?」

 

 そう聞かれて、ホップは頷いた。

 

 マサルはそれ以上何も言わず、家まで一緒に戻った。

 

 次は、家の前の道まで出た。

 

 その次は、少しだけ歩いた。

 

 ハロンタウンの風景は、何も変わっていなかった。草原も、道も、家も、遠くに見えるまどろみの森も、全部そのままだった。

 

 変わったのは自分だけ。

 

 そう思うたびに、足が止まりそうになった。

 

 けれど隣にマサルがいると、少しだけ歩けた。

 

 話す内容は、だいたいくだらなかった。

 

「またバイウールーに顔埋めたのか」

 

「今回は向こうから来た」

 

「言い訳だろ」

 

「でも気持ちいいんだよ」

 

「知らないよ」

 

 言ってから、ホップは少し驚いた。

 

 外で、普通に返事ができた。

 

 声はまだ違和感がある。自分のものだとは思いきれない。それでも、マサルと話している間は、少しだけ気にならなかった。

 

 最初は、マサルが隣にいると歩けた。

 

 そのうち、マサルが隣にいることが当たり前になった。

 

 今日は来るだろうかと考える。スマホロトムの通知を見る。玄関の外に立つ足音を聞いて、少しだけ息がしやすくなる。

 

 それが親友だからなのか、別の何かなのか、ホップにはまだ分からなかった。

 

 分からなかったけれど、マサルが来ない日は、少しだけ一日が長かった。

 

 服のことも、少しずつ変わっていった。

 

 最初は、母が用意してくれたものを着た。

 

 何が合っているのか分からなかった。何を選べばいいのかも分からなかった。女物の服を前にすると、自分が本当に別の何かになってしまったようで、手が止まった。

 

 けれど、いつまでも母に任せたままではいられなかった。

 

 ある日、ホップは自分で服を選んだ。

 

 特別なものではない。動きやすい普段着だった。けれど、前と同じ服ではなかった。今の体に合うものだった。

 

 鏡の前には立てなかった。

 

 だから、マサルに聞いた。

 

「変じゃないか」

 

 マサルは少しだけ見て、すぐに答えた。

 

「変じゃない」

 

「本当か」

 

「本当だよ」

 

 ホップは俯いた。

 

 その返事が、やけにまっすぐだった。

 

「……似合ってるか」

 

「似合ってる」

 

 それだけだった。

 

 余計なことは言わなかった。

 

 茶化さなかった。

 

 昔のホップならどうだったかとも言わなかった。

 

 ただ、今のホップを見て、聞かれたことに答えた。

 

 それが、少しだけ嬉しかった。

 

 一人称も、少しずつ変わった。

 

 最初はずっと、オレだった。

 

 それしか言えなかった。

 

 そう言っていないと、自分がどこかへ行ってしまう気がした。

 

 けれど、外で誰かと話す時、その言葉が喉に引っかかることが増えた。

 

 別に、誰かに言われたわけではない。

 

 母も、ダンデも、マサルも、変えろとは言わなかった。

 

 それでも、ホップ自身が思った。

 

 今の自分で生きていくなら、言葉も選び直していいのかもしれない。

 

 最初に「私」と言った時は、ひどくぎこちなかった。

 

「私、今日は――」

 

 そこまで言って、止まった。

 

 母が何も言わずに待ってくれた。

 

 ホップはもう一度、言った。

 

「私、今日は少し外に出る」

 

 それだけのことなのに、喉が熱くなった。

 

 マサルの前では、しばらくオレのままだった。

 

 マサルの前だけは、昔の言葉を使ってもいい気がした。そうでなければ、親友だった時間までなくなってしまう気がした。

 

 けれど、それも少しずつ変わった。

 

 ある日、散歩の帰りに、ホップは何気なく言った。

 

「私、明日はもう少し遠くまで行ってみる」

 

 言ってから、自分で気づいた。

 

 マサルも気づいたかもしれない。

 

 でも、何も言わなかった。

 

 ただ、

 

「分かった」

 

 とだけ返した。

 

 それでよかった。

 

 髪も伸びた。

 

 最初は切る気力がなかっただけだった。鏡を見られないから、整えることもできなかった。母が最低限整えてくれていた。

 

 けれど、伸びていく髪を何度も見ているうちに、ホップはある日、思った。

 

 切らないのではなく、伸ばすことにしよう。

 

 そう決めてから、髪は少しだけ違うものになった。

 

 勝手に伸びていくものではなく、自分で選んで伸ばすものになった。

 

 女になったことを、すべて受け入れたわけではない。

 

 今でも、鏡を見ると苦しい日がある。

 

 声が嫌になる日もある。

 

 なんで自分だけが、と思う夜もある。

 

 それでも、毎日は進んだ。

 

 マサルは来た。

 

 くだらないメッセージも来た。

 

 母は待ってくれた。

 

 ダンデは、挑みに来る日を待っていると言った。

 

 少しずつ、ホップは外を歩けるようになった。

 

 少しずつ、知らない顔だったものを、自分の顔として見られる日が増えた。

 

 少しずつ、女になった自分で呼吸する時間が増えていった。

 

 完全に平気になったわけではない。

 

 それでも、二年が経った。

 

 二年の間に、マサルが隣にいることは、ホップの中で当たり前になっていた。

 

 だから、ジムチャレンジのことを考える時、最初に思い浮かぶのもマサルだった。

 

 一緒に行く。

 

 その言葉が、昔より少しだけ違う響きに聞こえた。

 

 その違いを考えようとして、胸の奥に何かが浮かびかける。

 

 けれど、ホップはすぐに首を振った。

 

 いや、まさか。

 

 私は、マサルの親友だから。

 

 そう思うことにした。

 

 さらに時間が経った。

 

 鏡の中にいるのは、もう知らない誰かではなかった。

 

 長く伸ばした髪も、選び直した言葉も、今の声も、全部ホップのものだった。

 

 今でも、ふとした時に胸が痛むことはある。

 

 それでも、今の自分から目を逸らすことはなくなった。

 

 ホップは、今の自分で生きていく。

 

 そう思えるまでに、二年かかった。

 

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