最初の数日は、部屋の外へ出るだけで疲れた。
階段を降りる。リビングに行く。母と話す。食事をする。
それだけのことに、息が詰まった。
体は健康だった。
病院でそう言われた通り、歩ける。食べられる。眠れる。痛みもない。ポケモンのボールを握ることもできる。
けれど、鏡を見ることは、まだできなかった。
朝起きて、洗面所へ行く。顔を洗おうとして、鏡に映った自分が目に入る。そのたびに、胸の奥が冷たくなった。
知らない女の子が、こちらを見ている。
目元に少しだけ自分の面影があって、それが余計につらかった。
全くの別人なら、まだよかったのかもしれない。
ホップは何度も、そう思った。
知らない誰かなら、自分ではないと言えた。けれど鏡の中の顔には、確かにホップだった頃の形が残っている。だからこそ、逃げられなかった。
自分ではないと言い切ることもできない。
自分だと受け入れることもできない。
その半端な苦しさの中で、日々が過ぎていった。
マサルからは、毎日ではないが、何かしらのメッセージが来た。
『今日ウールーが道の真ん中で寝てた』
『どかそうとしたら俺も寝そうになった』
『あれは罠だ』
くだらない話だった。
返事をしなくても、次の日にはまた別のくだらない話が来た。
『バイウールーの毛、まだちょっと顔につく』
『でも慣れてきた』
『慣れるなよって言われそうだから先に言っとく。慣れるなよ』
ホップは画面を見て、少しだけ笑った。
笑ったあとで、泣きそうになった。
あの日、自分が見られたくないと言った扉の向こうで、マサルは言った。
ホップはホップだよ。
どんな姿になっても、俺の親友のホップだよ。
その言葉は、毎日効く魔法ではなかった。
鏡を見れば苦しい。声を聞けば胸が冷える。外に出れば、人の視線が怖くなる。
それでも、完全に崩れそうになるたびに、その言葉がどこかで引っかかった。
ホップはホップ。
どんな姿になっても。
俺の親友のホップ。
何度も思い出すうちに、その言葉は少しずつ、胸の奥に沈んでいった。
しばらくして、ダンデから聞かされたことがあった。
ダンデは念のため、マサルにも確認したらしい。
本当に、今年のジムチャレンジには出ないのか。
推薦状は出せる。マサルだけでも行くことはできる。出発を遅らせる必要はない。
そう伝えたのだという。
ホップは、聞いた瞬間、息を詰めた。
自分がいない場所で、マサルは何と答えたのか。
少しだけ怖かった。
けれどダンデは、静かに言った。
「マサルは、当然みたいに断ったよ」
「……なんて?」
「ホップと行くので、今年は出ません。そう言っていた」
ホップはしばらく何も言えなかった。
マサルは、ホップの前だから言ったわけではなかった。
泣いているホップを安心させるためだけに、勢いで言ったわけでもなかった。
ホップがいない場所でも、同じように決めていた。
それを知った時、胸の奥が苦しくなった。
嬉しかった。
申し訳なかった。
でも、その申し訳なさを理由に、もう「行け」とは言わないと決めていた。
マサルの言葉を受け取ると、自分で言ったからだ。
だからホップは、ただ小さく頷いた。
「……そう」
それしか言えなかった。
ダンデは何も足さなかった。
その夜、ホップはマサルにメッセージを送った。
『兄貴から聞いた』
少しして、返事が来た。
『何を?』
『ジムチャレンジのこと』
『ああ』
そこで一度、ホップは指を止めた。
何と返せばいいのか分からなかった。
ありがとうと言うのは違う気がした。ごめんと言うのも、もう違う気がした。マサルはきっと、どちらも求めていない。
迷っていると、先にマサルから次のメッセージが来た。
『いつでも行けるしな』
ホップは画面を見つめた。
今年ではなく、来年。
一人ではなく、二人で。
その短い言葉が、ひどく眩しかった。
『うん』
そう返すまでに、少し時間がかかった。
けれど、送信した後、ホップはスマホロトムを胸元に寄せた。
次の日から急に外へ出られるようになったわけではない。
初めて玄関の外に出た時は、数分で戻った。
風が頬に当たっただけで、怖かった。誰かに見られている気がした。誰も何も言っていないのに、町の全部が自分を見ているように思えた。
母は何も言わなかった。
マサルも急かさなかった。
ただ、少し離れたところで待っていた。
「戻る?」
そう聞かれて、ホップは頷いた。
マサルはそれ以上何も言わず、家まで一緒に戻った。
次は、家の前の道まで出た。
その次は、少しだけ歩いた。
ハロンタウンの風景は、何も変わっていなかった。草原も、道も、家も、遠くに見えるまどろみの森も、全部そのままだった。
変わったのは自分だけ。
そう思うたびに、足が止まりそうになった。
けれど隣にマサルがいると、少しだけ歩けた。
話す内容は、だいたいくだらなかった。
「またバイウールーに顔埋めたのか」
「今回は向こうから来た」
「言い訳だろ」
「でも気持ちいいんだよ」
「知らないよ」
言ってから、ホップは少し驚いた。
外で、普通に返事ができた。
声はまだ違和感がある。自分のものだとは思いきれない。それでも、マサルと話している間は、少しだけ気にならなかった。
最初は、マサルが隣にいると歩けた。
そのうち、マサルが隣にいることが当たり前になった。
今日は来るだろうかと考える。スマホロトムの通知を見る。玄関の外に立つ足音を聞いて、少しだけ息がしやすくなる。
それが親友だからなのか、別の何かなのか、ホップにはまだ分からなかった。
分からなかったけれど、マサルが来ない日は、少しだけ一日が長かった。
服のことも、少しずつ変わっていった。
最初は、母が用意してくれたものを着た。
何が合っているのか分からなかった。何を選べばいいのかも分からなかった。女物の服を前にすると、自分が本当に別の何かになってしまったようで、手が止まった。
けれど、いつまでも母に任せたままではいられなかった。
ある日、ホップは自分で服を選んだ。
特別なものではない。動きやすい普段着だった。けれど、前と同じ服ではなかった。今の体に合うものだった。
鏡の前には立てなかった。
だから、マサルに聞いた。
「変じゃないか」
マサルは少しだけ見て、すぐに答えた。
「変じゃない」
「本当か」
「本当だよ」
ホップは俯いた。
その返事が、やけにまっすぐだった。
「……似合ってるか」
「似合ってる」
それだけだった。
余計なことは言わなかった。
茶化さなかった。
昔のホップならどうだったかとも言わなかった。
ただ、今のホップを見て、聞かれたことに答えた。
それが、少しだけ嬉しかった。
一人称も、少しずつ変わった。
最初はずっと、オレだった。
それしか言えなかった。
そう言っていないと、自分がどこかへ行ってしまう気がした。
けれど、外で誰かと話す時、その言葉が喉に引っかかることが増えた。
別に、誰かに言われたわけではない。
母も、ダンデも、マサルも、変えろとは言わなかった。
それでも、ホップ自身が思った。
今の自分で生きていくなら、言葉も選び直していいのかもしれない。
最初に「私」と言った時は、ひどくぎこちなかった。
「私、今日は――」
そこまで言って、止まった。
母が何も言わずに待ってくれた。
ホップはもう一度、言った。
「私、今日は少し外に出る」
それだけのことなのに、喉が熱くなった。
マサルの前では、しばらくオレのままだった。
マサルの前だけは、昔の言葉を使ってもいい気がした。そうでなければ、親友だった時間までなくなってしまう気がした。
けれど、それも少しずつ変わった。
ある日、散歩の帰りに、ホップは何気なく言った。
「私、明日はもう少し遠くまで行ってみる」
言ってから、自分で気づいた。
マサルも気づいたかもしれない。
でも、何も言わなかった。
ただ、
「分かった」
とだけ返した。
それでよかった。
髪も伸びた。
最初は切る気力がなかっただけだった。鏡を見られないから、整えることもできなかった。母が最低限整えてくれていた。
けれど、伸びていく髪を何度も見ているうちに、ホップはある日、思った。
切らないのではなく、伸ばすことにしよう。
そう決めてから、髪は少しだけ違うものになった。
勝手に伸びていくものではなく、自分で選んで伸ばすものになった。
女になったことを、すべて受け入れたわけではない。
今でも、鏡を見ると苦しい日がある。
声が嫌になる日もある。
なんで自分だけが、と思う夜もある。
それでも、毎日は進んだ。
マサルは来た。
くだらないメッセージも来た。
母は待ってくれた。
ダンデは、挑みに来る日を待っていると言った。
少しずつ、ホップは外を歩けるようになった。
少しずつ、知らない顔だったものを、自分の顔として見られる日が増えた。
少しずつ、女になった自分で呼吸する時間が増えていった。
完全に平気になったわけではない。
それでも、二年が経った。
二年の間に、マサルが隣にいることは、ホップの中で当たり前になっていた。
だから、ジムチャレンジのことを考える時、最初に思い浮かぶのもマサルだった。
一緒に行く。
その言葉が、昔より少しだけ違う響きに聞こえた。
その違いを考えようとして、胸の奥に何かが浮かびかける。
けれど、ホップはすぐに首を振った。
いや、まさか。
私は、マサルの親友だから。
そう思うことにした。
さらに時間が経った。
鏡の中にいるのは、もう知らない誰かではなかった。
長く伸ばした髪も、選び直した言葉も、今の声も、全部ホップのものだった。
今でも、ふとした時に胸が痛むことはある。
それでも、今の自分から目を逸らすことはなくなった。
ホップは、今の自分で生きていく。
そう思えるまでに、二年かかった。