私は親友のままでいたくない   作:さぶろー

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第6話 二年越しの朝

 鏡の前で、ホップは髪を整えていた。

 

 長く伸ばした黒い髪を指で梳いて、肩の前に流す。今日は結ばない。何度か鏡の中の自分を見て、白い服の襟元を少しだけ直した。

 

 鏡の中にいるのは、もう知らない誰かではなかった。

 

 女になった自分。

 

 髪を伸ばすと決めた自分。

 

 一人称を選び直して、服も選び直して、二年かけてここまで来た自分。

 

 ホップは鏡の中の自分を見つめる。

 

 胸の奥が冷たくなることは、もうなかった。

 

「……よし」

 

 小さく呟いて、机の上に置いたジムチャレンジの書類を手に取る。

 

 二年前は、これを見ただけで息が詰まった。

 

 マサルと一緒に行くはずだった。兄に挑むための、最初の一歩になるはずだった。けれど、何もかも変わってしまって、ホップはこの書類を手に取ることさえできなくなった。

 

 今は違う。

 

 今の自分で行く。

 

 ホップは書類を鞄にしまった。

 

 スマホロトムが鳴る。

 

 マサルからだった。

 

『準備できた?』

 

 短いメッセージ。

 

 ホップは少しだけ笑って、返事を打つ。

 

『できた』

 

 すぐに既読がついた。

 

『じゃあ行こう』

 

 その返事を見て、ホップはスマホロトムを胸の前で少しだけ握った。

 

 マサルらしい。

 

 余計なことは言わない。特別な朝だからといって、急に長い言葉を送ってくることもない。

 

 それが、ホップにはありがたかった。

 

 階段を降りると、母がリビングにいた。

 

 ホップを見ると、少しだけ目を細める。

 

「準備できたのね」

 

「うん。できた」

 

 自然に出た一人称に、もう引っかかりはなかった。

 

 母は近づいてきて、ホップの髪を軽く見た。

 

「今日はそのまま行くの?」

 

「うん。このまま」

 

「似合ってるわ」

 

「ありがとう」

 

 二年前なら、その言葉を受け取れなかった。

 

 今は違う。

 

 ホップは小さく頷いて、玄関の方を見る。

 

「マサル、外で待ってるから」

 

「そう」

 

 母はそれ以上、引き止めなかった。

 

 それでも、少しだけ寂しそうな顔をした。

 

「行ってらっしゃい」

 

 何度も聞いた言葉だった。

 

 けれど、今日は少し違って聞こえた。

 

「行ってきます」

 

 ホップはそう答えて、玄関へ向かった。

 

 扉を開ける。

 

 朝の風が入ってくる。

 

 ハロンタウンの道は、二年前と変わっていなかった。草が揺れて、遠くでポケモンの鳴き声がして、まどろみの森の方には薄い光が落ちている。

 

 その道の先に、マサルが立っていた。

 

 黒いニット帽に、白いシャツ。二年前より背が伸びて、並ぶとホップより十センチくらい高い。

 

 マサルはホップを見ると、軽く手を上げた。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

 いつも通りの挨拶。

 

 それだけで、少し息がしやすくなる。

 

「準備、本当にできた?」

 

「できたって送ったでしょ」

 

「一応」

 

「できたよ」

 

「ならいい」

 

 マサルはそれ以上聞かなかった。

 

 大丈夫かとも、無理するなとも言わない。

 

 ただ、隣に立つ。

 

 ホップはその横に並んだ。

 

 マサルが隣にいると落ち着く。

 

 それは二年前から変わらない。

 

 けれど今は、その落ち着きの奥に、以前とは違う温かさがあった。

 

 その正体を考えかけて、ホップは視線を前へ向けた。

 

 今日はジムチャレンジの初日だ。

 

 今は、そこまで考えなくていい。

 

「兄貴から連絡来てる?」

 

「来てる。ブラッシータウンの駅に着くって」

 

「じゃあ、行こう」

 

「うん」

 

 二人で歩き出す。

 

 かつて、ホップはこの道を歩けなかった。

 

 病院から帰ってきた日、道の向こうにマサルを見つけて、逃げるように家へ入った。見られたくなかった。今の自分を知られたくなかった。

 

 今は、隣を歩いている。

 

 二年かかった。

 

 長かったのか、短かったのかは分からない。

 

 それでも、二年分の時間が、確かにここにあった。

 

「髪、今日は結ばないんだな」

 

 マサルがふと言った。

 

 ホップは自分の髪に触れる。

 

「うん。今日はこのまま」

 

「そっか」

 

「変?」

 

「変じゃない」

 

 すぐに返ってきた。

 

 ホップは少しだけ笑う。

 

「本当?」

 

「本当だよ」

 

 その返事も、二年前と同じだった。

 

 聞いたことに、まっすぐ答える。余計なことは言わない。茶化さない。

 

 それがマサルだった。

 

「ならいい」

 

 ホップは髪から手を離した。

 

 しばらく歩くと、ブラッシータウンへ向かう道が見えてきた。

 

 ジムチャレンジ。

 

 兄に挑む道。

 

 それは二年前から変わらない目標だった。

 

 けれど、今のホップにとって、それはもうただ兄を追いかけるだけのものではなかった。

 

 自分で選んだ体で。

 

 自分で選んだ言葉で。

 

 自分で選んだ今の姿で。

 

 マサルと一緒に進む道だった。

 

 スマホロトムが鳴る。

 

 ダンデからだった。

 

『着いた。二人とも来られるか?』

 

 ホップは返事を打つ。

 

『行ける』

 

 少し迷って、もう一文足した。

 

『マサルと行く』

 

 すぐに返事が来る。

 

『分かった。待っている』

 

 その言葉に、ホップは息を吐いた。

 

 ダンデは待ってくれた。

 

 二年前、今年は待つと言ってくれた。

 

 来年でも、その先でもいい。挑みに来るなら、自分はチャンピオンとして待っていると。

 

 その日が、来た。

 

「兄貴、待ってるって」

 

「じゃあ急ぐ?」

 

「走らない」

 

「分かった」

 

 マサルが即座に頷いたので、ホップは少しだけ笑った。

 

「昔なら走ってたかもね」

 

「今からでも走れるけど」

 

「走らないって言ったでしょ」

 

「うん」

 

 短いやり取り。

 

 けれど、それが自然にできることが嬉しかった。

 

 二年前とは、何もかも同じではない。

 

 声も、姿も、口調も、一人称も変わった。マサルも背が伸びて、少し落ち着いた。

 

 それでも、隣を歩いている。

 

 それは変わらなかった。

 

 ブラッシータウンの駅が見えてくる。

 

 その前に、ダンデが立っていた。

 

 チャンピオンのマントを揺らして、こちらを見ている。ホップと目が合うと、ダンデはいつものように笑った。

 

「来たな、ホップ。マサル」

 

「兄貴」

 

 ホップは足を止めた。

 

 ダンデの前に立つと、二年前のリビングを思い出した。

 

 今年は行かない、と伝えた日。

 

 ダンデが、今年は待つと言ってくれた日。

 

「待たせたね」

 

 ホップは言った。

 

 ダンデは少しだけ目を見開き、それから笑みを深くした。

 

「ああ。待っていた」

 

 その声には、兄としての優しさと、チャンピオンとしての強さが両方あった。

 

「二人とも、本当に行くんだな」

 

 ダンデが確認する。

 

 ホップはマサルを見た。

 

 マサルもこちらを見る。

 

 それだけで、答えは決まっていた。

 

「行くよ」

 

 ホップは言った。

 

「私たち、今年は行く」

 

 ダンデは頷いた。

 

「分かった」

 

 そして、二人に向き直る。

 

「なら、改めて言わせてもらう。ジムチャレンジは甘くない。各地のジムリーダーは強い。簡単な道ではない」

 

「分かってる」

 

「それでも、挑むんだな」

 

「うん」

 

 ホップは頷いた。

 

「挑む」

 

 ダンデの視線が、マサルにも向く。

 

「マサルもか」

 

「はい」

 

 マサルは短く答えた。

 

 ダンデは満足そうに笑った。

 

「よし。それなら、オレは推薦人として二人を送り出す」

 

 その言葉で、ようやく始まるのだと思った。

 

 二年前には届かなかった場所。

 

 手に取れなかった書類。

 

 歩けなかった道。

 

 それらが今、繋がっていく。

 

 ダンデがブラッシータウンの方へ歩き出す。

 

 マサルもそれに続く。

 

 ホップは一度だけ、ハロンタウンの方を振り返った。

 

 家が見えた。

 

 二年前、逃げ込んだ家。

 

 扉の向こうで泣いた家。

 

 そこから、少しずつ外へ出るようになった家。

 

 ホップは前を向く。

 

 隣にはマサルがいた。

 

「ホップ」

 

 名前を呼ばれる。

 

 ホップは顔を上げた。

 

「行こう」

 

 マサルが言った。

 

 短い言葉だった。

 

 けれど、それだけで十分だった。

 

「うん」

 

 ホップは頷く。

 

「行こう」

 

 二年越しのジムチャレンジが、ようやく始まった。

 

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