鏡の前で、ホップは髪を整えていた。
長く伸ばした黒い髪を指で梳いて、肩の前に流す。今日は結ばない。何度か鏡の中の自分を見て、白い服の襟元を少しだけ直した。
鏡の中にいるのは、もう知らない誰かではなかった。
女になった自分。
髪を伸ばすと決めた自分。
一人称を選び直して、服も選び直して、二年かけてここまで来た自分。
ホップは鏡の中の自分を見つめる。
胸の奥が冷たくなることは、もうなかった。
「……よし」
小さく呟いて、机の上に置いたジムチャレンジの書類を手に取る。
二年前は、これを見ただけで息が詰まった。
マサルと一緒に行くはずだった。兄に挑むための、最初の一歩になるはずだった。けれど、何もかも変わってしまって、ホップはこの書類を手に取ることさえできなくなった。
今は違う。
今の自分で行く。
ホップは書類を鞄にしまった。
スマホロトムが鳴る。
マサルからだった。
『準備できた?』
短いメッセージ。
ホップは少しだけ笑って、返事を打つ。
『できた』
すぐに既読がついた。
『じゃあ行こう』
その返事を見て、ホップはスマホロトムを胸の前で少しだけ握った。
マサルらしい。
余計なことは言わない。特別な朝だからといって、急に長い言葉を送ってくることもない。
それが、ホップにはありがたかった。
階段を降りると、母がリビングにいた。
ホップを見ると、少しだけ目を細める。
「準備できたのね」
「うん。できた」
自然に出た一人称に、もう引っかかりはなかった。
母は近づいてきて、ホップの髪を軽く見た。
「今日はそのまま行くの?」
「うん。このまま」
「似合ってるわ」
「ありがとう」
二年前なら、その言葉を受け取れなかった。
今は違う。
ホップは小さく頷いて、玄関の方を見る。
「マサル、外で待ってるから」
「そう」
母はそれ以上、引き止めなかった。
それでも、少しだけ寂しそうな顔をした。
「行ってらっしゃい」
何度も聞いた言葉だった。
けれど、今日は少し違って聞こえた。
「行ってきます」
ホップはそう答えて、玄関へ向かった。
扉を開ける。
朝の風が入ってくる。
ハロンタウンの道は、二年前と変わっていなかった。草が揺れて、遠くでポケモンの鳴き声がして、まどろみの森の方には薄い光が落ちている。
その道の先に、マサルが立っていた。
黒いニット帽に、白いシャツ。二年前より背が伸びて、並ぶとホップより十センチくらい高い。
マサルはホップを見ると、軽く手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
いつも通りの挨拶。
それだけで、少し息がしやすくなる。
「準備、本当にできた?」
「できたって送ったでしょ」
「一応」
「できたよ」
「ならいい」
マサルはそれ以上聞かなかった。
大丈夫かとも、無理するなとも言わない。
ただ、隣に立つ。
ホップはその横に並んだ。
マサルが隣にいると落ち着く。
それは二年前から変わらない。
けれど今は、その落ち着きの奥に、以前とは違う温かさがあった。
その正体を考えかけて、ホップは視線を前へ向けた。
今日はジムチャレンジの初日だ。
今は、そこまで考えなくていい。
「兄貴から連絡来てる?」
「来てる。ブラッシータウンの駅に着くって」
「じゃあ、行こう」
「うん」
二人で歩き出す。
かつて、ホップはこの道を歩けなかった。
病院から帰ってきた日、道の向こうにマサルを見つけて、逃げるように家へ入った。見られたくなかった。今の自分を知られたくなかった。
今は、隣を歩いている。
二年かかった。
長かったのか、短かったのかは分からない。
それでも、二年分の時間が、確かにここにあった。
「髪、今日は結ばないんだな」
マサルがふと言った。
ホップは自分の髪に触れる。
「うん。今日はこのまま」
「そっか」
「変?」
「変じゃない」
すぐに返ってきた。
ホップは少しだけ笑う。
「本当?」
「本当だよ」
その返事も、二年前と同じだった。
聞いたことに、まっすぐ答える。余計なことは言わない。茶化さない。
それがマサルだった。
「ならいい」
ホップは髪から手を離した。
しばらく歩くと、ブラッシータウンへ向かう道が見えてきた。
ジムチャレンジ。
兄に挑む道。
それは二年前から変わらない目標だった。
けれど、今のホップにとって、それはもうただ兄を追いかけるだけのものではなかった。
自分で選んだ体で。
自分で選んだ言葉で。
自分で選んだ今の姿で。
マサルと一緒に進む道だった。
スマホロトムが鳴る。
ダンデからだった。
『着いた。二人とも来られるか?』
ホップは返事を打つ。
『行ける』
少し迷って、もう一文足した。
『マサルと行く』
すぐに返事が来る。
『分かった。待っている』
その言葉に、ホップは息を吐いた。
ダンデは待ってくれた。
二年前、今年は待つと言ってくれた。
来年でも、その先でもいい。挑みに来るなら、自分はチャンピオンとして待っていると。
その日が、来た。
「兄貴、待ってるって」
「じゃあ急ぐ?」
「走らない」
「分かった」
マサルが即座に頷いたので、ホップは少しだけ笑った。
「昔なら走ってたかもね」
「今からでも走れるけど」
「走らないって言ったでしょ」
「うん」
短いやり取り。
けれど、それが自然にできることが嬉しかった。
二年前とは、何もかも同じではない。
声も、姿も、口調も、一人称も変わった。マサルも背が伸びて、少し落ち着いた。
それでも、隣を歩いている。
それは変わらなかった。
ブラッシータウンの駅が見えてくる。
その前に、ダンデが立っていた。
チャンピオンのマントを揺らして、こちらを見ている。ホップと目が合うと、ダンデはいつものように笑った。
「来たな、ホップ。マサル」
「兄貴」
ホップは足を止めた。
ダンデの前に立つと、二年前のリビングを思い出した。
今年は行かない、と伝えた日。
ダンデが、今年は待つと言ってくれた日。
「待たせたね」
ホップは言った。
ダンデは少しだけ目を見開き、それから笑みを深くした。
「ああ。待っていた」
その声には、兄としての優しさと、チャンピオンとしての強さが両方あった。
「二人とも、本当に行くんだな」
ダンデが確認する。
ホップはマサルを見た。
マサルもこちらを見る。
それだけで、答えは決まっていた。
「行くよ」
ホップは言った。
「私たち、今年は行く」
ダンデは頷いた。
「分かった」
そして、二人に向き直る。
「なら、改めて言わせてもらう。ジムチャレンジは甘くない。各地のジムリーダーは強い。簡単な道ではない」
「分かってる」
「それでも、挑むんだな」
「うん」
ホップは頷いた。
「挑む」
ダンデの視線が、マサルにも向く。
「マサルもか」
「はい」
マサルは短く答えた。
ダンデは満足そうに笑った。
「よし。それなら、オレは推薦人として二人を送り出す」
その言葉で、ようやく始まるのだと思った。
二年前には届かなかった場所。
手に取れなかった書類。
歩けなかった道。
それらが今、繋がっていく。
ダンデがブラッシータウンの方へ歩き出す。
マサルもそれに続く。
ホップは一度だけ、ハロンタウンの方を振り返った。
家が見えた。
二年前、逃げ込んだ家。
扉の向こうで泣いた家。
そこから、少しずつ外へ出るようになった家。
ホップは前を向く。
隣にはマサルがいた。
「ホップ」
名前を呼ばれる。
ホップは顔を上げた。
「行こう」
マサルが言った。
短い言葉だった。
けれど、それだけで十分だった。
「うん」
ホップは頷く。
「行こう」
二年越しのジムチャレンジが、ようやく始まった。