ハロンタウンを出る。
それだけのことなのに、ホップには少し不思議な感じがした。
何度も歩いた道だった。
ブラッシータウンへ向かう道も、草むらも、遠くに見える駅も、何も珍しいものではない。子どもの頃から知っている場所だ。
けれど、今日は違った。
足元にヒバニーがいる。
隣にはマサルがいて、その近くにはメッソンがいる。
それだけで、いつもの道が少し違って見えた。
ヒバニーは元気よく前へ出たり、ホップの足元へ戻ってきたりを繰り返していた。まだ旅が何なのか分かっていないのかもしれない。それでも、外へ出られるのが嬉しいらしく、時々小さく跳ねる。
メッソンは、マサルのすぐ近くを歩いていた。
少し不安そうに周りを見て、時々マサルの足元へ寄る。マサルはそれを急かさず、歩幅を少しだけ合わせているように見えた。
ホップはその様子を見て、小さく笑った。
「メッソン、マサルのそばから離れないね」
「そうだね」
「可愛い」
「うん」
マサルが短く返す。
メッソンは自分の話をされていると気づいたのか、少しだけ顔を上げた。それから、またマサルの影に隠れるように寄る。
ヒバニーがそれを見て、元気よく鳴いた。
まるで、一緒に前へ行こうと言っているみたいだった。
「ヒバニー、あんまり先に行きすぎないでね」
ホップが声をかけると、ヒバニーは振り返って跳ねた。
返事なのか、ただ楽しいだけなのかは分からない。
でも、ちゃんとこちらを見てくれた。
それが嬉しかった。
旅が始まった。
その実感は、まだ大きなものではない。
スタジアムに立ったわけでもない。ジムリーダーと向き合ったわけでもない。強いトレーナーに勝ったわけでもない。
ただ、マサルと並んで、ポケモンたちと一緒に歩いている。
その何でもない時間が、ホップには妙に特別だった。
「ねえ、マサル」
「何?」
「本当に始まったんだね」
マサルは少しだけこちらを見る。
それから、前へ視線を戻した。
「うん」
「二年待ったのに、始まってみると普通だね」
「普通じゃ駄目?」
「駄目じゃない」
ホップは首を横に振った。
「むしろ、いいと思う」
「そっか」
「うん」
普通に歩ける。
普通に話せる。
普通に旅が始まる。
二年前は、その普通がどれだけ遠かったかを知っている。
だからこそ、今こうして歩いていることが、ホップには大事だった。
ブラッシータウンに着くと、駅の周りには人が行き交っていた。
見慣れた町だ。
けれど、ジムチャレンジの準備を始める場所として見ると、少しだけ違って見える。
ダンデは町の入口で足を止めた。
「まずはポケモンセンターだな。相棒たちの様子を見てもらって、それから必要なものを揃えるといい」
「うん」
「分かった」
マサルも頷く。
ポケモンセンターに入ると、ヒバニーがきょろきょろと辺りを見回した。メッソンは少し驚いたようにマサルの後ろへ隠れる。
ホップはその様子を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
自分だけが初めてではない。
ヒバニーも、メッソンも、これから少しずつ旅を覚えていく。
受付で相棒たちを見てもらう。
初めてのバトルのあとだったが、二匹とも大きな問題はなかった。
ヒバニーが元気に戻ってくると、ホップの前で軽く跳ねた。
「お疲れさま」
ホップが手を出すと、ヒバニーはその手に顔を寄せた。
温かい。
さっき選んだばかりなのに、もう少しだけ距離が縮まった気がした。
隣では、マサルがメッソンに声をかけている。
「大丈夫?」
メッソンは小さく頷いた。
「そっか」
それだけだった。
でも、メッソンは少し安心したように見えた。
マサルは相変わらず、余計なことを言わない。
ポケモンに対してもそうなのだと思った。
相手が不安そうなら、無理に励ましすぎない。ただ、そこにいる。
ホップはその横顔を見ていた。
マサルが気づく前に、視線を戻す。
また見ていた。
最近、少し多い。
そう思ってから、ホップは胸の奥に浮かびかけたものを押し込めた。
今は旅の準備をしに来たのだ。
それでいい。
「次はショップ?」
ホップが言うと、マサルは頷いた。
「ボールとキズぐすり」
「あと、どくけしとか?」
「いるかも」
「じゃあ買っておこう」
二人でショップに向かう。
モンスターボール、キズぐすり、どくけし。
必要なものを一つずつ確認していく。
マサルは迷わず選ぶ。ホップは少し多めに持っておきたくなって、鞄の中を見ながら数を考えた。
「持ちすぎじゃない?」
マサルが横から言う。
「足りないよりいいでしょ」
「重くなるよ」
「大丈夫」
「本当?」
「本当」
そう返してから、ホップは少し笑った。
いつもと逆だ。
自分がマサルに確認されている。
「何?」
「何でもない。ちょっとおかしかっただけ」
「そっか」
マサルはそれ以上聞かなかった。
買い物を終えると、二人は店の外へ出た。
ダンデは少し離れた場所で誰かに声をかけられていた。チャンピオンが町にいれば、どうしても目立つ。人が集まり、笑顔で手を振られ、ダンデもそれに応えている。
ホップはその姿を見る。
やっぱり、兄は眩しい。
遠い。
あの場所まで行きたいという気持ちは、今も確かにある。
けれど、少し前のように、兄だけを見ているわけではなかった。
「ダンデさん、やっぱりすごいね」
マサルが言った。
「うん」
ホップは頷く。
「すごいよ。兄貴は」
それは本心だった。
誇らしい。
追いつきたい。
勝ちたい。
その気持ちは、変わっていない。
でも、そのあとでホップは、隣にいるマサルを見た。
マサルはダンデを見ている。
その横にメッソンがいて、少し後ろでヒバニーが跳ねている。
ホップはふと思った。
兄の背中を追いかける道に、マサルがいる。
それが、今は嬉しい。
兄に追いつくことだけを考えていた昔の自分とは、少し違う。
けれど、それを嫌だとは思わなかった。
「ホップ?」
マサルがこちらを見る。
ホップは少しだけ瞬きをした。
「また何でもない?」
「うん」
「そっか」
「でも、本当に楽しみなんだと思う」
そう言ってから、ホップは自分でも少し驚いた。
思っていたより、素直な言葉が出た。
「旅が」
慌てて足す。
「ジムチャレンジも、バトルも、兄貴に挑むのも。全部」
そこで一度、言葉を切る。
そして、少しだけ声を落とした。
「マサルと一緒に行けるのも」
マサルはホップを見た。
ほんの少しだけ、表情が柔らかくなる。
「俺もだよ」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
ホップは視線を逸らして、ヒバニーの方を見る。
ヒバニーが足元で元気よく跳ねていた。
胸の奥が温かい。
それは今朝に感じたものと同じで、けれど少しだけ強くなっている気がした。
その正体を考えるのは、まだ少し怖い。
でも、完全に目を逸らせるほど遠くもなかった。
ダンデが戻ってくる。
「待たせたな」
「大丈夫」
「買い物は済んだか?」
「うん」
ホップが答えると、ダンデは満足そうに頷いた。
「なら、次は研究所だ。ソニアにも顔を出しておいた方がいい」
「ソニアさん?」
「ああ。ジムチャレンジのことも、ポケモンのことも、色々助けてくれるはずだ」
ダンデはそう言ってから、少しだけ笑った。
「それに、二人が出発することも知りたがっていたしな」
ホップはマサルを見る。
マサルも頷いた。
「行こう」
「うん」
ブラッシータウンの道を歩く。
さっきまでただの町だった場所が、少しずつ旅の最初の町になっていく。
ポケモンセンターに行った。
道具を買った。
相棒たちが隣にいる。
ダンデが前を歩いている。
マサルが隣にいる。
一つ一つは、本当に小さなことだった。
けれど、その小さなことの積み重ねが、ホップに旅の始まりを実感させた。
研究所の前まで来ると、ヒバニーが先に駆け出しかけた。
「ヒバニー」
ホップが呼ぶと、ヒバニーはすぐに振り返る。
「一緒に行こう」
そう言うと、ヒバニーは嬉しそうに戻ってきた。
ホップはその頭を軽く撫でる。
そして、隣のマサルを見る。
「行こうか」
「うん」
マサルの足元で、メッソンも小さく頷いた。
ホップは研究所の扉を見る。
ここからまた、次のことが始まる。
まだジムチャレンジは始まったばかりだ。
スタジアムも、ジムリーダーも、チャンピオンカップも、ずっと先にある。
でも今は、それでよかった。
まずはこの町から。
マサルと、ヒバニーと、メッソンと一緒に。
ホップは扉の前で息を吸い、前へ進んだ。