私は親友のままでいたくない   作:さぶろー

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第9話 ポケモン図鑑

 研究所の扉を開けると、まず独特の静けさがあった。

 

 外の町の音が少し遠くなり、代わりに機械の小さな駆動音や、棚に並んだ資料の気配が近くなる。見慣れたブラッシータウンの中にある場所なのに、ここだけは少し違う空気をしていた。

 

 ヒバニーが足元で顔を上げる。

 

 メッソンはマサルの後ろに少し隠れながら、中の様子をうかがっていた。

 

「お、来たね」

 

 奥から声がした。

 

 白衣を羽織ったソニアが、こちらへ歩いてくる。足元にはワンパチがいて、ホップたちを見るなり元気よく鳴いた。

 

「ダンデ、それにホップとマサル。ほんとに今日から出発なんだね」

 

「ああ」

 

 ダンデが頷く。

 

「二人とも、相棒も選んだ。準備も進めているところだ」

 

「そっか」

 

 ソニアはホップを見る。

 

 その視線に、変な遠慮はなかった。

 

 二年前のことを知らないわけではない。マグノリア博士の関係で、ソニアもある程度事情を知っているはずだった。けれど、今のソニアはそれを特別に掘り返すこともなく、ただ旅立つホップを見ている。

 

 それが少しありがたかった。

 

「ホップ、久しぶり。髪、伸びたね」

 

「うん。伸ばした」

 

 ホップがそう答えると、ソニアは少し笑った。

 

「似合ってる」

 

「ありがとう」

 

 自然に返せた。

 

 そのことに、ホップ自身が少しだけ気づく。

 

 二年前なら、そう言われても目を逸らしていたと思う。今は違う。似合っていると言われて、それを受け取れる。

 

 ちゃんと、今の自分の言葉で。

 

 ソニアは次にマサルを見た。

 

「マサルも久しぶり。背、伸びた?」

 

「ちょっとね」

 

「ちょっとって感じじゃないけどね」

 

 マサルは特に否定も肯定もせず、軽く頷いただけだった。

 

 ホップはその横顔を見て、小さく笑いそうになる。

 

 ソニアがワンパチを撫でながら、二人の足元を見た。

 

「ヒバニーとメッソンか。いい組み合わせだね」

 

 ヒバニーが得意げに胸を張る。

 

 メッソンは、褒められたのか分からないような顔でマサルを見上げた。

 

 マサルが小さく頷く。

 

「褒められてる」

 

 メッソンは少しだけ安心したように目を細めた。

 

 そのやり取りが、妙にマサルらしかった。

 

 ソニアは机の上から端末を取る。

 

「じゃあ、旅立つ二人に必要なものを渡さないとね」

 

「必要なもの?」

 

 ホップが聞くと、ソニアは得意そうに笑った。

 

「ポケモン図鑑」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ホップは少しだけ息を止めた。

 

 ポケモン図鑑。

 

 トレーナーが旅をするなら、当然のように持つもの。

 

 見つけたポケモン、捕まえたポケモン、出会った場所、知ったこと。そういうものを記録していくもの。

 

 けれど、今のホップには、それ以上のものに聞こえた。

 

 これから旅をする。

 

 その証みたいだった。

 

「今はロトムスマホにアプリとして入れる形ね。二人とも、スマホロトム出してくれる?」

 

「うん」

 

 ホップはスマホロトムを取り出した。

 

 マサルも隣で同じように出す。

 

 ソニアが手早く操作していく。

 

 画面に新しいアイコンが追加される。

 

 ポケモン図鑑。

 

 それだけのことなのに、ホップは画面から目を離せなかった。

 

「はい、ホップの分」

 

「ありがとう」

 

「次、マサル」

 

「お願いします」

 

 マサルのスマホロトムにも、同じように図鑑が入る。

 

 同じアプリ。

 

 同じ始まり。

 

 ホップは、自分の画面とマサルの画面を見比べた。

 

 マサルが気づいて、少しだけスマホロトムを傾ける。

 

「見る?」

 

「うん」

 

 ホップは少し近づいた。

 

 肩が触れそうな距離になる。

 

 二年前から、マサルと近い距離でいることは珍しくなかった。部屋の前で泣いた日も、外へ出られるようになっていった日々も、隣にいることは当たり前だった。

 

 なのに今は、その近さを少し意識してしまう。

 

 ホップは画面に視線を戻した。

 

 ただ図鑑を見ているだけ。

 

 そう思うことにした。

 

 マサルの画面にも、同じように図鑑の初期画面が映っている。

 

「同じだね」

 

 ホップが言う。

 

「うん」

 

「これから増えていくんだ」

 

「そうだね」

 

「ヒバニーとメッソンが最初かな」

 

「たぶん」

 

 マサルはメッソンを見る。

 

 ホップもヒバニーを見る。

 

 ソニアが端末を置いて、二人の様子を見ていた。

 

「最初に登録するポケモンが、自分の相棒っていうのはいいよね」

 

「うん」

 

 ホップは頷いた。

 

 図鑑を起動する。

 

 ヒバニーの情報が画面に表示される。

 

 まだ空白の多い図鑑の中で、最初に記録されたポケモン。

 

 それが自分の相棒だった。

 

 ホップはヒバニーを見る。

 

「最初だね」

 

 ヒバニーが元気よく鳴く。

 

 まるで当然だと言っているみたいだった。

 

 隣では、マサルがメッソンの登録画面を見ていた。

 

「メッソンも最初」

 

 マサルが言うと、メッソンは少し照れたようにマサルの後ろへ隠れた。

 

 ホップはそれを見て笑った。

 

「メッソン、ほんとにマサルに似てるね」

 

「似てる?」

 

「静かなところ」

 

「そうかな」

 

「そうだよ」

 

 マサルは少し考えるようにメッソンを見る。

 

 メッソンもマサルを見上げる。

 

 少し間があって、マサルが言った。

 

「じゃあ、似てるかも」

 

 その返事が妙におかしくて、ホップは小さく笑った。

 

 ソニアも笑う。

 

「二人とも、もういい感じじゃん」

 

「まだ今日会ったばかりだよ」

 

「でも、そういうのって時間だけじゃないからね」

 

 ソニアはそう言って、ワンパチの頭を撫でた。

 

 ホップはヒバニーを見る。

 

 今日会ったばかり。

 

 けれど、もう一緒に行くと決めた相手。

 

 時間だけではない。

 

 その言葉は、相棒だけではなく、少し別のことにも響いた気がした。

 

 ホップはそれ以上考えないようにして、図鑑を閉じた。

 

 ダンデが腕を組み、満足そうに二人を見る。

 

「これで旅の準備はまた一つ進んだな」

 

「うん」

 

「ポケモン図鑑は、ただ集めるためのものじゃない」

 

 ソニアが言った。

 

「旅の中で何を見たか、誰と出会ったか、どんなポケモンと一緒に進んだか。それを残していくものでもあるんだよ」

 

 ホップはもう一度、スマホロトムを見る。

 

 これから増えていく記録。

 

 ヒバニーと歩いた道。

 

 マサルと並んで進む町。

 

 メッソンの成長。

 

 ジムチャレンジ。

 

 兄へ挑むまでの時間。

 

 全部がここに少しずつ残っていく。

 

 そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。

 

「大事にする」

 

 ホップが言うと、ソニアは頷いた。

 

「うん。そうして」

 

 マサルもスマホロトムをしまう。

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 ソニアは少しだけ真面目な顔になる。

 

「この先は、二番道路を抜けてマグノリア博士のところへ行くといいよ。博士も二人に会いたがってたし、ジムチャレンジに進むなら、ちゃんと話しておいた方がいい」

 

「マグノリア博士……」

 

 ホップはその名前を繰り返した。

 

 二年前、原因を調べる時にも名前が出た人。

 

 あの時は、自分の変化を調べてもらうための存在だった。

 

 今は違う。

 

 旅立つトレーナーとして会いに行く。

 

 それもまた、一つ前へ進んだ証のように思えた。

 

「分かった。行く」

 

「うん」

 

 マサルも頷く。

 

 ダンデが二人を見る。

 

「ここから先は、二人で歩く時間も増える。困ったことがあれば連絡しろ。だが、まずは自分たちで見て、考えて、進んでみるといい」

 

「分かってる」

 

 ホップは答えた。

 

「私たちで行くよ」

 

 そう言ったあとで、ホップは少しだけマサルを見る。

 

 マサルもこちらを見ていた。

 

 短く頷く。

 

「行こう」

 

「うん」

 

 研究所を出る前に、ソニアが声をかけた。

 

「ホップ」

 

 振り返る。

 

 ソニアは少しだけ目を細めた。

 

「行ってらっしゃい」

 

 母が言ったのと同じ言葉。

 

 けれど、少し違う響きだった。

 

「うん」

 

 ホップは頷いた。

 

「行ってきます」

 

 研究所の外に出る。

 

 ブラッシータウンの空気が戻ってくる。

 

 ヒバニーが足元で跳ね、メッソンがマサルのそばへ寄る。スマホロトムには、ポケモン図鑑が入っている。

 

 ただのアプリが一つ増えただけ。

 

 そう言えば、それだけのことだった。

 

 でも、ホップには違った。

 

 旅の記録が始まった。

 

 ヒバニーとの記録。

 

 マサルとの記録。

 

 兄へ挑むまでの記録。

 

 その最初の一歩が、今、確かに形になった。

 

「二番道路だね」

 

 ホップが言う。

 

「うん」

 

「博士のところまで、行こう」

 

「行こう」

 

 マサルが隣に並ぶ。

 

 ホップはスマホロトムを鞄にしまい、前を向いた。

 

 まだ図鑑はほとんど空白だった。

 

 けれど、その空白が少し嬉しかった。

 

 これから埋めていく。

 

 ヒバニーと。

 

 マサルと。

 

 今の自分で。

 

 ホップは一歩踏み出した。

 

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