研究所の扉を開けると、まず独特の静けさがあった。
外の町の音が少し遠くなり、代わりに機械の小さな駆動音や、棚に並んだ資料の気配が近くなる。見慣れたブラッシータウンの中にある場所なのに、ここだけは少し違う空気をしていた。
ヒバニーが足元で顔を上げる。
メッソンはマサルの後ろに少し隠れながら、中の様子をうかがっていた。
「お、来たね」
奥から声がした。
白衣を羽織ったソニアが、こちらへ歩いてくる。足元にはワンパチがいて、ホップたちを見るなり元気よく鳴いた。
「ダンデ、それにホップとマサル。ほんとに今日から出発なんだね」
「ああ」
ダンデが頷く。
「二人とも、相棒も選んだ。準備も進めているところだ」
「そっか」
ソニアはホップを見る。
その視線に、変な遠慮はなかった。
二年前のことを知らないわけではない。マグノリア博士の関係で、ソニアもある程度事情を知っているはずだった。けれど、今のソニアはそれを特別に掘り返すこともなく、ただ旅立つホップを見ている。
それが少しありがたかった。
「ホップ、久しぶり。髪、伸びたね」
「うん。伸ばした」
ホップがそう答えると、ソニアは少し笑った。
「似合ってる」
「ありがとう」
自然に返せた。
そのことに、ホップ自身が少しだけ気づく。
二年前なら、そう言われても目を逸らしていたと思う。今は違う。似合っていると言われて、それを受け取れる。
ちゃんと、今の自分の言葉で。
ソニアは次にマサルを見た。
「マサルも久しぶり。背、伸びた?」
「ちょっとね」
「ちょっとって感じじゃないけどね」
マサルは特に否定も肯定もせず、軽く頷いただけだった。
ホップはその横顔を見て、小さく笑いそうになる。
ソニアがワンパチを撫でながら、二人の足元を見た。
「ヒバニーとメッソンか。いい組み合わせだね」
ヒバニーが得意げに胸を張る。
メッソンは、褒められたのか分からないような顔でマサルを見上げた。
マサルが小さく頷く。
「褒められてる」
メッソンは少しだけ安心したように目を細めた。
そのやり取りが、妙にマサルらしかった。
ソニアは机の上から端末を取る。
「じゃあ、旅立つ二人に必要なものを渡さないとね」
「必要なもの?」
ホップが聞くと、ソニアは得意そうに笑った。
「ポケモン図鑑」
その言葉を聞いた瞬間、ホップは少しだけ息を止めた。
ポケモン図鑑。
トレーナーが旅をするなら、当然のように持つもの。
見つけたポケモン、捕まえたポケモン、出会った場所、知ったこと。そういうものを記録していくもの。
けれど、今のホップには、それ以上のものに聞こえた。
これから旅をする。
その証みたいだった。
「今はロトムスマホにアプリとして入れる形ね。二人とも、スマホロトム出してくれる?」
「うん」
ホップはスマホロトムを取り出した。
マサルも隣で同じように出す。
ソニアが手早く操作していく。
画面に新しいアイコンが追加される。
ポケモン図鑑。
それだけのことなのに、ホップは画面から目を離せなかった。
「はい、ホップの分」
「ありがとう」
「次、マサル」
「お願いします」
マサルのスマホロトムにも、同じように図鑑が入る。
同じアプリ。
同じ始まり。
ホップは、自分の画面とマサルの画面を見比べた。
マサルが気づいて、少しだけスマホロトムを傾ける。
「見る?」
「うん」
ホップは少し近づいた。
肩が触れそうな距離になる。
二年前から、マサルと近い距離でいることは珍しくなかった。部屋の前で泣いた日も、外へ出られるようになっていった日々も、隣にいることは当たり前だった。
なのに今は、その近さを少し意識してしまう。
ホップは画面に視線を戻した。
ただ図鑑を見ているだけ。
そう思うことにした。
マサルの画面にも、同じように図鑑の初期画面が映っている。
「同じだね」
ホップが言う。
「うん」
「これから増えていくんだ」
「そうだね」
「ヒバニーとメッソンが最初かな」
「たぶん」
マサルはメッソンを見る。
ホップもヒバニーを見る。
ソニアが端末を置いて、二人の様子を見ていた。
「最初に登録するポケモンが、自分の相棒っていうのはいいよね」
「うん」
ホップは頷いた。
図鑑を起動する。
ヒバニーの情報が画面に表示される。
まだ空白の多い図鑑の中で、最初に記録されたポケモン。
それが自分の相棒だった。
ホップはヒバニーを見る。
「最初だね」
ヒバニーが元気よく鳴く。
まるで当然だと言っているみたいだった。
隣では、マサルがメッソンの登録画面を見ていた。
「メッソンも最初」
マサルが言うと、メッソンは少し照れたようにマサルの後ろへ隠れた。
ホップはそれを見て笑った。
「メッソン、ほんとにマサルに似てるね」
「似てる?」
「静かなところ」
「そうかな」
「そうだよ」
マサルは少し考えるようにメッソンを見る。
メッソンもマサルを見上げる。
少し間があって、マサルが言った。
「じゃあ、似てるかも」
その返事が妙におかしくて、ホップは小さく笑った。
ソニアも笑う。
「二人とも、もういい感じじゃん」
「まだ今日会ったばかりだよ」
「でも、そういうのって時間だけじゃないからね」
ソニアはそう言って、ワンパチの頭を撫でた。
ホップはヒバニーを見る。
今日会ったばかり。
けれど、もう一緒に行くと決めた相手。
時間だけではない。
その言葉は、相棒だけではなく、少し別のことにも響いた気がした。
ホップはそれ以上考えないようにして、図鑑を閉じた。
ダンデが腕を組み、満足そうに二人を見る。
「これで旅の準備はまた一つ進んだな」
「うん」
「ポケモン図鑑は、ただ集めるためのものじゃない」
ソニアが言った。
「旅の中で何を見たか、誰と出会ったか、どんなポケモンと一緒に進んだか。それを残していくものでもあるんだよ」
ホップはもう一度、スマホロトムを見る。
これから増えていく記録。
ヒバニーと歩いた道。
マサルと並んで進む町。
メッソンの成長。
ジムチャレンジ。
兄へ挑むまでの時間。
全部がここに少しずつ残っていく。
そう思うと、胸の奥が静かに熱くなった。
「大事にする」
ホップが言うと、ソニアは頷いた。
「うん。そうして」
マサルもスマホロトムをしまう。
「ありがとう」
「どういたしまして」
ソニアは少しだけ真面目な顔になる。
「この先は、二番道路を抜けてマグノリア博士のところへ行くといいよ。博士も二人に会いたがってたし、ジムチャレンジに進むなら、ちゃんと話しておいた方がいい」
「マグノリア博士……」
ホップはその名前を繰り返した。
二年前、原因を調べる時にも名前が出た人。
あの時は、自分の変化を調べてもらうための存在だった。
今は違う。
旅立つトレーナーとして会いに行く。
それもまた、一つ前へ進んだ証のように思えた。
「分かった。行く」
「うん」
マサルも頷く。
ダンデが二人を見る。
「ここから先は、二人で歩く時間も増える。困ったことがあれば連絡しろ。だが、まずは自分たちで見て、考えて、進んでみるといい」
「分かってる」
ホップは答えた。
「私たちで行くよ」
そう言ったあとで、ホップは少しだけマサルを見る。
マサルもこちらを見ていた。
短く頷く。
「行こう」
「うん」
研究所を出る前に、ソニアが声をかけた。
「ホップ」
振り返る。
ソニアは少しだけ目を細めた。
「行ってらっしゃい」
母が言ったのと同じ言葉。
けれど、少し違う響きだった。
「うん」
ホップは頷いた。
「行ってきます」
研究所の外に出る。
ブラッシータウンの空気が戻ってくる。
ヒバニーが足元で跳ね、メッソンがマサルのそばへ寄る。スマホロトムには、ポケモン図鑑が入っている。
ただのアプリが一つ増えただけ。
そう言えば、それだけのことだった。
でも、ホップには違った。
旅の記録が始まった。
ヒバニーとの記録。
マサルとの記録。
兄へ挑むまでの記録。
その最初の一歩が、今、確かに形になった。
「二番道路だね」
ホップが言う。
「うん」
「博士のところまで、行こう」
「行こう」
マサルが隣に並ぶ。
ホップはスマホロトムを鞄にしまい、前を向いた。
まだ図鑑はほとんど空白だった。
けれど、その空白が少し嬉しかった。
これから埋めていく。
ヒバニーと。
マサルと。
今の自分で。
ホップは一歩踏み出した。