ガンダム ゼロ 鳥の人は、まだ歌を忘れていない――U.C.0079、ガンジスに墜ちた|可変試作機《ヴイエフ》 ガンダム×マクロス 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
はるか昔、人がまだ空を飛ぶ術を持たなかった頃。
羽を持ち、空を渡る種族がいたという。人はそれを
——太古、空の彼方より1つの器が墜ちたという。
羽を広げた巨人のごとき姿をした、
人はそれを神と呼び、悪魔と呼び、そのうち呼び方すら面倒になって忘れた。
器は眠り、そして待ち続けた。人間がまた性懲りもなく、
それは裁きではなく、
伝承によれば、この器を鎮められるのはただひとつ。
——『ガンジス上流域、古老の詠み』より
音が消えた。それも唐突に、である。
発電機の音でもない。虫の音でもない。世界の環境音というレイヤーが、誰かに「オフ」を押されたみたいに、まるごと引っこ抜かれた。
そんな静けさの後には、たいてい碌なことが起きない。
案の定、直後に基地北側の通信塔が爆発した。
窓が内側へ砕け、熱風が兵舎を撃ち抜く。赤色灯。警報。怒号。夜中に叩き起こされた戦場が、寝ぼけまなこのままフル稼働を始めた。
「敵襲、北東外周、熱源多数」
「レーダー応答なし。通信、混線しています」
シロー・アマダは飛び起きた。飛行服を掴み、廊下へ飛び出す。着替えなど後回しだ。ボタンの掛け違いに気づいたのは、格納庫に着いてからだった。
——何度、この瞬間を想像しただろう。士官学校の座学では、初陣とは数字の集合だった。生存率。被弾率。平均出撃回数。誰も、心臓がこんな音を立てるとは教えてくれなかった。教科書というのは、いつも一番大事なことを書き忘れる。
格納庫へ向かう途中、スレッガーが反対側から走ってきた。笑ってはいなかった。それだけで、事態の深刻さが知れた。
「新入り、初日から大当たりだ。喜べ、歓迎会に花火がついたぞ」
「敵は」
「ジオンだろうな。礼儀正しい敵なら、もう少し明るくなってから来る」
格納庫の天井が展開する。整備員の怒号。燃料ホースの切断音。未完成の
この機体には、正式な形態名すら与えられていなかった。整備班は便宜上、3つの姿を番号で呼んでいた。航空機形態——巡航のための鳥の姿。中間形態——どちらの機能も半端に併せ持つ、跳ねるような不安定な姿。そして機動兵器形態——地上での格闘戦のための、人型の姿。3つの形の間を、機体はまだ滑らかに渡れない。渡ろうとするたびに、軋み、悲鳴を上げる。羽ばたき方を、まだ知らない雛と同じだった。
シローはコクピットへ滑り込む。慣熟訓練は完了していない。シミュレーションと実機は違う。実機と戦場は、もっと違う。もっと言えば、戦場という場所は、教科書とだいたい仲が悪い。
——なぜ、こんな機体に乗ってまで飛ぶのか。答えは単純だった。飛ばなければ、誰かが代わりに死ぬ。それだけで、今は十分すぎるほど十分だった。
管制の声が途切れ途切れに入る。
「アマダ機、発進許可。繰り返す、発進許可。敵機、滑走路東端へ接近」
「了解。アマダ機、出ます」
加速は暴力だった。カタパルト補助推力が機体を射出する。試験機は滑走路を蹴り、夜へ突き刺さった。エンジンが限界音を吐き、翼面が空気を噛む。
地上の炎が、数秒で遠景になる。視界いっぱいに、まだ青くなる前の黒い空が開いた。
「高度を取りすぎるな、アマダ」
スレッガーの声が割り込む。
「ミノフスキー粒子が撒かれた。レーダーは飾りだ。目で見ろ。肌で読め。死にたくなきゃ、空の匂いを嗅げ」
粒子は通信を鈍らせるだけではなかった。濃度が上がるほど、操縦桿を握る手のひらの下で、機体の補助回路がかすかに震えた。訓練では感じたことのない揺れだ。まるでこの機体が、何かに聞き耳を立てているような——そんな気味の悪い震えだった。
「……なんだ、これ」
シローは声に出したが、誰も答えなかった。答えられる者がいないことだけが、逆に不気味だった。こういうとき、誰かが「大丈夫だ」と適当に言ってくれるだけでも、だいぶ違うのだが。
正面の闇に、赤い曳光弾が走った。遅れて機影が出現する。航空機ではない。人型の胴体に大型推進ユニットを背負い、重力圏の空へ強引にねじ込まれた鋼鉄の異物。
モビルスーツ。
旧式のザクIをベースにした機体のはずだった。だが動きは古くない。むしろ異常に新しい。重力を理解した上で、重力を鼻で笑っている。教科書が泣きそうな動きだった。
バーニアの青白い炎が夜を切り、モノアイの赤がノイズの奥で瞬いた。青く塗られたその機体は、何より、乗っている男の気配だけで異質だとわかった。教科書に載る動きではない。戦場そのものと長く会話してきた者の、無駄のない挙動だった。
「連邦の試験機か」
敵機の通信が、ミノフスキー粒子のノイズを貫いて一瞬だけ混じった。低い声。太く、落ち着きすぎている。まるで散歩中に知り合いを見かけたような口調だった。
「面白い。だが、戦場に出るには若すぎる」
その瞬間、ザクIが消えた。
いや、消えたのではない。減速、旋回、失速制御。3つの挙動を一拍に圧縮し、シローの視界から外れただけだ。器用すぎて、いっそ腹が立つ。
警告音。後方。至近。シローは反射で操縦桿を倒した。機体が横滑りし、モノアイの赤い光がキャノピーの端を掠める。
「動くな、少尉」
スレッガー機が割って入った。2機の試験機と1機の旧ザクが、ガンジス上空の暗闇で交差する。
銃火が線を描く。金属片が星屑みたいに散った。スレッガーは笑っていた。通信越しに、ほんとうに笑っていた。命のやり取りの最中に笑える神経が、シローには正直うらやましい。
「いい腕してるじゃねえか、ジオンの旦那」
「貴様もな、連邦の伊達男」
2人の戦いは、空中戦ではなかった。剣戟だった。距離を取れば銃撃。詰めれば質量そのものが刃になる。
スレッガーは可変翼を畳み、ホバー推力を一瞬だけ噴かして機体を宙に立たせる。ありえない機動だ。ラルのザクIは即応し、脚部スラスターで真横へ滑った。
シローは追いつけなかった。
技術ではない。経験だけでもない。戦場の処理速度が違う。彼らは弾丸が発射される前に弾道を読み、殺意が形になる前に機体を動かしている。もはや将棋の名人が素人相手に1人で三面指しをしているようなものだった。
シローが教科書で学んだ空は、そこには存在しなかった。
基地では爆発が連鎖していた。倉庫が燃える。対空砲座が沈黙する。滑走路の一部が黒く裂ける。
「アマダ、東へ振れ。奴の2番機が輸送機を狙ってる」
シローは機首を振った。闇の中、もう1機のザクIが低空で滑走路へ迫っている。背部ユニットの炎が地面を焼き、マシンガンの砲口が誘導路の輸送機を捕捉していた。
「やらせるか」
照準器は粒子干渉で乱れていた。ロックオン不能。手動照準。訓練では何度も成功した手順が、実戦では別の言語に見える。
指が震える。引き金を引く。弾は外れた。派手に外れた。
ザクIが振り向く。モノアイが赤く光った。次の瞬間、シローの機体右翼が爆ぜた。
警告音がすべてを塗り潰した。推力低下。姿勢制御不能。油圧低下。機体は横転しながら空を落ちていく。地上の火が回転する。空と河が入れ替わる。重力だけが、律儀に正確だった。
「アマダ、脱出しろ」
スレッガーの声。
だが、脱出レバーへ伸ばした手は、途中で止まった。
眼下に、基地ではなく河が見えた。
黒い大地を裂いて流れる銀色の線。ガンジス川。夜明け前の光をわずかに反射し、巨大な刃のように走っていた。この高度で射出すれば、風に持っていかれる。敵の勢力圏か、炎上する基地か、岩場か。着地点はほぼ運任せだ。
なら、機体ごと河へ持っていく。運任せより機体任せのほうが、まだましだ。
シローは操縦桿を握り直した。
「まだ……まだ落ちてない」
可変機構の固定ピンが、限界を超えた角度で軋んだ。航空機形態でもなく、機動兵器形態でもない、その中間形態——本来なら設計者が真っ青になって禁じたはずの——半端な姿勢のまま、機体は嘴を持つ鳥のように空中で跳ねた。腹部ホバー推力ノズルだけが、まだかろうじて生きていた。シローは教本にない操作を選んだ。可変翼を中途角で固定し、失われた揚力を腹部噴射で補正する。無茶と工夫は、たいてい紙1重だ。
衝撃で視界が白く弾ける。胸骨が軋み、奥歯が鳴った。高度計の針が狂ったように回る。
通信はもう、砂嵐のようなノイズしか吐き出さない。
そのノイズの向こうで、誰かが叫んだ気がした。スレッガーか。
それとも、まだ会ったことのない誰かの声か。
——来て。
声は、耳ではなく、頭蓋の内側へ直接落ちた。ノックもせずに勝手に入ってくる声だった。
シローは息を呑む。次の瞬間、キャノピーの外いっぱいに河面が展開した。機体はガンジスの支流へ叩きつけられた。
水が割れる。鋼鉄が軋む。世界の上下が反転する。衝撃。
暗転。
最後に見えたのは、燃える基地ではなかった。夜明けの空でもなかった。
水の向こうからこちらを見ている、少女の瞳だった。
その瞳は恐ろしいほど静かで、そしてありえないほど懐かしかった。シローはそのとき、自分がどこで生きているのかを、初めて知らなかった。水の向こうで、少女の瞳だけが彼を知っていた。