機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
広場の床板の隙間から、白い光が漏れた。
水の反射ではない。炎でもない。もっと冷たい、もっと無機質な光だった。川底の泥と水と時間を透かして、地下の何かが目を開けた。
ララァが、シローのそばから離れた。
「ララァ、だめ!」
クスコが叫んだ。
だがララァは止まらなかった。彼女は広場の中央、白い光が最も強く漏れる場所へ歩いていく。村人たちは道を開けた。恐れているのか、崇めているのか、もう誰にも区別できない。
ララァは両手を胸の前で合わせた。
それは祈りに見えた。
だが、シローには別のものに見えた。
人間の身体を使った、危険すぎる通信だった。
「聞こえるなら、聞いて」
ララァの声は小さい。けれど、通信機も拡声器も介さず、空にいる兵士たちの耳にも届いたように思えた。
「これは戦いの声じゃない。怖がっているだけ。みんな、怖がっているだけなの。だから、起きなくていい。あなたが壊れなくても、世界はまだ壊れない」
白い光が強くなった。
ララァの髪が、風もないのに持ち上がる。足元の水が、板の隙間から逆流し、粒になって宙へ浮いた。水滴のひとつひとつが白く発光し、昼の広場に偽の星空を作る。
シローはその光景に息を奪われた。
美しい。
そう思ってしまった自分を、すぐに嫌悪した。
これは奇跡ではない。少女ひとりの神経を、地下の未知の機械と、空の戦争と、村人たちの恐怖が同時に引き裂いているだけだ。
「ララァ!」
シローは踏み出した。
その瞬間、彼の頭の中へ声が流れ込んだ。
死にたくない。
帰りたい。
撃ちたくない。
撃たなければ殺される。
母さん。
神様。
誰か。
それは村人の声だった。連邦兵の声だった。ジオン兵の声だった。そして、彼自身の声でもあった。恐怖は敵味方を区別しない。ただ温度と圧力を持って、ララァへ流れ込んでいた。
シローは歯を食いしばり、その奔流へ向かって手を伸ばした。
「全部ひとりで聞くな!」
ララァの目が開いた。
その瞳は、もう広場を見ていなかった。川底でも、空でもない。もっと遠い場所、まだ人類が名前をつけていない感覚の海から、彼を見ていた。
「シローは、こわくないの?」
「怖い」
即答だった。
「怖いから、撃たせたくない。怖いから、君をこんなものに繋げたくない。怖いから、まだ終わらせたくない」
その言葉が、何かに届いた。
白い光が、わずかに緩んだ。
川底の鼓動が、ひとつ、遅れる。
ララァは手を伸ばした。シローも手を伸ばす。指先が触れた瞬間、広場の水滴が一斉に落ちた。
触れるまでの時間が、異様に長く引き延ばされた。水滴が宙で止まり、村人の悲鳴が遠い膜の向こうへ退き、シローは自分の心臓が一度だけ打つ音を聞いた。その一拍の中で、彼は軍人ではなく、ただ彼女を呼ぶ人間になっていた。
音が戻る。
水音。泣き声。推進音。通信のノイズ。世界は、壊れたままだった。だが、今この瞬間だけは、完全には崩れなかった。
上空で、連邦艇がゆっくりと高度を上げた。ジオン降下艇も砲門を閉じたまま距離を取る。青いザクIは川岸に着地し、村へは踏み込まなかった。
停戦ではない。
ただ、誰も最初の弾を撃てなかっただけだ。
ララァの膝が折れた。
シローは彼女を抱き止めようとして、自分も崩れた。2人は濡れた床板の上に座り込む形になった。ララァの身体は熱く、軽すぎた。呼吸は浅い。だが、目は閉じていない。
「聞こえた」
彼女はかすれた声で言った。
「何が」
シローは息を切らしながら訊いた。自分の声が、自分のものではないほど遠い。痛みも疲労も限界を超え、身体の輪郭が薄くなっている。
ララァは、白い光が消えた床板の隙間を見つめていた。
「下のものが、あなたの名前を覚えた」
その言葉の意味を、シローはすぐには理解できなかった。
だが背筋の奥で、理解より先に恐怖が反応した。名前を覚えられる。それは敵に識別されることとは違う。標的にされることとも違う。もっと根源的な、存在の輪郭をどこか別の場所に写し取られる感覚だった。
「俺の名前を?」
ララァは頷いた。
「でも、嫌ってはいない。怖がっている。あなたも、怖がっていたから」
「機械が、怖がるのか」
「機械じゃない」
ララァの指が、シローの袖を掴む。細い指先に力はなかった。それでも、彼をこの場につなぎ止めるには十分だった。
「たくさんの怖い声を入れられて、機械の形に閉じ込められたもの」
シローは返事ができなかった。
連邦が何を造ったのか。何を埋めたのか。何を神話に偽装し、何を信仰の下に封じたのか。答えはまだ見えない。だが、わかることがひとつだけあった。
この村は、最初から守られてなどいなかった。
実験場だったのだ。
空では、連邦艇がなお旋回していた。高度を上げたとはいえ、離脱はしていない。ジオンの降下艇も距離を取っただけで、雲の端に張りつくように留まっている。青いザクIは川岸で片膝をつき、村へ背を向ける形で静止していた。
その姿勢を、シローは理解した。
ラルは村を盾にしていない。
むしろ、村の外側へ出るものを止める位置にいる。連邦の回収部隊も、ジオンの調査部隊も、どちらもこの瞬間、銃ではなく目で互いを撃っている。
スレッガーの声が、通信機の割れたスピーカーから小さく漏れた。
「アマダ。聞こえるか。そっちに無茶な突入はしない。今のところはな」
「今のところ、ですか」
「戦場で永遠を信じるな。だが、お前が止めた数分は本物だ。その数分で考えろ。そこにいる子を、誰に渡すべきじゃないのかをな」
「軍でもジオンでもねえ。最後に選ぶのは、目の前の人間だ。忘れるな、アマダ。お前はもう、その選び方を知っちまった」
通信はそこで切れた。
誰に渡すべきじゃないのか。
その問いは、連邦軍人であるシローの胸に深く刺さった。敵に渡してはならない。ジオンに奪わせてはならない。それは当然だった。だが、では連邦ならいいのか。
この村を管理区域にし、バベルを隠し、ララァを聖女として縛る構造を見逃してきたのは、誰なのか。
答えは、痛いほど明白だった。
ララァが、シローの胸元へ額を預けた。
「少しだけ、静かになった」
「なら、今は眠れ」
「眠ると、夢に引っ張られる」
「俺が起こす」
ララァは薄く目を開けた。
「約束?」
「約束だ」
その言葉を聞いて、ララァはようやく目を閉じた。
クスコがそっと近づき、2人のそばに座り込む。いつもの軽口は出なかった。煤だらけの指で、彼女は床板に落ちた白い水滴の跡をなぞった。
「星みたいだったね」
シローは空を見上げた。
昼の空に星はない。
ただ、連邦とジオンの機影だけが、遠い星の代わりに彼らを見下ろしていた。
そのさらに下、川底の闇の中で、バベルは沈黙している。
眠ったのではない。
聞き耳を立てているのだ。
そして今、そこにはひとつだけ、新しい音が登録されていた。
シロー・アマダ。
その名は、まだ戦史のどこにも記録されていない。
だがこの日、ガンジスの底に眠る失敗した神は、初めて人間の名を覚えた。シロー・アマダという音が、白い回路に刻まれた。それは命令でも、祈りでも、恐怖でもなかった。戦場には名前のない信号だった。バベルはそれを、眠りにつくまで手放さなかった。