機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録―   作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった

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停戦は紙より薄い

停戦は、紙より薄かった。

 

撃たなかった、という事実だけがそこにある。だが、撃たない理由は誰にも共有されていない。連邦は味方の回収と機密保全のために上空へ留まり、ジオンは未知の地下施設を見届けるために川岸を離れない。村人たちは、空の兵器と川底の神の間で、ただ息を殺していた。

 

シローは広場の端で、濡れた床板に背を預けていた。肋骨の痛みは、もはや個別の警告ではなく、身体全体に広がる赤い霧になっている。右肩は熱を持ち、呼吸をするたびに胸の内側で錆びた扉が開閉した。

 

それでも、彼は眠らなかった。

 

膝のそばで、ララァが浅く眠っている。眠るというより、意識の一部をどこか別の深みに置き忘れたまま、身体だけを休ませているようだった。彼女の睫毛がときどき震える。そのたびに、床下の水がかすかに波立った。

 

クスコはララァの横に座り込み、煤のついた手を水で洗っていた。手の甲は赤く腫れている。火傷だ。本人は平気な顔をしているが、痛くないはずがなかった。

 

「その手、見せろ」

 

シローが言うと、クスコは素直に手を差し出した。

 

「痛いか」

 

「ちょっと」

 

「ちょっと、で済む色じゃない」

 

「機械のほうがもっと痛そうだったよ」

 

クスコは笑った。強がりではない。彼女にとって、壊れた機械はただの物ではなかった。声を出せない生き物のように感じているのだろう。シローは包帯代わりの布を裂き、彼女の手に巻いた。

 

「お兄さん、ほんとに兵隊なの?」

 

「今さら何だ」

 

「兵隊って、壊れたものは捨てるんだと思ってた」

 

シローは返事に詰まった。捨てる。回収不能。作戦上不要。軍では、そのための言葉がいくつも用意されている。人間にも、機械にも、村にも。

 

「捨てたくないものもある」

 

それが今の彼に言える、最も正直な答えだった。

 

空で、エンジン音が変わった。

 

連邦回収艇が旋回半径を広げる。ジオン降下艇は高度を維持したまま、雲の陰へ半身を隠した。互いに砲口を向けていない。だが、視線は外していない。空そのものが、張り詰めたワイヤーのようだった。

 

そのワイヤーを、笑い声が切った。

 

「おい、青い旦那。そっちの部下、ずいぶん行儀よく待ってるじゃねえか。ジオンってのは意外と礼儀作法にうるさいのかい」

 

通信機の割れたスピーカーから、スレッガーの声が漏れた。わざと開いた共通回線だ。空にいる全員へ向けて、彼は軽口を投げている。

 

返ってきたラルの声は、低く静かだった。

 

「礼儀を知らぬ者は、戦場で長く生きられん。貴官も、その口の割には長生きしそうだ」

「褒め言葉として受け取っとくぜ」

 

「だが、ここは長く留まる場所ではない」

 

ラルの声に、初めて硬いものが混じった。

 

「連邦の実験場に、民間人が住まわされている。貴官らの理屈では、それも保護と言うのか」

 

通信の向こうで、短い沈黙があった。

 

「俺は政治屋じゃねえ。女と子どもと、若い少尉を死なせないために飛んでるだけだ」

「ならば、同じ目的だな」

 

「気が合うじゃねえか。酒でも飲むか」

 

「戦後にな」

 

「そいつは遠いな」

 

次の瞬間、空の緊張が変質した。

 

停戦の会話ではない。互いの距離、声の呼吸、推進音の揺れ。そのすべてが、戦いへ戻る準備をしていた。スレッガーとラルは理解している。この場で軍同士が撃ち合えば村が死ぬ。ならば、戦場を村の外へ引きずり出すしかない。

 

空の獣同士が、場所を選ぶ。

 

連邦回収艇の下部ハッチが開き、スレッガーの可変試験機が射出された。破損箇所を応急修理しただけの機体だ。外板の一部は剥き出しで、左翼の補助フラップは片側だけ色が違う。それでも、空へ出た瞬間、その機体は生き物になった。

 

同時に、青いザクIが川岸から跳んだ。

 

脚部スラスターが泥を爆ぜさせ、背部の大型推進ユニットが白い炎を吐く。人型の鉄塊が、重力をねじ伏せて上昇する。普通なら無理がある。設計思想からして間違っている。だがランバ・ラルは、その間違いを技量で成立させていた。

 

本来、ザクIは重力下での運用を想定していない。背部推進器は真空機動用であり、大気圏内で使用すれば燃料消費は数倍、姿勢制御は本人の技量に完全依存する。それをラルは、まるで宇宙空間のように扱っていた。それは技術ではない。狂気に近い経験と勘だった。

 

2機は、村の真上では交差しなかった。

 

東へ。川の支流を越え、葦原を抜け、赤茶けた岩場と乾いた谷が広がる方向へ。そこなら、落ちるものが落ちても村には届かない。2人は言葉にせず同じ判断をした。

 

シローは空を見上げた。

 

スレッガー機の尾翼が、朝の光を受けて一瞬だけ白く光る。青いザクIのモノアイが、それを追う赤い点になった。ふたつの光は高度を上げ、遠ざかり、そして同時に急降下した。

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