機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
雲の影に潜むジオン降下艇の中で、クラウレ・ハモンは戦況表示を見つめていた。ラル機と連邦試験機の軌跡は、村から離れるように東へ伸びている。連邦回収艇は高度を上げた。村の上空には、ほんの短い空白が生まれていた。
戦場では、空白が最も高価な通貨になる。
「ラル大尉は東へ引いた。村上空の監視密度が落ちます」
副操縦席の兵が報告する。ハモンは頷かなかった。頷く必要がないほど、彼女はすでにその先を見ていた。
「ラルには伝えなくていいわ」
機内の空気がわずかに硬くなった。
「しかし、ハモンさん。大尉は民間人への干渉を禁じています」
「干渉ではないわ。確認よ」
ハモンは視線を上げた。美しい顔に、戦場の熱はなかった。あるのは計算と、計算だけでは割り切れない苛立ちだった。
ラルは、また正面から行った。あの男はいつもそうだ。危険なものほど、自分の眼で確かめようとする。敵が強ければ強いほど、剣を抜く。任務より、生存より、武人としての納得を優先する瞬間がある。
だからこそ、ハモンは別の道を選ぶ。
この作戦は、本来ならラルには回ってこない類のものだった。それが回ってきた時点で、上の誰かが彼を使い捨ててもよい駒として選んだのだと、ハモンは理解していた。
ハモンは軍籍を持たない。だからこそ、軍のプロトコルに縛られない判断ができる。それを愛と呼ぶか、危うさと呼ぶかは、見る者次第だった。
「ルッグンを出して。低空で村の西側へ回り込む。降下は私ひとりでいい」
「単独でですか」
「大勢で行けば、村は騒ぐ。騒げば下のものが起きる。あの子たちは、それを感じている」
あの子たち。
ハモンは観測記録を思い返す。白い光の中心にいた少女。連邦兵の名を呼んだ少女。そして、その横で機械の下へ潜り込み、迷わず遮断ピンを抜いた小さな少女。
ララァ・スンは危険すぎる。すでに連邦もジオンも見てしまった。いずれ必ず奪い合いになる。
だが、もうひとりはまだ誰にも名前を呼ばれていない。
原石なら、砕かれる前に拾える。
ハモンは立ち上がった。
「クスコ・アル。あの子を確保する」
同じころ、東の谷では、空がさらに低くなっていた。
スレッガーは谷底すれすれを走り、岩壁の影を使ってラルの射線を切る。機体は悲鳴を上げていた。尾翼損傷。姿勢補正遅延。右エンジン過熱。警告表示は赤く染まり、コクピットは汗と焦げた樹脂の匂いで満ちている。
「口説くには最悪のコンディションだな」
独り言を吐きながら、彼は機体を岩壁へ向けた。
正面衝突の寸前、可変翼を片側だけ開く。機体は空気抵抗で強制的に横へ弾かれ、岩肌を削るように旋回した。その一瞬前まで彼がいた空間を、青いザクIのマシンガンが縫う。岩が爆ぜ、破片がキャノピーを叩いた。
「逃げ足だけは見事だな、連邦の伊達男」
「そっちこそ、旧ザクでよく飛ぶ。機体が泣いてるぜ」
「泣く機械ほど、よく応える」
「いいこと言うじゃねえか。うちの整備班に聞かせたら泣くぞ」
軽口の裏で、スレッガーは気づいていた。
ラルの動きが変わった。殺しに来ている。だが、それだけではない。こちらを谷の奥へ追い込みながら、村から距離を取っている。あの男も、下の異常を理解しているのだ。
だからこそ厄介だった。
善意や倫理で動く敵なら読みやすい。だがラルは違う。彼は自分の中の線を守りながら、必要なら殺す。その線の位置が、スレッガーには見える。見えるからこそ、踏み越えさせるわけにはいかない。
谷の上空で、2機は再び交差した。
スレッガーは真正面から突っ込む。ラルも避けない。白い試験機の機首と青い機体の胸部が一直線に向かい合う。距離が縮む。照準が重なる。引き金に指がかかる。
先に撃ったのは、どちらでもなかった。
谷の底から白い閃光が立ち上がり、2機の間を切り裂いた。
ビームではない。弾でもない。空気そのものが一瞬だけ白く硬化し、そこを通った電波と推力制御がまとめて歪められた。スレッガー機の計器が全て反転し、ラルのザクIも姿勢を崩す。
「何だ、今のは!」
「知らん。だが、村ではない。地下だ」
ラルの声にも、初めて驚きが混じっていた。
スレッガーは機体を立て直しながら、村の方角を見た。遠く、ガンジスの流れの上に、小さな白い光が点滅している。さっきより強い。さっきより規則的だ。
「アマダ、聞こえるか!」
返事はなかった。
そのころ村では、ララァがゆっくりと立ち上がっていた。
彼女の目は、東の空ではなく西の葦原を見ていた。シローもその視線を追う。最初は何も見えなかった。だが、すぐに水面近くを滑る影に気づいた。
小型の偵察機。
ルッグンに似た機影が、葦の高さぎりぎりを無音に近い低出力で接近している。真正面からの攻撃ではない。村を包む騒ぎと空中戦の陰に紛れた、静かな侵入。
クスコが先に気づいた。
「あれ、さっきの大きいやつと音が違う」
「伏せろ。偵察機だ」
シローが言い終える前に、機体側面のハッチが開いた。
降り立ったのは、銃を構えた兵士ではなかった。
ひとりの女だった。
薄い外套を風に揺らし、泥に沈まない足取りで葦原へ立つ。手には小型拳銃。ただし銃口は下を向いている。敵意を隠しているのではない。必要なときだけ敵意へ変換できる人間の所作だった。
ララァが囁いた。
「あの人、ラルの近くにいる人」
シローは歯を食いしばった。
「クスコ、ララァを連れて奥へ行け」
「いや」
クスコは即答した。声は震えていたが、目は逃げていない。彼女はララァの袖を掴みながらも、葦原の女から視線を外さなかった。
「あの人、こっちを撃ちに来たんじゃない」
「なら、なおさら危ない」
シローは通信機へ手を伸ばした。だが、古い端末はさっきの過負荷で沈黙している。焦げた匂い。溶けた樹脂。送信ランプは死んだ虫の目のように黒く曇っていた。
ハモンは走らなかった。
走れば恐怖が生まれる。恐怖は下へ落ちる。下へ落ちたものは、あの白い光を育てる。彼女はそれを理解していた。だから、まるで村へ弔問に来た客のような静けさで、赤い布の境界へ近づいてくる。
「連邦の少尉さん」
ハモンの声は、川面を滑るように届いた。
「あなたを殺しに来たわけではないわ。今日は」
「なら帰れ。ここには、あなたたちが持っていくものはない」
「それを決めるのは、あなたではない」
ハモンの視線は、ララァを一度だけ掠めた。そこに欲望はなかった。むしろ、厄介な爆薬の信管を確認するような慎重さがあった。そして次に、彼女の目はクスコへ止まった。
クスコは、その視線の意味を本能で理解した。
「わたし?」
「あなたは、まだ誰のものでもない」
ハモンは穏やかに言った。
「だから、まだ救える」
その言葉に、シローの中で何かが逆流した。救う。守る。保護する。軍人はいつもその言葉で他人の人生に手をかける。連邦も、ジオンも、同じだ。違う旗を掲げて、同じ動詞を使う。
「その子を連れていくなら、俺を越えていけ」
シローは立ち上がった。膝が笑い、視界が歪む。武器はない。身体はまともに動かない。軍人として見れば、あまりに無謀だった。
それでも、立つことだけはできた。
ハモンはわずかに目を細めた。
「ラルがあなたを殺さなかった理由、少しわかるわ」
空の東で、爆音が重なった。
スレッガー機とラルのザクIが、谷の上から再び姿を現す。どちらも傷ついていた。白い試験機は尾を引き、青いザクIは肩装甲を失い、背部ユニットの片側から黒煙を噴いている。それでも2機は止まらない。互いを追い、互いを誘い、互いの命を空へ刻んでいる。
その強すぎる声が、また川底へ落ちた。
白い光が、村の床板の隙間から再び滲み出す。
ララァが息を呑んだ。
「だめ。今度は、わたしだけじゃ止まらない」
ハモンの顔から、初めて余裕が消えた。
彼女はクスコへ一歩踏み出した。シローも同時に動く。だが、負傷した身体では遅すぎた。ハモンの手が、クスコの細い腕を掴む。