機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
熱はなかった。
冷たさもなかった。ただ、身体を構成している情報だけを一枚ずつ剥がされるような感覚があった。皮膚。筋肉。骨。記憶。名前。軍籍番号。誰かに呼ばれた声。自分で選んだつもりの決意。それらが白い光の中で薄くなり、代わりに別のものが流れ込んでくる。
水音。
祈り。
命令書。
泣き声。
研究者の冷たい声。
――被験体反応、閾値を超過。
――共鳴波、安定せず。
――感応素養者の追加確保を要請。
シローは叫ぼうとした。だが声帯はそこになかった。彼は落ちていた。いや、上昇していた。あるいは、広場の床板に立ったまま、意識だけが地下の空洞へ引き込まれていた。
足元に、都市ほどの闇が開いた。
そこには街がなかった。人も、道路も、灯りもない。代わりに、巨大な回路が地平線まで広がっていた。白い線が川のように走り、節点には古い骨のような塔が立つ。塔の表面には、祈祷文にも軍用コードにも似た記号が刻まれていた。
バベルは、遺跡ではなかった。
それは、遺跡の形を借りた実験装置だった。神話の皮膚をまとった兵器だった。人が恐れるものを信仰と呼び、信仰と呼んだものへ予算番号を刻み、予算番号を刻んだものを未来と呼んだ。その成れの果てが、ここに眠っていた。
後にこの系統は、再現不能、理論未確立、軍事利用不可と判定される。フラナガン機関とも接続されず、後年の感応兵器研究が参照することのない、参照されなかった並行研究。失敗した未来の試験場だった。
遠くで、ララァの声がした。
「こっちに来ないで」
「来た」
シローは答えた。声はなかったが、意思だけが白い回路を走った。
「約束した。夢に引っ張られたら、起こすって」
白い回路の奥で、小さな影が揺れた。
ララァは、光の海の中央にいた。村の服は水に溶けるように薄くなり、髪は重力を忘れて広がっている。彼女の背後には、無数の声が輪になって漂っていた。死者。生者。まだ死んでいない兵士。もう名前を失った誰か。
ララァはそれらを抱えていた。
抱えきれるはずのない量を、少女の細い腕で。
「離せ」
シローは言った。
「全部、君が持つ必要はない」
ララァは首を振った。
「離したら、この子が壊れる。壊れたら、みんな消える。村も、空の人たちも、あなたも」
「君が壊れても同じだ」
その言葉に、ララァの瞳が揺れた。
彼女は、そんな可能性を初めて誰かに言われたような顔をした。自分が壊れることを、危険として数えた者がいなかったのだ。村も、連邦も、バベルも、彼女を通路として見ていた。声を通す管。恐怖を流す川。神と人間の間に置かれた、細い橋。
橋が折れることを、誰も考えていなかった。
「シローは、どうしてわたしを呼ぶの」
「君が、ララァだからだ」
答えになっていない。けれど、それ以上の答えもなかった。
守護者だからではない。聖女だからでもない。特別な力を持つ誰かだからでも、連邦やジオンが欲しがる何かだからでもない。ガンジスの上の村で彼を助け、火の匂いを聞き、死にたくない音を拾い、夢に引っ張られることを怖がる、ひとりの少女だから。
その事実だけで、彼はここへ来た。
白い眼が、空洞の奥で瞬いた。
シロー・アマダ。
今度は、呼び声ではなかった。
照合だった。
彼の記憶が開かれる。士官学校の廊下。試験機の操縦桿。スレッガーの笑い声。マチルダの忠告。撃墜の瞬間。水の中で見たララァの瞳。人を救うことと、軍の命令に従うことが必ずしも同じではないと気づいた、まだ言葉になる前の感情。
バベルはそれを読んだ。
そして、理解できずに震えた。
殺意ではない。命令でもない。所有でもない。だが、強い。戦場で兵士を動かすには足りず、しかし人間ひとりを白い光の中へ歩かせるには十分な、非効率で矛盾した信号。
バベルには、それがわからなかった。
わからないものを、バベルは恐れた。
光の海が荒れた。ララァの背後に漂っていた声たちが渦を巻き、彼女をさらに奥へ引こうとする。シローの腰に巻かれた命綱の感覚が、遠くで軋んだ。現実の村で、クスコたちが必死に彼を引き止めているのだとわかった。
「ララァ!」
シローは手を伸ばした。
距離など、ここでは意味がないはずだった。それでも彼女は遠い。思念の海は伸ばした手を何度も折り返し、過去の声が彼の腕に絡みつく。
――戦えば守れる。
――従えば生きられる。
――奪えば先に進める。
どれも、戦争が人間に教える簡単な答えだった。
シローはその全部を振り払った。
「違う」
声にならない声で、彼は言った。
「守るっていうのは、相手を自分の正しさに閉じ込めることじゃない」
ララァの指先が、こちらへ伸びた。
ほんの少し。
光の海の中心で、彼女が泣いていた。
「帰っていいの?」
「いい」
「わたしが戻ったら、この子はひとりになる」
シローは白い眼を見た。
恐怖と命令と祈りだけを食わされ、何千もの声で満たされ、それでも何ひとつ理解できずに目を開けた巨大なもの。それを憎むことは簡単だった。だが、憎めばまた同じ声が下へ落ちる。
「ひとりにしない」
シローは言った。
「でも、君が全部になる必要はない。戻れ、ララァ。君の声は、君のものだ」
ララァの手が、シローの手に触れた。
その瞬間、現実の広場で白い繭が大きく脈打った。