ガンダム ゼロ 鳥の人は、まだ歌を忘れていない――U.C.0079、ガンジスに墜ちた|可変試作機《ヴイエフ》 ガンダム×マクロス 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
宇宙世紀0078年、11月。
戦争は、まだ始まっていないことになっていた。もっとも、そういう「まだ」は、たいてい嘘くさい顔をしている。
地球圏の深層では、すでに戦争が起動していた。艦隊配置。補給線。暗号鍵。偽装予算。軍事衛星の死角。あらゆるデータが、音もなく殺意の形へ変換されていく。事務作業のふりをした殺意ほど、質が悪いものはない。
インド亜大陸北部、ガンジス川上流域。
ここはインド管理区の地図上では、連邦の実効統治が薄いことになっている山岳辺境だった。統治が薄い場所には、何かを隠すのに最適な理由がある。地図の余白は、いつも都合よく使い回される。
薄明の空を、1機の大型輸送機が低く滑っていた。IFFは連邦軍を示している。だが、尾翼の部隊番号は消され、航路記録は途中で切断されていた。存在を消すための書類仕事だけは、なぜかいつも丁寧だ。
搭乗者名簿には存在しない人間が、1人だけ乗っている。
シロー・アマダ少尉。
士官学校を出たばかりのパイロットは、窓の外に広がる大地を見下ろしていた。雲の裂け目を、銀色の河が走っている。ガンジス。人類が軌道上に都市を築くよりはるか以前から、死者と祈りと生活を運び続けてきた古いインフラだ。
その河の下に、連邦軍は未来の失敗作を沈めていた。
輸送機が滑走路へ接地した瞬間、シローの身体は座席に押し込まれた。タイヤがアスファルトを焼き、機体フレームが低く鳴る。
窓の外にあったのは、聖地の風景ではない。迷彩ネット。半地下式管制塔。対空機銃。赤茶けた土嚢。砂塵に削られた兵士たちの無表情。観光パンフレットには絶対載らない構図だった。
地図上では、ここは気象観測所だった。通信記録上も、補給記録上も、ただの空白だ。天気を測るだけにしては、ずいぶん物々しい設備だが。
だが格納庫の奥に眠る機体を見た瞬間、シローは嘘の精度を理解した。灰色の機首。折り畳まれた可変翼。腹部に露出するホバー推力ノズル。見たことのない設計思想だった。航空機なのか、モビルスーツなのか、その境界線をわざと踏み越えるような姿をしている。分類に困る子供みたいなやつだ、と思った。
いずれ、これがどこにも記録されない機体になるであろうことだけは、シローにも直感できた。書類の上で存在しないものは、消えるときも静かだ。
美しいというより、危険だった。未来そのものが、まだ熱を持った刃になって置かれている。
「おいおい。新入りが来るとは聞いてたが、ずいぶん顔が硬いじゃねえか」
声は背後から飛んできた。シローが振り向くより早く、肩に重い手が乗る。
男は笑っていた。制帽は斜め。飛行服の前は規定より少し開いている。軍紀の外側で生きることを、わざと楽しんでいるような男だった。
だが目だけが違った。笑っていない。そこには、空で人を殺した者だけが持つ冷たい解像度があった。
「スレッガー・ロウ中尉だ。この空では俺が先輩で、あんたが後輩。階級より先にそれを覚えろ」
本来なら、この基地にいるはずのない男だった。配属記録は2度書き換えられ、飛行時間だけが異常に多い。紙の上では補給航空隊の応援要員。空の上では、明らかにそれ以上だった。
「シロー・アマダ少尉です。本日付で仮配属されました」
「仮、ねえ」
スレッガーは格納庫の奥へ顎を振った。
「ここに来た奴は、だいたい仮で来る。本当の理由を知らされる前に、帰れなくなる。運がよけりゃ生きて戻る。運が悪けりゃ、最初から存在しなかったことになる」
軽口のはずだった。けれどシローは笑えなかった。
スレッガーはその反応を見て、にやりと口角を上げた。
「いいね。その顔だ。怖がってる奴は長生きする。怖がらない奴は、離陸5分で神様に挨拶だ」
その日の午後、シローは基地の輪郭を叩き込まれた。正式名称は、地球連邦軍アジア方面軍インド区第7航空試験施設。長すぎる名称は、だいたい隠したいものの量に比例する。名刺の文字数と後ろ暗さは正比例するらしい。
滑走路は1本。格納庫は3棟。地上設備は簡素に見える。
だが、地下へ向かうエレベーターだけは別物だった。防爆扉。3重認証。未知の研究徽章。壁面に埋め込まれた振動センサー。
兵器試験場にしては深すぎる。研究施設にしては、警備が殺気に寄りすぎている。
地下から、ときどき低い音が上がってきた。
耳で聞く音ではない。骨格に直接入力される振動。遠い雷鳴にも、巨大なサーバーの冷却ファンにも似ていた。
「聞こえたか」
スレッガーが横目で見る。
「地鳴りですか」
「公式にはな。地元の連中は神様の声だと言ってる」
「中尉は信じているんですか」
「俺は見たものしか信じない。だが軍人ってのは、見たくないものまで見せられる職業だ」
その言葉は冗談ではなかった。シローはそう思った。
夕刻、仮設指揮所でブリーフィングが行われた。任務内容は、高濃度ミノフスキー粒子散布下における新型航空兵器の機動データ取得。敵性勢力の接近可能性は低い。交戦規定は自衛に限定。
粒子存在は公表されていない。この試験そのものが、存在しないことになっている技術の、存在しないことになっている試験だった。2重に存在しないというのも、器用な話である。
資料は完璧だった。完璧すぎた。嘘はいつも、整ったフォーマットで提出される。
マチルダ・アジャン少尉が到着したのは、日が沈んだ直後だった。
輸送機のエンジン音が、湿った夜気を震わせた。滑走路灯が点火し、機密コンテナが降ろされる。
タラップを降りてきた女性士官は、背筋だけで周囲の空気を切断していた。短い髪。迷いのない歩幅。補給部隊の士官というより、監査ログそのものが人の形を取ったようだった。
「相変わらず、遅刻はしないんだな」
スレッガーが先に声をかけた。
マチルダは一瞬だけ彼を見た。記憶と痛みが、瞳の奥で短く同期した。次の瞬間には、表情は軍用規格に戻っていた。
「任務ですから。あなたと違って」
「へえ。まだ怒ってる」
「怒るほど暇ではありません」
会話は短い。だが2人の間を流れた沈黙のほうが、はるかに情報量が多かった。過去の詳細は不明だが、あまり穏やかな別れ方をしなかったことだけは、誰にでもわかった。
マチルダはシローへ視線を移した。
「あなたがアマダ少尉ですね。補給部隊のマチルダ・アジャンです。試験機の予備部品と、地下研究区画への監査物資を搬入します」
「地下研究区画……ですか」
マチルダは答えなかった。ただ、滑走路の向こうに広がる暗い山影を見た。
「噂では」
彼女はぽつりと続けた。
「似たような構造物が、地球のあちこちで見つかっているそうです。南極、地中海の海底、シベリアの永久凍土。どれも、公式には存在しないことになっている。太古の羽ある種族が遺した、感応の遺跡群——そう呼ぶ研究者もいると聞きました」
「太古の、羽ある種族」
「
「この基地で見たものを、簡単に信じないでください。聞いたことも、記録されたことも」
「それは、命令ですか」
「忠告です。あなたがまだ、まっすぐものを見られるうちに」
親切なんだか脅しなんだか判断に困る忠告だった。
その夜、シローは眠れなかった。
兵舎の薄い壁越しに、発電機の唸り、虫の声、地下からの低周波が重なっていた。まるで基地全体が、寝言のうるさい同居人と一緒に暮らしているみたいだった。
外周を巡回する装甲車のライトが、窓を白くスキャンする。時計は午前3時を少し過ぎていた。