機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
スレッガーが先に動いた。
死にかけの試験機が、最後の推力を振り絞って赤い影の進路へ割り込む。機首は震え、片翼は風を掴めず、エンジンの音はもう咆哮ではなく咳だった。それでも、スレッガーはそこに機体を置いた。
「おい赤いの。順番待ちって言葉を知らねえのか」
返答はない。
真紅の機体は、速度を落とさずに姿勢だけを変えた。わずかな横滑り。ほんの半機身分のずれ。その小さな挙動だけで、スレッガー機の正面を外し、落下する星のようにシローたちのいる泥の岸へ向かう。
「速い……!」
スレッガーの声には、怒りより先に驚きがあった。
ラルもまた、赤い機体を見ていた。青いザクIは動けない。片膝をついた巨人は、モノアイだけでその軌跡を追う。あの機動には見覚えがない。だが、匂いだけは知っている。自分たちジオンの中にいる、別種の刃。
「所属を名乗れ」
ラルの通信は、鋼のように低かった。
「ここは私の作戦区域だ。無断介入は――」
そこで通信が切れた。
切断ではない。赤い機体の周囲だけ、通信波が滑っていく。声を届ける気がない。命令を受ける気もない。戦場の規則に接続されていない。
シローはララァの前に立った。
武器はない。右腕は震え、左膝は体重を支えきれない。泥の上に立つだけで、意識が何度も暗くなる。それでも、彼は立った。真紅の機体の影が大きくなり、熱風が水面を押し潰す。
クスコがララァを抱えたまま後ずさる。
「やだ。来ないで。ララァは、やっと戻ったのに」
赤い機体は着地しなかった。
片脚のスラスターだけで水面すれすれに静止し、左腕を伸ばす。巨大な金属の手が、泥と風と光を押し分けて降りてくる。人を掴むための手ではない。兵器を持つための手だ。だが、その動きは異様に繊細だった。
ララァの瞼が震えた。
「この声……」
「ララァ!」
シローは手を伸ばした。
その瞬間、赤い機体のコクピットから、初めて声が漏れた。
「面白い」
「連邦の失敗作の中で、君だけが唯一、意味を持って光っていた。それが何なのか、私にはまだわからない。ただ、置いていくには惜しい」
独り言だった。
誰に向けたものでもない。名乗りでも、宣告でもない。ただ、自分の中で既に決定された未来を確認する声。若い。だが冷たい。仮面の下で微笑んでいるような、温度のない声だった。
金属の指がクスコの腕を避け、ララァだけをすくい上げた。
クスコが叫んだ。シローも同時に飛び出した。だが、届かない。ほんの数メートル。人間なら走れば届く距離。けれどそこには、機械の腕と、崩壊した戦場と、歴史そのものの速度差があった。
シローの指先が、ララァの垂れた手に触れかけた。
かすかに、指が動いた。
ララァが目を開けたのか、開けなかったのか、シローにはわからなかった。ただ、頭の奥に小さな水音がした。
――シロー。
それが別れなのか、助けを求める声なのか、あるいは夢の残響なのか、彼には判別できなかった。
赤い機体が上昇した。
水面が円形にへこみ、泥が吹き飛び、シローの身体が後ろへ投げ出される。クスコがララァの名を叫ぶ。ラルが低く唸る。スレッガーが追おうとして、機体を大きく失速させる。
「くそっ、動けよ!」
白い試験機は応えなかった。もう限界だった。エンジンは火を噴き、片翼は空気を掴めない。機体そのものが、これ以上は誰も追えないと告げていた。
青いザクIも動けない。
ラルは、真紅の機体が雲の穴へ向かって上昇していくのを見送った。そこに怒りはあった。だが、それ以上に理解があった。あの赤い男は、戦闘に勝つために来たのではない。
戦争そのものの未来を奪いに来たのだ。
「シャア……か」
後年、この日の行動記録はジオン公国軍の公式資料には残らなかった。シャア・アズナブル大尉が独断で大気圏降下を実施したという事実は、彼の後の経歴に大きな瑕疵となりかねなかったからだ。だがキシリア・ザビ少将は、その報告を握り潰した。青年将校が自らの判断で持ち帰った何かが、彼女の関心を引くに十分だったからである。
その名は通信には乗らなかった。ラルの唇の内側でだけ、苦く転がった。
真紅の影は、最後まで名乗らなかった。
ただララァを抱え、白い雲の裂け目へ消えていく。その軌跡は一瞬だけ星のように見えた。だが星は願いを聞かない。シローの伸ばした手は、空に届かないまま泥へ落ちた。
シローは泥の中で腕を伸ばしたまま、空を見ていた。
届かなかった。
繭から引き戻した手は、空から来た別の手に奪われた。
戦場は、救ったものをそのまま返してくれるほど優しくなかった。
クスコの叫びは、すぐに音にならなくなった。
喉は開いている。息もある。だが、声が現実へ届く前に、空の穴へ吸い上げられていくようだった。彼女は膝をつき、泥に爪を立て、真紅の機体が消えた雲の裂け目を見上げていた。
シローは立ち上がれなかった。
腕を伸ばした姿勢のまま、身体だけが置き去りにされている。指先には、触れかけたララァの温度が残っていた。残っているから、余計にひどかった。失ったものは、存在しなかったものより重い。
「アマダ!」