機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
事件は、翌日には別の名前を与えられた。
地球連邦軍アジア方面軍インド区における、ミノフスキー粒子濃度異常に起因する地下燃料施設の誘爆事故。敵性小規模部隊との偶発接触。民間集落の一部損壊。救助活動により多数を保護。
そこに、バベルという文字はなかった。
ララァ・スンという少女の名も、公式記録のどこにも残らなかった。存在したとしても確認不能。救助対象としても、死亡者としても、捕虜としても分類されない。軍の書類は、彼女を空白で処理した。
空白は、時に弾丸より残酷だった。
シロー・アマダ少尉は、数日後に後方病院へ搬送された。肋骨骨折、右肩脱臼、全身打撲、神経性ショック。診断書には、すべてが医学の言葉で並んでいた。白い光の中で自分の名前を呼ばれたことも、少女の手を握り返した感触も、そこには書かれない。
事情聴取は長かった。
何を見たか。何を聞いたか。ジオンとの接触内容。民間人の行動。地下施設に関する認識。何度も同じ質問が繰り返された。シローは、答えられることだけ答えた。答えたくないことは黙った。黙ったことの多くは、彼自身にもまだ言葉にできなかった。
最終的に彼は、宇宙方面の部隊へ戻されることになった。処分ではない。栄転でもない。見てはいけないものを見た若い士官を、最前線が本格化するまで記録の端へ追いやるための、軍らしい移動だった。
後方病院での再検査で、彼のモビルスーツ操縦適性は異常に高いという報告が出た。未完成の試験機を致命的状況下で最後まで飛ばし続けた事実が、機体との同調能力の証拠と見なされた。数か月後、彼はモビルスーツ操縦課程への転属命令を受け取る。それが後の第08MS小隊への、遠い遠い最初の一歩だった。
出発の前夜、スレッガーが病室に来た。
彼は花束ではなく、缶コーヒーを一本だけ持ってきた。病院の売店で買った安物だった。自分で開け、ひと口飲み、顔をしかめてからシローの枕元に置く。
「まずい。見舞い品に向いてないな」
「それを飲ませる気だったんですか」
「違う。まずさを共有すれば、少しはこの世に戻ってくるかと思ってな」
シローは笑った。笑うと胸が痛んだ。それでも、痛みはありがたかった。まだ自分が白い光の向こうではなく、こちら側にいる証拠だった。
「中尉は、あれをどう報告したんですか」
「機体の計器異常。視界不良。敵味方混在による混乱。便利な言葉は山ほどある」
「信じてないんですね」
「信じる信じないじゃねえ。覚えてるかどうかだ」
スレッガーは窓の外を見た。夜の滑走路に整備灯が並んでいる。あの空で見た白い柱も、真紅の影も、ここからは見えない。
「俺は小難しい理屈は嫌いだ。感応素養だの、未分類感応現象だの、偉い連中が好きそうな言葉は全部まとめて酒の肴にもならねえ。だがな、アマダ。人間が誰かのために命を張った事実だけは、そう簡単に消えねえ」
シローは黙って聞いた。
「軍が何を書こうが、旗が何色だろうが、最後にお前が選んだのは命令じゃなかった。目の前で消えそうな人間だった。それを恥じるな」
「忘れるなよ。忘れなきゃ、負けじゃねえ」
それだけ言うと、スレッガーは缶コーヒーをもう一度手に取り、結局ほとんど飲まずに病室を出ていった。
スレッガー中尉の名前は、ガンジス事件の報告書には残らなかった。彼はまた次の記録されない配属先へ移されていった。サイド6方面。次に彼が公的記録に現れるのは、一年後のソロモン戦域が最初になる。
マチルダ・アジャンは、公式報告書に署名した。
彼女が署名した紙は、ガンジス事件を地下燃料施設の誘爆事故として閉じ込めるための蓋だった。だがペン先が止まった一瞬だけ、彼女は余白に書かれない名を思い浮かべた。ララァ・スン。BABEL CORE。シロー・アマダが握り返した手。