機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
署名欄の上にある文章は、彼女が見たものの何ひとつ語っていなかった。それでも彼女は署名した。署名しなければ、生き残った村人たちの移送も、医療処置も、クスコの保護手続きも止まる。正しさを選べない状況では、被害を少なくすることが唯一の抵抗になる。
クスコ・アルは、連邦軍の保護下に置かれた。
表向きは孤児保護。災害被災者支援。身元確認後、後方施設へ移送。書類にはそう記された。だがマチルダは、その紙が持つ別の意味を知っていた。能力素養。観察対象。未分類データ。軍は人間を救うときでさえ、同時に測定しようとする。
輸送艇へ向かう途中、クスコは一度だけ立ち止まった。
川のほうを振り返る。そこにはもう村はない。白い光もない。バベルの鼓動も聞こえない。ただ、泥に濁った水が、何事もなかったように流れている。
「ララァは、どこへ行ったの」
マチルダは答えられなかった。
代わりに、クスコの手を少しだけ強く握った。子どもを安心させるには足りず、軍の管理から守るにも足りない力だった。それでも、何もしないよりはましだった。
クスコはそれ以上聞かなかった。
ただ、輸送艇のハッチが閉じる直前、彼女は空を見上げた。青い空だった。あの日と同じ、腹が立つほど青い空だった。
そのころ、地球の重力圏を離れつつある小型艇の中で、ララァ・スンは夢を見ていた。
夢の中には、水音があった。
ガンジスの水。川の上の村。クスコの声。濡れた床板。白い光。壊れた神の寝息。そして、手を伸ばしてくる誰かの指。
彼女はその手を掴もうとした。
だが、夢の上から別の声が降りてくる。
低く、穏やかで、冷たい声。
「安心したまえ。君は、私が見つけた」
ララァは目を開けた。
白い天井。無機質な照明。身体に接続された細い計測線。重力が少し軽い。ここは川の上の村ではない。地球でもないかもしれない。
視界の端に、赤い軍服の男が立っていた。
顔の上半分は仮面に隠れている。けれどその奥から向けられる視線は、優しさにも似ていて、所有にも似ていた。救済と支配は、時に同じ手つきをする。
「あなたは……」
「シャア・アズナブル」
男は名乗った。戦場では最後まで伏せていた名を、ここでは静かに差し出した。
「君はもう、あの場所へ戻らなくていい。君の力は、もっと大きな場所で必要とされる」
必要とされる。
その言葉は、村で何度も聞いた言葉に似ていた。だが少し違った。村では彼女は守護者だった。ここでは、力と呼ばれた。
ララァは目を閉じた。
水音が遠ざかる。
記憶は、完全には消えない。ただ、深い場所へ沈められていく。ガンジスの水音。クスコの小さな手。白い光の中で眠ろうとしていた巨大な子ども。そして、自分を夢から起こそうとした少年の声。
――水音。
その奥で、名になりきらない響きだけが沈みきらずに残った。彼女はそれを明確には思い出せない。ただ、水面の下から誰かが呼ぶような、短い音の揺れとして残り続けた。
シャアは、ララァの表情がわずかに揺れたことに気づいた。
「誰かを見ているのかね」
ララァは答えなかった。
答えないまま、彼女は窓の外へ視線を向けた。そこには地球があった。青く、遠く、あまりにも美しい星だった。
美しいものが、いつも優しいとは限らない。
ガンジスの底で眠りについた失敗した神は、もう二度と目を開けない。
だが、その夜に交わされた名と声は、別の戦場へ運ばれていく。
宇宙世紀0079年1月。
戦争は、正式に始まった。
その記録のどこにも、ガンジスの少女の名はない。
ガンジス事件の記録は、その後何度か機密解除の申請を受けた。一年戦争終結後、グリプス紛争前、シャア反乱後。だが担当者は、そのたびに同じ判定を下した。該当ファイル、存在しない。記録されなかった事件は、二度目にも記録されない。それが、記録という装置の唯一の一貫性だった。
後に、この事件の断片的記録を握り潰したのは、連邦側ではレビル中将配下の情報部だった。理由は明白だった。バベルの存在を認めれば、連邦は民間集落を実験場に転用したという汚点を、戦後まで抱えることになる。
ジオン側では、キシリア・ザビの情報網がシャアの独断降下を隠蔽した。その代わりに、彼女は青年将校の内側に一つの疑問を残した。なぜあの少女を連れ帰ったのか、私に説明しないのか。
問われても、シャアは答えなかった。答えるべき言葉を、彼自身がまだ知らなかったからである。
そして遠い未来、誰かが宇宙で彼女の名を呼ぶとき、その声の奥には、かつてガンジスの川辺で彼女を夢から起こそうとした少年の痕跡が、水音のように残り続けている。それがニュータイプと呼ばれるものの、最初の記録されない姿だったのかもしれない。