機動戦士ガンダム UC0078 ガンダム ZERO ララァが戦争の前に壊れた世界の話 ― BABEL CORE―― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
最初に戻ってきたのは、音だった。
水の音。
遠くで鳥が鳴く音。
そして、頭蓋の奥をゆっくり擦るような、低い振動。
シローは目を開けた。
視界は白く滲んでいた。焦点が合わない。網膜にノイズが残っている。墜落時の衝撃で、身体の内部フレームまで組み替えられたような痛みがある。
天井はなかった。
草と木材と古い布で組まれた屋根の隙間から、朝の光が細く差し込んでいる。医療ポッドでも軍用ベッドでもない。彼は土の匂いのする床の上に寝かされていた。
右腕を動かそうとして、激痛が走った。
息が詰まる。
身体はまだ生きている。だが、まともに動くようには設計されていない。
「動かないで」
声がした。
耳からではなく、少し内側から。
けれど今度は、確かに目の前にも彼女がいた。
少女だった。
年齢は14か、15。褐色の肌。長い黒髪。首元には色褪せた布と、金属片を組み合わせた古い護符。瞳は深く、異様に静かだった。
静かすぎる。
戦場の爆音も、墜落の衝撃も、死の匂いも、その瞳の表面では反射しない。ただ奥へ沈んでいく。まるで彼女の内側に、誰にも見えない深い水域があるようだった。
「君は……」
声が掠れた。喉が焼けている。
少女は布を水に浸し、シローの額へ置いた。
冷たさが皮膚に触れる。現実が、ようやく神経へ戻ってくる。
「ララァ」
少女はそう言った。
名前というより、祈りの断片のような響きだった。
「ララァ・スン」
シローはその名を、口の中で反復した。
ララァ。
音としては短い。だが、そこには奇妙な残響があった。水面に落ちた光が、波紋になって広がるような残響。
「ここは……どこだ」
「川の上の村」
答えは短い。情報量は少ない。だが嘘はない。
「基地は」
ララァは首を横に振った。
「遠い。火の匂いは、まだ来ている」
火の匂い。
彼女は方角ではなく、匂いで戦場を測っている。
いや、匂いだけではない。
もっと深いところで、何かを読んでいる。
シローは身を起こそうとした。
ララァの手が、胸の上に置かれる。
小さな手だった。だが、不思議な重さがあった。命令ではない。拒絶でもない。ただ、世界の正しい位置をそっと戻すような圧力。
「動くと、また血が出る」
「君が助けてくれたのか」
「水が、あなたを運んできた」
「水が?」
「あなたの機械も。壊れている。けれど、まだ死んでいない」
機械。
試験機のことだ。
シローの意識に、墜落直前の記憶が断片で戻る。警告音。赤いモノアイ。河面。内側に落ちた声。
――来て。
「あれは、君の声か」
ララァの指が、わずかに止まった。
それは、明確な動揺だった。
「……声なのかどうか、わからない」
「でも聞こえた。頭の内側に、直接落ちてきた」
ララァの指が、布を絞る動きを止めた。彼女はしばらく黙っていた。川の音。鳥。遠くで子どもが呼ぶ声。それらが揃って静止するほどの沈黙だった。
「あなたが落ちてくる音。怖い音。燃える音。死にたくない音。それが全部、一度に入ってきた」
「それで、来い、と思ったのか」
ララァは細い眉をわずかに寄せた。
「思ったんじゃない。なった。その音が、わたしの中に来たから、来ていいと思った。来てほしかったのか、来なければよかったのか、今もわからない。ただ、あなたが川に落ちて、水が受け止めた。それを見て、よかったと思った」
シローは天井の隙間から差し込む光を見つめた。木の節目に詰められた古い布が、風もないのにわずかに揺れている。
「ガンジスの底に、何かいる」
ララァは答えなかった。かわりに彼女の手が止まり、視線が床の隙間へ落ちた。川の音が、ほんの少しだけ変わった気がした。
「君は、それを聞いたことがあるか」
「毎日」
ララァは静かに言った。
「夜も、朝も、眠れない夜は特に。あの声は、ずっとそこにいる。でも言葉じゃない。言葉より前のもの。恐怖より前のもの。誰かが、ずっと誰かを呼んでいる」
「君は、怖くないのか」
「怖い。でも慣れた」
その「慣れた」という言葉が、シローの胃の奥に落ちた。慣れていいことではない。慣れるべきではない。だが彼女の目を見ると、それが責める言葉を持てないほど長い話だということがわかった。
「村の長老たちは、あれを神だと言う」
「神じゃない」
ララァは断言した。その静けさには、幼さがなかった。
「神なら、もっとうまく人間と話せる。あれは、声の出し方を知らないだけ。叫ぶことしかできない子みたいに、ただ大きな音でいる」
「そういうものを、君は毎日聞いているのか」
ララァはうなずいた。そしてシローを見た。今日初めて出会ったはずの人間を、ずっと前から知っているような目で。
「あなたの声は、違う」
「俺の声が?」
「あの大きな声とは、違う形をしている。怖いのに、怖がらせようとしていない。殺意があるのに、誰かを傷つけたくないと思っている。そういう声は、ここには来ない。外からしか、来ない」
シローは息を止めた。
そのとき、外で誰かが叫んだ。
「ララァ!」
高い声だった。怒鳴っているのに、どこか跳ねるような明るさが混じっている。
戸口の布が勢いよくめくれ、少女が飛び込んできた。
ララァより幼い。12か、13。大きすぎる瞳。細い手足。乱れた髪に、壊れた機械部品を加工した小さな飾りを挿している。
走ってきたせいで息が乱れている。だが視線だけは、異様に速く動いた。
シロー。包帯。血。ララァの手。軍服。
彼女は、0.5秒で状況を読んだ。
「ほんとに連邦の兵隊さんだ」
「クスコ」
ララァの声が、わずかに低くなる。
「外にいて」
「無理。村じゅう大騒ぎだよ。長老たちが来る。ララァが境界の外の男に触ったって」
境界の外の男。
その言葉だけで、室内の温度が変わった。
ララァの表情はほとんど動かない。だがシローにはわかった。彼女の内部で、何かが防御姿勢を取った。
「クスコ・アル。私の妹みたいな子」
ララァは短く紹介した。
クスコは胸を張る。
「妹みたいじゃなくて、妹でいいよ。ね、お兄さん、飛ぶ機械に乗ってたんでしょ? あれ、まだ川辺にあるよ。煙は出てるけど、爆発はしてない。たぶん」
「たぶん、で済ませるな」
シローは反射で言った。
痛みで声は弱かったが、クスコはなぜか嬉しそうに笑った。
「怒った。生きてる証拠だ」
「クスコ」
ララァがもう一度名を呼ぶ。今度は制止ではなく、警告だった。
クスコの笑みが少しだけ消える。
外のざわめきが近づいていた。
複数の足音。低い声。布越しに動く影。
銃声より静かで、銃声より重いものが近づいてくる。