機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
外へ出ると、朝の光が水面で砕けていた。
村は、本当に川の上にあった。
無数の杭が流れの中に打ち込まれ、その上に細い床板と小屋が継ぎ足されている。木材、竹、廃材、古い装甲板。時代も用途も違う素材が、祈りと必要だけで結び直されたような集落だった。
足元の板の隙間から、茶色い水が流れている。速い。静かに見えて、底では強い力が渦巻いている。川は道であり、壁であり、墓でもあった。
村人たちは距離を取っていた。
見ていないふりをしながら、全員が見ている。子どもは母親の背に隠れ、老人は護符を握り、若い男たちは手ぶらのまま通路の端に立つ。武器を持たないことが、かえって敵意の純度を高くしていた。
「人気者だな、俺は」
シローが皮肉を言うと、クスコは肩をすくめた。
同じころ、マチルダの受信ログには、連邦救難部隊でもラル隊でもない短い未識別反応が一度だけ残っていた。距離は遠い。だがその信号は、まるで誰かがこの空を上から見ているように、すぐに消えた。
「外の人間は珍しいから。生きてる外の兵隊は、もっと珍しい」
「死んでいれば歓迎されたか」
「少なくとも、喋らないからね」
クスコの冗談は明るかった。だが明るさの下に、村で長く生きるための諦めが透けていた。
ララァは何も言わず、前だけを見て歩いている。
いや、歩いているというより、音のない地図を辿っていた。板の軋み、川の流速、村人たちの息、遠くの鳥、さらにその奥にある低い振動。彼女はそれらを重ね合わせ、見えない経路を選んでいる。
村の端には、赤い布が何本も結ばれた門があった。
門と呼ぶには粗末だった。2本の柱と、そこに巻かれた布だけ。だが村人たちはその前で足を止めた。老人も、若い男たちも、誰ひとりとしてそこから先へは出ない。
「ここが境界?」
シローが訊く。
ララァは頷いた。
「ここから先は、神の声が乱れる場所」
「本当は?」
ララァは少しだけ横を見た。
「本当に、乱れる」
その瞬間、シローの耳鳴りが変わった。
低周波の奥に、別の信号が混じる。規則正しい。軍用通信ではない。だが、完全な自然音でもない。壊れた心電図のような、機械が夢を見ているような、奇妙なパルス。
ララァの指が、シローの袖を強く掴んだ。
「近い」
「俺の機体が?」
「違う」
彼女の声は、初めて震えていた。
「下にいるもの」
川辺の葦原に、墜落機は半ば埋もれていた。
機首は水に突っ込み、左翼は裂け、右翼は根元から消えている。機体下面の装甲は剥がれ、ホバー推力ノズルの一部が黒く焼けていた。墜落というより、川と大地に食い千切られた残骸だった。
それでも、死んではいなかった。
胸部ユニットの奥で、非常用電源の赤いランプが点滅している。間隔は不安定だが、消えてはいない。機体はまだ、かろうじて自分が何であるかを覚えていた。
「うわ」
クスコは恐怖ではなく、感嘆の声を漏らした。
「骨が中にあるんだ。鳥みたい。でも鳥よりずっと乱暴。ここ、折れてる。ここは焼けたんじゃなくて、内側から飛んだ。こっちの管はまだ生きてるかも」
彼女は迷わず残骸へ近づいた。
「触るな。爆発する可能性がある」
シローが言うと、クスコは振り返らずに答えた。
「爆発するなら、もうしてる。これは今、我慢してる音」
シローは返す言葉を失った。
ララァだけは、機体を見ていなかった。
彼女は葦原の向こう、川の流れの下を見つめている。水面には何もない。だがその視線は、さらに深い場所を射抜いていた。
「ララァ?」
シローが呼ぶ。
ララァは答えない。
かわりに、試験機の非常用モニターが突然点灯した。
割れた表示面に、砂嵐のようなノイズが走る。次いで、意味をなさない数字列。測距データ。地形スキャン。地下反射波。機体が墜落後も自動で拾い続けていた情報が、死にかけた神経のように断続的に吐き出される。
シローは膝をつき、痛みを無視して画面を覗き込んだ。
「地下構造……?」
画面には、川底の下に広がる巨大な空洞が映っていた。
自然の洞窟ではない。直線が多すぎる。深度も、規模も、地形と合っていない。基地地下で感じた低周波と同じ周期が、その空洞の中心から発生している。
そして、表示の端に、破損した文字列が浮かんだ。
BABEL CORE / GAN-03
識別子の下には、さらに短い注記が欠けた文字で残っていた。大気圏内感応共鳴試験設備。被験者を通路として用いる初期型制御系。理論未確立、再現性不良。
シローの背筋を、冷たいものが走った。
バベル。
それは、ブリーフィング資料のどこにも存在しなかった名称だった。
「ねえ」
クスコの声が、急に細くなった。
「これ、下から見られてる」
直後、川面が一度だけ、内側から膨らんだ。
水は音を立てなかった。
ただ、巨大な肺が川底で息をしたように、濁った水面が丸く持ち上がり、すぐに元へ戻った。葦が一斉に同じ方向へ倒れ、泥の中にいた小さな生き物たちが、逃げるように跳ねた。
シローは反射的にララァの肩を掴んだ。
「下がれ」
だがララァは動かなかった。瞳孔がわずかに開き、呼吸が浅くなる。彼女はそこに立っているのに、意識だけが川底へ沈んでいくようだった。
「……たくさんいる」
その声は、ララァのものに聞こえなかった。
「眠ってる。でも、夢を見てる。壊れた夢。誰かが、ずっと呼んでる」
クスコの顔から血の気が引いた。
「ララァ、その聞き方はだめ。戻ってきて」
戻る、という言葉にシローは違和感を覚えた。
ララァは単に何かを感じているのではない。彼女自身の一部を、あの地下構造へ伸ばしている。そう直感した瞬間、シローの背筋に寒気が走った。
試験機の非常用モニターが激しく明滅した。
警告表示が連続して走る。外部入力。識別不能。同期失敗。神経系補助回路、異常励起。
「おい、待て。こいつはまだ送信系が死んでるはずだ」
シローが機体へ手を伸ばした瞬間、割れた通信パネルに赤い文字が浮かんだ。
EMERGENCY BEACON ACTIVE
「まずい」
ビーコンは救難信号だ。味方へ位置を知らせるための最後の命綱。だが今、この場所で鳴れば意味が変わる。連邦だけではない。ミノフスキー粒子の薄い層を抜ければ、近くにいるジオンの索敵機にも拾われる。
村の場所が、戦場になる。
「止められる?」
クスコが訊く。
「通常なら、コクピット内の遮断スイッチで切れる。だが電源系が半分死んでる。外部から強制停止するしかない」
「外部って、どこ」
「機体下面。燃えてるところの奥だ」
クスコは一瞬だけ考え、すぐに残骸へ駆け寄った。
「だから触るなと言ってる!」
「触らなきゃ止まらないでしょ!」
クスコの返答は正しかった。正しすぎて、シローは反論できなかった。
彼女は小さな身体を機体下面へ滑り込ませた。焼けた金属の臭いが立ちのぼる。水で冷えたはずの装甲は、まだ触れれば皮膚を奪う温度を残していた。
シローは片膝で身体を支え、破損した外板を押し上げた。肋骨が悲鳴を上げる。視界が白くなる。だが外板は少しだけ持ち上がった。
「右奥、黄色と黒のケーブル束。その先に手動遮断ピンがある」
「見えない!」
「手探りでいい。丸い輪が付いてる」
その間も、ララァは川を見つめていた。
彼女の唇が、音にならない言葉を形作る。
来ないで。
それが誰に向けた言葉なのか、シローにはわからなかった。
地下の何かへか。
それとも、こちらへ近づいてくる戦争そのものへか。
クスコの指先が、ようやく輪に触れた。
「あった!」
「引け!」
ピンが抜けた瞬間、試験機の赤いランプが消えた。
静寂。
しかし、それは勝利の静けさではなかった。
通信パネルには、最後の送信ログが残っていた。
BURST TRANSMISSION COMPLETE
シローは奥歯を噛んだ。
間に合わなかった。
粒子濃度は既に低下し始めていた。バベルが起動したせいだ。機械の呼気が、粒子場に小さな穴を開けていた。