機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
川辺では、シローたちがまだ残骸のそばにいた。
ビーコンは止まった。だが、止まったからこそ、周囲の音が不自然に大きく聞こえる。水の流れ。葦の擦れる音。遠くの鳥。シロー自身の荒い呼吸。
そして、その向こうから近づいてくる、まだ聞こえないはずの戦争の足音。
クスコが機体の下から這い出してきた。手の甲は赤く腫れ、煤で黒く汚れている。
「止めたのに、止まってない感じがする」
「信号は出た。場所は知られた」
シローは言った。
「俺の味方が来る。敵も来る」
クスコは村の方角を見た。
「長老たち、怒るね」
「怒るだけならいい」
シローはララァを見た。
彼女はまだ川面を見ている。
その表情は、恐怖ではなかった。
もっと遠いものを、先に悲しんでいる顔だった。
「ララァ」
シローが呼ぶと、彼女はようやく振り向いた。
「来る」
「連邦か、ジオンか」
「どちらも」
ララァは小さく息を吸った。
「でも、先に来るのは人じゃない」
直後、川底から、もう一度低い鼓動が響いた。
今度は、村の方から悲鳴が上がった。
それは一人の声ではなかった。
複数の悲鳴が、板張りの通路を伝って重なり合う。子どもの泣き声。女の叫び。男たちの短い怒号。村全体が、見えない手で一度に握り潰されたように震えていた。
ララァが走り出した。
「待て、君は――」
シローの制止は最後まで形にならなかった。ララァはすでに葦原を抜け、境界の赤い布へ向かっている。足取りは速い。だが逃げているのではない。呼ばれた場所へ戻る者の動きだった。
クスコが歯を食いしばり、煤だらけの手でシローの袖を掴んだ。
「行かないと。ララァ、ひとりだと戻れなくなる」
「戻れなくなるって、どこからだ」
クスコは答えなかった。
答えられないのではなく、答えれば現実になると知っている顔だった。
シローは立ち上がろうとして、膝から崩れかけた。肋骨の奥で火花が散る。だが、村の悲鳴がもう一度上がると、痛みは一段奥へ押し込まれた。
軍人としてではない。
目の前で誰かが危険な場所へ向かった。それだけで、身体は動く理由を持ってしまう。
「案内しろ」
クスコは一瞬だけ泣きそうな顔をした。次の瞬間には、いつもの無鉄砲な顔に戻っていた。
「こっち。板が抜けるところ、踏まないで」
村へ戻る道は、来たときよりも長く感じられた。
赤い布の門を越えた瞬間、空気の密度が変わる。湿った木の匂い、煮炊きの煙、汗、恐怖。そのすべての下に、川底から上がってくる低い鼓動があった。
ずん。
板が鳴る。
ずん。
吊るされた護符が一斉に震える。
ずん。
人の声が、少しずつ意味を失っていく。
広場にあたる少し広い床板の上で、村人たちが輪を作っていた。その中心で、ひとりの少年が膝をつき、両耳を押さえて震えている。母親らしき女が抱きしめようとするが、少年は触れられるたびに激しく身をよじった。
「やめて、やめて、下から見てる、下から――」
少年の言葉に、シローは背筋を凍らせた。
クスコが残骸の前で言ったのと、同じ表現だった。
ララァは輪の内側に入っていた。
長老たちが何かを唱えている。祈り。命令。古い言葉。だがその響きは、低周波に押し潰され、途切れ途切れにしか聞こえない。
「声の守護者よ、鎮めろ」
老人が叫ぶ。
「お前の務めだ。神の怒りを受け止めよ」
ララァは少年の前に膝をついた。
その顔は静かだった。静かすぎた。シローには、それが彼女自身の平静ではなく、何度も強いられて覚えた表情に見えた。
彼女は少年の手に触れようとした。
その瞬間、少年が顔を上げた。
瞳の焦点が合っていない。
「おまえじゃない」
少年は、少年の声ではない声で言った。
「星を呼んだのは、おまえじゃない」
広場の空気が凍った。
ララァの指が止まる。
シローの脳裏に、墜落直前の声がよみがえった。
――来て。
あれはララァの声だったのか。
それとも、ララァを通して、もっと深いものが呼んだのか。
少年の身体が跳ねた。
床下の水が、逆流するように泡立つ。板の隙間から白い泡が吹き上がり、吊るされた護符がばらばらに鳴った。
長老の顔が恐怖で歪む。
「禁忌が戻ってきた……」
「違う!」
シローの声が、思ったより強く出た。
村人たちが一斉に振り向く。敵意と恐怖と嫌悪が、負傷した外の軍人へ突き刺さった。
それでもシローは続けた。
「これは神じゃない。地下に人工構造物がある。機械だ。何かが起動しかけている」
「外の者の言葉だ!」
誰かが叫んだ。
「外の者が神を怒らせた!」
その叫びが火種になりかけたとき、ララァが立ち上がった。
「怒っていない」
小さな声だった。
だが、広場の全員が聞いた。
「泣いている」
低い鼓動が、一瞬だけ止まった。
ララァは少年の額に手を置いた。
「大丈夫。あなたを見ているんじゃない。あなたの中にある、怖がっている音を見ているだけ」
少年の震えが、少しずつ弱くなる。
ララァの顔色は逆に白くなっていった。
シローは思わず一歩踏み出す。
クスコが小さく首を振った。
止めるな、という意味ではない。
止めても、もう遅い、という意味だった。
ララァは目を閉じた。
次の瞬間、村中の音が一点へ吸い込まれた。
水音も、泣き声も、祈りも、木の軋みも、すべてが彼女の小さな身体へ集まっていく。ララァはそれを受け止め、整理し、折り畳み、どこか見えない深い場所へ流しているようだった。
やがて少年が泣き出した。
今度は、普通の子どもの声で。
母親が彼を抱きしめる。村人たちの間に、安堵が広がった。
だがシローには、その安堵がひどく残酷に見えた。
誰もララァを見ていない。
助かった少年を見ている。鎮まった神を見ている。役目を果たした守護者を見ている。
けれど、倒れかけた少女自身を見ている者は、ほとんどいなかった。
シローが支えた。
ララァは驚いたように彼を見上げる。
「無理をするな」
「無理じゃない」
ララァはかすかに笑った。
「いつものこと」
その言葉が、シローには最も許せなかった。
長老が近づいてくる。
「守護者よ、よく鎮めた」
ララァは返事をしない。
老人はシローを睨んだ。
「見たか、外の軍人。これがこの村を守る声だ。お前たちが持ち込む火とは違う」
「守っているのは、彼女じゃない」
シローは低く言った。
「彼女が壊れながら、あなたたちを守らされているだけだ」
長老の顔から、血の気が引いた。
その表情には、怒りより先に恐怖があった。
言葉が真実に近すぎるとき、人は反論ではなく拒絶を選ぶ。老人の唇が震え、杖を握る指に力が入った。
「外の者が、何を知る」
声は低かった。だが広場にいた村人たちは、その低さに縋るように顔を上げた。誰かが責められるなら、自分たちは考えずに済む。恐怖に名前を与えれば、恐怖そのものを理解した気になれる。
「この子は、村に生まれた。村の声を聞くために生まれた。お前たちの火から、われらを守るために」
「生まれた理由を、他人が決めるな」
シローの声は荒れていた。痛みで息が短くなり、視界の端がまた暗くなる。それでも、言葉だけは引けなかった。
「彼女は装置じゃない。祈りでもない。あなたたちの不安を流し込む器でもない」
広場にざわめきが走った。
長老の後ろにいた男のひとりが一歩踏み出す。クスコが反射的にシローの前へ出た。小さな身体で、負傷した兵士を庇うにはあまりに頼りない。それでも彼女は退かなかった。
「やめなよ。今ここで喧嘩したら、板が落ちる。ほんとに落ちるよ」
冗談めかした声だったが、足元の床板は実際に軋んでいた。
ずん。
また鼓動が来た。
今度は、低いだけではなかった。床下の水が細かく震え、広場の中央に置かれていた土器の水面が、円ではなく直線の波紋を描いた。
自然の揺れではない。
シローはそれを見て確信した。これは地鳴りでも、地下水脈でもない。何かが位相を合わせようとしている。巨大な機械が、長く眠っていた神経を一本ずつつなぎ直している。
ララァが小さく呻いた。
シローの腕の中で、彼女の身体が急に重くなる。さっき少年から受け取った何かが、まだ彼女の内側で燃えているのだとわかった。
「ララァ?」
彼女は答えようとした。だが声になる前に、唇から別の言葉がこぼれた。
「星が……落ちてくる」
村人たちが空を見上げた。
昼の空には何も見えない。雲がゆっくり流れ、鳥が遠くで旋回しているだけだ。だがシローは、ララァの言葉が比喩ではないと感じた。
星。
宇宙からではない。空から来るもの。金属の腹を持ち、火を噴き、座標へ向かって落ちてくるもの。
回収部隊。
あるいは、降下部隊。
「まずい」
シローは広場の外、村の端へ視線を走らせた。赤い布の境界の向こうに、川と葦原と墜落機がある。そのさらに先の空が、ほんのわずかに震えていた。
まだ音は届かない。
だが、戦場の空気を知った身体が先に理解していた。
近づいている。