機動戦士ガンダム BABEL CORE―第08MS小隊、シロー・アマダが見た「もう一つの一年戦争」と、ララァ・スンが名前を得る前の記録― 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
「撃つな……」
シローは呟いた。
だが、その声は空へ届かない。
届くのは、もっと深い場所だった。
川底から、今までで一番大きな鼓動が返ってきた。
鼓動は、音ではなかった。
それは地面でも水でもなく、人間の胸郭を内側から叩いた。村人たちが一斉に膝をつき、吊るされた護符が千切れそうに鳴る。連邦艇の姿勢制御灯が乱れ、ジオン降下艇の機首がわずかに沈んだ。空を飛ぶ機械でさえ、川底からの見えない手に首を掴まれたように揺らいだ。
「こちら連邦救難部隊、ジオン機へ警告する。民間集落上空での武装展開を停止せよ。繰り返す、停止せよ」
拡声器の声は冷静だった。冷静すぎた。訓練された声は、ここにいる人間がどんな顔をしているかを知らない。下にある床板の薄さも、子どもの泣き声も、ララァの白くなった唇も知らない。
ジオン側から返答があった。
「こちらジオン公国軍ランバ・ラル大尉。貴官らが先に砲口を向けている。民間人を巻き込みたくなければ、そちらこそ高度を上げろ」
その声を聞いた瞬間、シローの身体が強張った。夜明け前の空で聞いた声と同じだった。撃ち落とした相手を侮らず、怒鳴りもせず、ただ戦場の事実だけを積み重ねる声。
青いザクIは、村から少し外れた川岸へ降りようとしていた。あくまで集落の直上を避けている。だが連邦艇はそれを降下強襲と判断し、照準を追従させる。ジオン降下艇の砲門も連邦艇を捕まえる。
誰かが、あと半秒早く恐怖に負ければ、すべて終わる。
シローは走った。
走る、というには無様だった。負傷した身体はまっすぐ進まず、右腕は使い物にならない。足元の板は濡れて滑り、肋骨の奥で熱い針が折れる。だが彼は村の端に置かれていた古い通信機へ向かった。連邦軍が村へ貸与したという名目で設置し、実際には監視と連絡のために使っていた簡易無線機だった。
「何をする!」
長老が叫ぶ。男たちが止めようとする。クスコがその前に飛び出し、両手を広げた。
「邪魔したら、みんな焼けるよ!」
その声には、子ども特有の甲高さと、機械を見て理解した者の確信があった。男たちは一瞬だけ足を止めた。その一瞬で、シローは通信機へ辿り着いた。
機器は古い。軍用の暗号端末ではなく、村の行政連絡用に偽装された短距離送信機だ。だが周波数帯はわかる。救難部隊の近接回線へ割り込める可能性がある。
シローは血のついた指でダイヤルを回した。
「こちら、地球連邦軍シロー・アマダ少尉。救難部隊、応答せよ」
雑音。
「アマダ少尉? こちら救難艇、本人確認を――」
「確認は後だ! 撃つな! この村の下に未確認の地下施設がある。上空で交戦すれば、施設が反応する。民間人がいる。繰り返す、撃つな!」
回線の向こうで沈黙が落ちた。
次に割り込んできたのは、救難艇の兵士ではなかった。
「おい新入り、生きてるなら最初にそう言え。こっちは心配で退屈するところだったぜ」
スレッガーの声だった。
シローは一瞬だけ目を閉じた。安堵する余裕はない。だがその声が、戦場の中に一本だけ現実の線を引いた。
「中尉、上空の連邦機を下げてください。ジオンも撃てば、村ごと巻き込まれます」
「そいつは俺も賛成だが、向こうの青い旦那が聞き分けよく帰ってくれるかね」
「聞かせます」
シローは周波数を開いたまま、送信出力を限界まで上げた。古い通信機が悲鳴のような高音を吐く。村人たちが耳を塞いだ。ララァだけが、彼を見ていた。
「ランバ・ラル大尉」
空の青い機体が、わずかに頭部を向けた。
「こちらは、あなたに撃墜された連邦軍パイロットです。この村には民間人しかいません。あなたが武人なら、ここを戦場にしないでください」
空気が止まった。
連邦艇も、ジオン艇も、そして村人たちも、その言葉の行方を待った。
やがて、ノイズの奥からラルの声が返ってきた。
「名を聞こう、若い連邦兵」
「シロー・アマダ少尉」
「覚えておこう。アマダ少尉。私は民間人を撃つためにここへ来たのではない」
青いザクIの腕が上がる。ジオン降下艇の砲門が、ゆっくりと閉じた。
「だが、連邦が隠したものは見届ける。それが我々の任務だ」
その言葉を聞いたマチルダの声が、別回線から割り込んだ。
「アマダ少尉、その場を離れてください。あなたがいる場所は、連邦軍管理区域です。民間人の保護を最優先に、こちらで対応します」
「マチルダ少尉」
「説明は後です。今は動いて」
その声には、命令と恐れが混じっていた。シローは初めて、彼女がこの場所の本当の危険を知っているのだと理解した。
だが、もう遅かった。
村人の恐怖は、すでに十分すぎるほど地下へ落ちていた。空の兵器が発する推進音。照準装置の微弱な電磁ノイズ。人間の不安、怒り、敵意。すべてが川底の巨大な器へ注がれていく。