夕闇が静かに忍び寄る山奥の静寂の中。茜色から深い藍色へと刻一刻と表情を変えていく薄暮の空の下、風にそよぐ樹木の葉擦れの音だけが、緩やかに二人を包み込んでいた。
先ほどまでの堰を切ったように溢れ出した感情の奔流。恭平の灰色の作業着の胸元を熱い涙でぐしゃぐしゃに濡らしていたモモは、ようやくその胸を離れると、木々に囲まれた柔らかい土の上で、先程までの大泣きが嘘だったかのように、しおらしく照れ笑いを向けてきた。
「えへへ……。ごめんね? いきなり泣いちゃって」
その目尻には、未だ微かに水晶のような涙の破片が浮かんでいた。泣き腫らした金の光彩を宿す瞳と、薄く朱を差したように赤くなった可憐な頬と鼻先。
数分前の意地悪でマイペースな態度からは想像もつかない、あまりにも小さく、儚げな少女の素顔だった。胸を預けられていた恭平は、目のやり場に困ったように気まずそうに視線を泳がせ、頭の後ろを手でガリガリと掻いた。
胸元に残る、彼女の温かい涙の湿り気と体温が、作業着越しにじんわりと熱く伝わってくる。
「……気の利いた事は言えねぇ。ただ、胸を貸すぐらいならできる。お前は……モモはもう独りじゃない。これからは、ずっと俺がついててやるから」
口にするだけで顔が火照ってくるような、柄にもない言葉。 照れくささを隠すように横を向いて吐き捨てた恭平だったが、その最後の言葉──「もう独りじゃない」という一言だけは、真っ直ぐにモモの目を見つめ、低く力強い本気の真剣さを込めて告げていた。
自分自身もまた、崩壊した世界の中で人間としての存在意義を見失いかけていた。だがもう違う。お互いの温もりを知った今、この果てしない絶望の世界の中で、二人はもう決して独りではないのだ。
「っ……あぁ……やばぁ、また泣いちゃうぅ……」
その不器用でありながら、これ以上ないほど温かい優しさに満ちた言葉に、モモの視界が再び潤んでいく。
胸の奥がじんわりと熱くなり、またしても大粒の涙が零れ落ちそうになるのを、彼女は作業服のダボついた袖口でゴシゴシと必死に拭った。
そんな感動的な雰囲気に耐えかねたのか、あるいは急激に深まっていく夜の冷気を察したのか、恭平は申し訳なさそうに額を指先で突きながら、現実的な課題を口にした。
「……あーっと、そろそろ戻らねぇと、完全に日が暮れちまうから、その」
「うん……じゃあ抱っこで連れてって」
涙をぬぐったモモは、さも当然と言わんばかりの納得した表情で、突拍子もない要求を突きつけてきた。華奢な両手を可愛らしく恭平に向かって差し出し、おねだりするように上目遣いに見つめてくる。
「いや待て、もうガキじゃねぇんだぞ?それに両手が完全に塞がるじゃねぇか。途中でゾンビに襲われたらどうすんだ」
「わがままだなぁ、オニは……」
恭平の至極まっとうな理屈に対し、モモは小生意気にも「ふぅ」と深いため息をついてみせた。
「……これ俺が悪いのか?」
「オニが悪い。でも私は優しいから肩車で許す」
モモはぷくっと頬を膨らませながら細い腕を組み、ジトッとした眼差しを恭平に向けてくる。そのあまりにも理不尽な妥協案に、恭平は引きつった表情を浮かべた。
「……自分で歩くという選択肢はねぇのかよ。足、怪我してねぇだろ」
「何言ってるの? 美少女を肩車出来るんだよ? むしろ『業界』ではご褒美でしょ? 感謝してほしいくらいなんだから」
「またその偏った知識……。誰だよ余計なこと吹き込みやがったヤツは……。ろくな大人じゃねぇな」
恭平は遠い目をして、顔も名前も知らない、かつての実験施設にいたであろうオタク知識豊富な変態研究員の顔を思い浮かべた。
自分たちが兵器として扱われていたあの白い部屋で、無邪気なモモにアニメや漫画の歪んだサブカル知識を「情操教育」と称して吹き込んでいただろう狂った大人たちに対し、激しい恨み言を心の中で呟くのだった。
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数分後。
結局、モモのしつこい粘りに根負けした恭平は、彼女を自分の肩の上へと乗せ、山道を下って住宅街へと足を踏み入れていた。
背中まで伸びる艶やかな黒髪を夕風になびかせ、恭平の首元にしっかりしがみつきながら、モモは興味深そうに金色の瞳を輝かせて周囲を見渡している。
ダボダボの灰色作業着を着た小柄な美少女を、驚異的な体幹と背筋で微動だにさせず肩車して歩く青年。滑らかな足取りで歩く姿は、傍から見れば緊急事態であることも忘れて堂々とイチャつくバカップルそのものの光景だった。
だが、二人の周囲の情景は、そんな微笑ましい空気とは真逆の、目を背けたくなるような地獄絵図だった。アスファルトの上には、絶望の表情を浮かべたまま息絶えた住民らしき遺体が至る所に転がり、赤黒い血だまりが道一面に広がり、冷えて乾ききっている。
そして、その腐臭と生温かい肉の臭いに引き寄せられた感染者たちが、物言わぬ肉塊をむしゃむしゃと貪る凄惨な光景が広がっていた。
「わぁ、これが日本の普通の住宅街なんだねー。なんか赤黒いのが多いね」
「いや普通じゃねぇから、日本の住宅街舐めんな。これが日常だったら日本はとっくに滅んでるわ」
のほほんとした呑気な口調で、歪んだ日本の知識を学習しそうになるモモに対し、恭平はすかさず容赦ないツッコミを入れた。しかし若干妙な言い回しになってしまったことに気付き、恭平は片手で額を押さえた。
「……生存者は、居ねぇか。ったく、パンデミックからたった数日でこの有様かよ。まぁ自衛隊が地方まで手を伸ばせねぇのも無理はねぇか。最悪なタイプのゾンビ共だからな」
恭平は溜息を吐きながら、暗がりからシャカシャカと不気味な足音を立てて疎らに襲いかかってくる感染者に対し、肩車のバランスを一切崩すことなく、鋭い前蹴り一閃で首骨を砕いて吹き飛ばした。コンクリート壁に激突し、ぐにゃりと首を曲げて動かなくなるゾンビ。
「ゾンビって、今の面白い顔で襲って来たコレ?」
モモは恭平の頭を両手でガシッと掴むと、強引に首を横へと回転させ、転がっている感染者の顔を指差して問いかけてきた。内心(無理矢理顔動かさせなくても良いだろ……)と愚痴る恭平だったが、彼女にこの世界の危険性を教えるため、丁寧に説明してやることにした。
「あぁ、気持ち悪ぃ顔で人間を喰らう化け物だ。噛まれたら数時間でウイルスが回ってアイツらの仲間入りだ。お前がもしゾンビ化したらマジで人類滅ぶから気を付けろよ」
「えへへ〜。オニったらそこまで褒めなくても〜」
「……今の会話のどこに褒める要素があったんだよ?」
恭平の髪をわしゃわしゃと愛おしそうに掻き乱し、蕩けきった甘い声音で喜ぶモモ。 恭平の制止も聞かず、彼女は楽しそうに彼の頭の上で体を左右に揺らしている。
「でも何だか親近感湧くんだよね〜。面白い顔だからかな?私達に似てるような〜、う〜ん」
「ちょっと待て、俺とモモがなんでアイツらと似てる判定なんだよ。見た目も知性も何もかもが違ぇだろ」
「えーわかんないけど、なんか直感? 私の魂が叫んでる?的な?」
「……ふわふわし過ぎだろ」
恭平は呆れたように吐き捨てたが、このパンデミックを引き起こしたウイルスの構成。 どこかで不気味に繋がっているのではないかという嫌な予感が、恭平の脳裏を一瞬掠める。
「わぁ、オニって『ふわふわ』とか言うんだ。可愛い」
「……」
恭平はもう突っ込むことを諦めた。 本格的に日が暮れ始め、街の影が濃い黒へと染まっていったこともあり、彼は無言のまま足を動かす速度を速めるのだった。
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時間にして五分程駆け、避難所の門前まで辿り着いた二人。 影のように滑らかな疾走により、あっという間に避難所の敷地前へと到着していた。
ひび割れたアスファルトの先には、乗用車やトラックを乱雑に積み重ねて作られた、急造のバリケード門がそびえ立っている。
バリケード代わりの物で塞がれた門の向こう側から大人達の掛け声や、指示を飛ばす声が響いてきていた。「資材を運べ!」「負傷者を優先しろ!」という混乱と焦燥の熱気。
しかし、以前門の脇に作られていた木製の即席物見櫓は存在しなかった。 恭平とモモが駐車場で繰り広げた、人知を超えた大決戦の衝撃波によって跡形もなく吹き飛び、木くずとなって周囲に散らばっていたのだ。
「……面倒なことになったな」
モモを肩車したまま、極めて真剣な表情で事態の重さを口にする恭平。劇的に変化した自身のスタイル、そして肩に乗せた圧倒的な美少女。これをどう説明し、避難所の人間たちに納得させるか、恭平は真剣に頭を悩ませていたのだ。
「そうだね。本当に面倒なことになったね」
うんうんと恭平の頭上で同調するモモ。 完全に他人事のようなトーンであり、適当に合わせているだけである。
「原因お前だからな?」
「え?」
モモがすっとぼけた顔で首を傾げた、まさにその時だった。門の向こう側、積み上げられた車両の隙間から聞き覚えのある声が届く。
「みんな! 外に生存者がいるぞ!」
その掛け声と共に、ざわざわと大勢の人々が門に近付いてくる足音が響いた。
「っ……おい降りろモモ……! こんな阿呆な姿見られたくねぇ!」
「んー無理」
恭平が無理やり振り落とそうと肩を揺らすが、モモは逃がさない。作業員服越しではあるが、そのしなやかで強靭な太ももで恭平の首元と頭部をキュッと強く挟み込み、万力のように固定して耐える。
「ふっざけんな! 痛ぇ痛ぇ! 分かった! 分かったから、頭潰れるっつぅの!」
彼女の人間離れした筋力で頭部を締め上げられ、恭平はあっさりと降伏の声を上げた。とんでもないパワーだ。やはり見た目は可憐な少女であっても、中身はあの『モモ』なのだと嫌でも痛感させられる。
「っ!? 恭平だ! 無事だったか!?」 「おいおいマジかよ! 俺は信じてたぜ! 恭平なら勝つって!」 「良かった……。もうダメかと思ったよ。無事で本当によかった……!」
バリケード門の上に設置された足場へ駆け上がってきたのは、慎太郎、達也、風弥の三人組だった。
彼らは恭平の姿を視界に収めるなり、パッと顔を輝かせ、旧友の生還に心からの安堵と歓喜の声を上げた。しかし、その歓喜も束の間。彼らの視線は、恭平の肩の上に堂々と君臨する「もう一人の存在」へと一斉に吸い付けられた。
「……ところで、その……肩に乗ってるめちゃくちゃ綺麗な女の子は……誰、なんだ?」
慎太郎が彼女の息を呑むような圧倒的な美貌に目を奪われそうになりながら、なんとか疑問を口にする。達也も「てか恭平! お前めちゃくちゃ背 伸びてスタイル抜群になってるじゃねぇか!?」と恭平の劇的な肉体変化に目を見開いて驚きを隠せない。
そして勘の鋭い風弥だけは、「……まさかさっきの黒い化け物……? いや、そんなわけ……」と、冷や汗を流しながら核心に勘づきかけて絶句していた。
「……あ、あー。コイツの事は後で詳しく説明する。俺たちもいろいろあって疲れてんだ。とりあえず中に入れてくれねぇか?」
「よろしくねー」
恭平の苦しい言い訳に続くように、モモが天真爛漫な可憐な笑みを浮かべ、小さな手をひらひらと可愛らしく振ってみせた。
三人組はそのあまりにも愛らしい姿と眩しすぎる笑顔を正面から浴び、「うわっ……」「可愛すぎだろ……」「な、なんで恭平がこんな美少女を……」と一瞬で顔を真っ赤にし、完全に挙動不審になりながら、責任者を呼びに門の向こう側へ慌てて戻っていくのだった。