TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
その夜の灯火堂を、俺は一生忘れないと思う。
「担架あと三つ! 通して、通して!」
防衛線は保たれたが、代償は大きかった。診療所が溢れ、うちの店は臨時の治療所になった。カウンターを畳み、床に敷布を並べ、婆ちゃんが仕分けの陣頭に立った。
「右腕のは奥へ! 腹のは手前、灯りの下じゃ! 歩けるもんは壁際で待て、死にゃせん!」
八十近い婆さんの声が、店を軍隊みたいに動かした。そうか、この人は本当に戦場を知ってるんだ、と場違いに思ったのを覚えている。
俺は薬師見習いの看板を放り投げ、前世の記憶ごと総動員で働いた。止血、洗浄、縫合の補助。優先順位をつけ、手が空いた騎士に湯沸かしと包帯巻きを割り振り、痛み止めの在庫を頭の中で配分する。段取り、割り振り、在庫管理。二十年やってきたことと、やってることは同じだった。扱う品が、命ってだけで。
「メリル、お前は休め」
「婆ちゃん。休めるわけないだろ。……あいつ、まだ生きてるかもしれないんだ。生きてるなら、戻って来るまで待っていたいんだ」
婆ちゃんは一度だけ俺の顔を見て、それ以上は何も言わなかった。代わりに、次の担架の番号を大声で叫んだ。有難い。今は、感情より番号の方が扱いやすい。
「メリルちゃん、俺は後回しでいい! あっちの新兵から――」
「黙って座ってくれラルフ! その足で立つな! あんたの後回しは信用しないことにしてんだ!」
ラルフを怒鳴りつけ、縫って、次。浅い裂傷、次。凍えて震えてる若いの、毛布と白湯、次。手は動く。手だけは動く。動きながら、目だけが勝手に、戸口を確かめ続けていた。
運ばれてくる騎士の顔を確かめるたび、心臓が縮んだ。違う。こいつじゃない。こいつでもない。
――あいつが運ばれてきたのは、夜半過ぎだった。
「若様が殿を! 撤退の殿を一人で受け持って、大型種と一騎打ちして、討ち取ったが……!」
戸板の上のジークは、血の気のない顔で目を閉じていた。左脇腹の裂傷が深い。鎧の継ぎ目を、正確に抉られている。触れた手が、氷みたいに冷たい。
「……ふざけんな」
気がつけば、俺はそう呟いていた。
「ふざけんなよ、おい。生きて帰った日に死にかけてんじゃねえ。婆ちゃん! 灯り足して、湯と針、ありったけ!」
「落ち着け、メリル」
婆ちゃんの声が、低く俺を叩いた。
「手前の男から順、が戦場の掟じゃ。じゃがな、震える手で針は持たせん。……三つ数え。息を吐け。おまえは今から、薬師じゃ。それ以外の何もんでもない」
三つ数えた。息を吐いた。手の震えが、止まった。
「……鎧、外すぞ。手伝え」
胸当てを外したとき、内側から小さな包みが落ちた。布で二重に巻かれた、掌に載るほどの包み。血が、滲みていた。拾って、脇に置いた。今は、考えるな。手前の傷から順だ。
そこからの数時間は、正直よく覚えていない。傷口の洗浄。婆ちゃんの縫合の補助。血止めの処方。湯と包帯の往復。覚えているのは、手を動かしながらずっと、祈りとも説教ともつかないことを口の中で唱え続けていたことだけだ。死ぬな。死ぬんじゃねえ。あんたに何かあったら悲しむ人間がいるって、教えたのは俺だろうが。その人間が今どんな顔で針を持ってるか、目を開けて見てみろ、馬鹿野郎。
一度、脈が細くなった。婆ちゃんが無言で処方を差し替え、俺が匙で流し込み、二人で朝を引きずり寄せるみたいに手を動かし続けた。
その合間、俺は何度も同じことを呟いた。聞こえない音量で、怒鳴るみたいに。
「……まだ話してねえ。お前、聞いてねえ。全部、まだ」
前世の話も、中身の話も、好きだと言う話も。雨の日に全部、潰した話も。……潰したのは俺だ。だから、生きて戻って来て、もう一回、聞け。
明け方近く、峠を越えた。
脈が戻り、頬にうっすら赤みが差して、俺はその場にへたり込んだ。店の床は血と泥だらけで、外は雨上がりで、窓の色が藍色に変わり始めていた。
「……り、る」
うわ言だった。ジークの唇が、掠れた音を落とした。
「めりる……すまない……ちゃばん、と……言わせた……。俺が、ふがいない、せいで……」
……おい。
おい、待て。こいつ、こんなになってまで、あの雨の日のことを謝るのか。茶番と「言った」んじゃなくて「言わせた」って。自分が斬られたことより、そっちを詫びるのか。
目の奥が熱くなって、俺は血で汚れた手の甲で、乱暴に顔を拭った。駄目だった。あとからあとから溢れて、全然間に合わなかった。
「……待って、って言ったのに。お前、聞いてたか。俺、待ってるって。……茶番なんかじゃねえ、もう」
認めるよ。もう認める。
俺はあんたが好きだ。後輩としてじゃない。詐欺だの資格だの、御託を並べて逃げ回ったけど、あんたが冷たくなって運ばれてきた瞬間、そんなもん全部、どうでもよくなった。
「……ばーか。言わせてねえよ。あれは、俺が勝手に言ったんだ」
ジークの耳に、掠れて届いたかどうか分からない。届いてほしい。届かなくても、もう一度、ちゃんと言う。生きて目を覚ましたら、な。
――だったら、やることは一つだ。詐欺師をやめればいい。全部話して、それで軽蔑されるなら、それを引き受けるところから始めるしかない。
陽が昇りきった頃、ジークは目を覚ました。俺の顔を見て、状況を悟って、何か言おうと口を開いたので、俺は先に人差し指を突きつけた。
「動くな。喋るな。傷が開く。……話は、俺がする」
息を吸う。六十年分の、深呼吸だ。
「あんたの傷が塞がったら、聞いてほしい話がある。俺の――誰にも話したことのない、話だ。笑うかもしれないし、気味悪がるかもしれない。全部聞いた上で、それでも……いや」
やめた。予防線はもう張らない。
「全部聞いた上で、もう一回、俺に会いに来い。待ってるから」
言い切った。予防線なし。逃げ道なし。営業二課の佐々木健一が、最後に使った手札だ。
「……それ、プロポーズじゃないのか」
ラルフが、血のついた包帯を巻きながら横で呟いた。俺は「黙って手伝え」と返した。正確に言うと、告白の予告だ。プロポーズは、その次だ。……次がある、と信じて、今は言った。
婆ちゃんが遠くから「ようやく本音が出たの」と呟いたが、今は聞こえなかったことにした。聞いたら、また逃げたくなる。
ジークは目を見開いて、それから包帯だらけの右手を、ゆっくり胸当ての方へ――枕元に置かれた、血の滲んだ小さな包みへ伸ばそうとして、力尽きて、眠った。
その寝顔は、ちょっと笑ってるみたいに見えた。
血の滲んだ包みを、俺は枕元に戻した。開けない。知ってる。渡そうとしてたんだろう。……次は、ジークが渡す番じゃない。受け取る番だ。全部話した上で、もう一回来い、と言った。来てくれたら、そのとき初めて、俺の方から「好きだ」と言う。
外の空が白み始めた。店の灯りは、まだ消していない。朝まで消えない、と看板に書いてあるけど、今夜だけは嘘じゃない気がした。