TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
ジークの傷が塞がったのは、十日後のことだった。
その十日間、あいつは律儀に通院してきた。傷の経過は良好。若さと基礎体力の勝利だ。診察のたび、店には妙な緊張感が漂った。あいつは何かを待っている顔で包帯を替えられ、俺は「傷が塞がったら」と言った手前、傷の治り具合と自分の覚悟の準備期間を天秤にかけながら軟膏を塗った。我ながら不純な診療である。
騎士団の連中も、なぜか気配を消していた。あの騒がしい第三小隊が、だ。誰も冷やかしに来ない。ラルフですら「傷薬くれ」以外何も言わずに帰る。……あいつら、何かを察して待ってるんだな。露骨に。優しさが逆に胃にくる。
その間、俺は夜ごとに言葉を並べ直した。紙の端に『四十二歳』と書いて消す。『男だった』と書いて消す。営業二課の佐々木健一は、断り文句を百通書いても、本音を一つ言うのに六十年かかった。皮肉だ。前世で部下に「結論から話せ」と説教してたのに、自分の人生の結論だけ、喉の奥で丸まったまま引っかかる。
ジークが来るたび、俺は平然を装った。包帯の交換、経過の説明、蜂蜜入りの湿布の追加。いつも通りの薬屋で、いつも通りの客で。演技の精度は二十年の営業キャリア並みだ。だが、あいつが「塞がったら」と言った日の約束を、俺だけが覚えているのが、妙に恥ずかしかった。覚えている側と、忘れているふりをする側。どっちが逃げてるんだ、俺は。
十日目の診察で、俺は包帯を外し、傷跡を確かめて、言った。
「……塞がったな」
「ああ」
「じゃあ、約束だ。今夜、店を閉めたら」
「ああ」
それだけの会話に、多分、互いの心拍数だけが尋常じゃなかった。
その日、俺は早めに店を閉めた。婆ちゃんは「奥におるからの」とだけ言って、湯を沸かして引っ込んだ。カウンター越しじゃなく、丸椅子を二つ向かい合わせに置いて、俺とジークは座った。初めて手当てをした日と、同じ場所だった。
「……さて。何から話すかな」
「メリルの、話したい順で」
「そうかい。じゃあ、俺のやり方でいく。……結論から話す。」
深呼吸。六十年分だ。
「俺には、前世の記憶がある。この世界じゃない、剣も魔法もない別の世界で、俺は佐々木健一という名前の――四十二歳の、男だった」
ジークは、瞬きを一つした。それだけだった。俺は構わず続けた。止まったら二度と話せない気がした。
働きすぎの国だった。鉄の箱が空を飛び、手のひらの板で世界中と話せる国。剣の代わりに、書類と数字で殴り合う国だ。俺は物を売る部署の、中間管理職ってやつだった。営業二課課長。部下が十四人。売上目標が年に四回。部下の尻を拭いて、上の無茶を呑んで、月に百時間の残業をして。休日出勤は、当たり前だった。有給は、取る暇がなかった。
家族はいなかった。作る暇がなかった、というのは言い訳で、多分、優先順位のつけ方を間違え続けたんだと思う。仕事は断れないのに、見合いの話は全部断った。冷蔵庫にはいつも、栄養剤と、賞味期限の切れた何かだけがあった。誰かと食事に行く約束を、最後の十年で一度も守れなかった。
最後の日のことも、話した。ある朝、会議室で立ち上がった瞬間、視界が真っ暗になった。倒れる直前に考えていたのが、家族の顔でも人生の後悔でもなく「今日の会議の資料、誰が引き継ぐんだ」だったこと。それが最期だ。葬式も、その後も知らない。気がついたらこの世界で、産声を上げていた。女の子として。
「最初の十年は、正直、現実逃避してた。体は子供、中身はおっさん。鏡を見るたび眩暈がした。けど、婆ちゃんの薬屋の仕事を覚え始めたら、なんというか……悪くなかったんだ。薬ってのは、飲んだ相手が楽になる。営業の数字と違って、誤魔化しが利かなくて、真っ直ぐだ。ああ、二度目はこれでいこうって、思った」
「傷の手当てが手慣れてるのも、あんたの顔色から不眠と空腹を読めるのも、全部それだ。二十年、そういう部下を見てきたからだよ。あんたを最初に見たとき、思ったんだ。ああ、前世にいたやつと同じ顔してるって。だから放っておけなかった。……最初は、それだけだった」
言葉を切って、俺はジークの目を見た。ここからが本題だ。
「つまりさ。あんたが好きになってくれたかもしれない『メリル』は、中身がこれなんだ。あんたより二回りも上の、別の世界のおっさんだ。詐欺だろ? だから――」
責任持って幻滅してくれ。
そう締めるつもりだった。営業スマイルで、軽く、相手が断りやすいように。二十年やってきた俺の、一番得意な話法で。
できなかった。声が、震えた。営業二課の佐々木健一は、数字の嘘は一度もつかなかった。人の心の嘘だけ、二十年、得意だった。
「……だから、さ。気味悪いって思うなら、それでいいんだ。普通のことだ。あんたは何も悪くない。ただ、騙してたことだけは、謝らせてくれ。悪かった。あんたの本気に、フリで応えた。それが一番の詐欺だった」
言い終えて、俺は膝の上で拳を握った。机の下で、前世からの癖だ。震えを隠すための、古い仕草。あいつには、もう隠せない。隠す必要もない。それが、一番怖かった。
沈黙が落ちた。薬草の匂いと、奥で湯の沸く音だけがした。
ジークは、ずっと俺の目を見ていた。目を逸らさなかった。逸らさないまま、何かを言おうと口を開いて、閉じて、拳を強く握って――どこまでも不器用なこの男は、絞り出すように言った。
「……すまない。少し、時間をくれ」
「……おう。ゆっくりでいい」
ジークは立ち上がり、深く一礼して、店を出ていった。鈴の音が、いやに長く響いた。
「……だよな」
そりゃそうだ。想定通りだ。想定通り、想定通り。
むしろ上出来だ。怒鳴られなかった。気味悪がられて、その場で縁を切られることだってあり得た。「時間をくれ」は、あの生真面目な男なりの、精一杯の誠実な保留だ。分かってる。営業なら、返事を持ち帰らせるのは悪い流れじゃない。断り文句を持ち帰らせて、翌日に丁寧なお断りメールを送る。俺が部下にやらされてきた、あの流れだ。
でも、あいつの背中が戸口をくぐるとき、俺は知ってしまった。
「時間をくれ」を待つ側が、こんなに寒いってことを。
前世で俺が保留にしてきた全部の相手に、いまさら謝りたくなった。返事を待つ夜ってのは、一晩がこんなに長いのか。時計の針が、営業二課時代より遅く回る。あいつは今、何を考えている。嫌悪か。困惑か。それとも、俺と同じように、胸の奥で何かを天秤にかけているのか。
「……メリルや。茶ぁ、淹れたぞ」
奥から、婆ちゃんの声がした。盆には湯呑みがふたつ。ひとつは俺の、もうひとつは――婆ちゃん自身のだった。ジークのやつじゃなくて、少しほっとした。まだ棚にあの湯呑みがあるのを見るのは、今夜はきつい。
「言えたんじゃな」
「……おう。言えた」
「上等じゃ。よう言えた」
婆ちゃんは、それ以上何も聞かなかった。ふたりで、黙って茶を飲んだ。よく眠れる配合の味がした。眠れなかったけどな。窓の外では、街の灯りが、いつも通りに点いていた。あいつは、今頃、詰め所で紙を破いているのか。剣を振っているのか。俺のことを、考えているのか。考えないでくれ、と思いながら、考えてほしい、とも思った。矛盾の塊だ、俺は。
俺は閉店の札を確かめて、カウンターに突っ伏した。帳場の隅で、薄橙の花が乾いた色になっていた。その隣で、木彫りの熊が、何も言わずにこっちを見ていた。
「……何も言うなよ」
熊は、何も言わなかった。優しいやつだ。