TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
ジーク・アルステッドは、生まれて初めて剣の素振りを数え間違えた。
「五百三……いや、四百……」
「おーい、若様ぁ。剣、逆さだぞ」
逆さではなかったが、ラルフの声も耳を素通りした。あの夜から三日、ジークはずっと考えていた。考えて、考えて、考えるほどに動けなくなっていた。
誤解のないように言えば――嫌悪など、欠片もなかった。
前世。別の世界。四十二歳の男。聞いた瞬間に思ったのは「そうか」だった。腑に落ちる音がした。あの手際。あの説教。あの、年寄りみたいな仕方なさそうな笑い方。値切り交渉の凄み。「何もしない」ができない人間への、妙に実感のこもった処方。謎だったものすべてに、名前がついた。佐々木健一。四十二歳。男。過労死。
信じるか信じないかで言えば、考えるまでもなく信じた。彼女は嘘をつくとき、あんな声にならない。あんな、震えを抑えるために机の下で拳を握る話し方に、ならない。あれは、命より重いものを差し出す人間の声だった。戦場で何度か、聞いたことのある声だ。剣を差し出す前に、一度だけ目を逸らす人間の声だ。
だから、問題は「信じるか」ではなかった。
その夜、詰め所の自室で、ジークは机に向かった。口で駄目なら、書けばいい。文なら、推敲ができる。騎士は剣を磨く。ジークは言葉を磨こうとした。磨けば、届くはずだ。そう信じていた。
一通目。『拝啓 メリル・ハーティ嬢』――堅い。見合いの断り状か。破棄。
二通目。『あなたの前世の話を聞き、俺は』――俺は、何だ。続きが三時間出てこなかった。破棄。
三通目。『気にしていない』――嘘だ。気にしていないわけがない。気にした上で、それでも、という話をしたいのに、この七文字はすべてを軽くする。破棄。
四通目。『六十年分の話を、受け取った』――これだ。これでいい。……いや、続きが出ない。受け取った、と言ったあと、何を返す。五通目に同じ冒頭を書いて、破棄した。
気づけば、床は紙の屍で埋まっていた。剣なら、千回振れば千回分だけ上達する。言葉は、千回書き直しても、正解に近づいている手応えがない。的がどこにあるのか、それすら見えないまま、素振りだけを重ねている気分だった。
(……メリルなら、こういうとき、どう言うのだろうな)
一番聞きたい相手に、一番聞けない相談だった。世界で一番、理不尽な話だと思った。
問題は、その先だった。
『働きすぎの国だった』『月に百時間の残業』『ある朝、視界が真っ暗になった』
――過労で、死んだ。
彼女は、働きすぎて死んだ人間なのだ。そして俺は、と、ジークは詰め所の壁に頭を押しつけた。俺は半年間、彼女の前で何をしていた? 飯を抜き、眠らず、傷を隠し、限界まで働く姿を延々と見せ続けていたのだ。彼女が前世で嫌というほど見て、その果てに死んだ、まさにその姿を。
(……俺は、彼女の最期を、再現していたのか)
胃が、ひっくり返る。彼女が視界が真っ暗になった朝を語ったとき、俺は何をしていた。傷を隠して訓練に出て、食事を抜いて、夜中まで剣を振っていた。彼女の目の前で、同じ結末への一本道を歩いていたのだ。気づかなかった。いや、気づきたくなかった。彼女の説教は、俺への警告だったのに。
『あんたに何かあったら悲しむ人間がいることくらい、いい加減覚えろ』
あの言葉の重さを、俺は何も分かっていなかった。あれは薬屋の口癖などではない。死んだ人間の、遺言みたいなものだったのだ。自分が死んだ朝、誰も悲しんでくれなかったかもしれない人間が、二度目の生で、俺にだけは、悲しんでほしいと言っていたのだ。
「……俺は、彼女の古傷を、半年間踏み続けていた」
「うおっ、喋った。……で? それを本人に言ったのか」
「言えるわけがないだろう。生半可な言葉で応えるのは、あの告白への侮辱だ。彼女は六十年分を差し出した。ならば俺も、六十年分に釣り合う言葉を用意せねば」
「あー……うん、おまえのそういうとこ、美点だけどな。恋愛では大体裏目に出るぞ」
「裏目……」
「あのな、ジーク。おまえ、言葉を『完成品』で納品しようとしてるだろ。けど、あの人の商売を思い出せよ。薬屋だぜ? 症状を聞いて、様子を見て、配合を変えてくもんだろ、処方ってのは。一発で完璧な特効薬なんて、あっちだって期待してねえよ。……で、ジーク。おまえ、昨日、何通書いた」
「……数えてない」
「百通は書いたな。床、紙の山だぞ。百通書いて、一行も届けてねえ。それ、おまえの言う『侮辱』に近くねえか」
「……だが。生半可な言葉では、彼女はきっと、笑って流す。『気にすんな』と言って、俺の逃げ道を先に舗装する。あの人は、そういう人だ」
「……お、おう。ちゃんと分かってんじゃねえか。……じゃあ、逆に聞く。もしもの話だ。あの人が、ある日ふっと、この街からいなくなっちまったら――おまえ、どうする」
「…………」
「黙るなよ。あの人の腕なら、どこのでかい街からだって声がかかる。百通書いて、一行も出せねえくせに、最悪の想像だけは、毎晩してるだろ」
ジークは、答えなかった。答えなくて、答えになった。街を出ていく彼女を、追うか。諦めるか。どちらも、今の自分には、言葉がなかった。
分かっている。分かっているから、動けないのだ。中途半端な言葉を持っていけば、彼女はそれを「断り文句」として受け取り、丁寧に梱包し直して、綺麗に縁を畳むだろう。あの完璧な営業スマイルで。次に店に行ったとき、完璧な「ただの薬屋と客」が完成しているだろう。それが、何よりも恐ろしかった。
ラルフの言う通りだった。ジークが言葉を鋳造している間にも、時間は流れる。第三小隊の連中は灯火堂に行きづらくなり、店の売上の話を聞くたびジークの胃は縮んだ(皮肉にも、彼の胃はこの三日で本当に薬が要る状態になっていた。しかも行きつけの薬屋に、行けないのである)。
四日目の夜、ジークは訓練場で一人、剣を振っていた。振りながら、考える。考えながら、振る。彼女は言った。『あんたの本気に、フリで応えた。それが一番の詐欺だった』と。あの言葉が、剣の軌道に乗って、何度も頭を叩く。フリじゃない。本物だった。俺が受け取ったものは、全部本物だった。なら、返す言葉も、未完成でも、本物でなければならない。
(違う。あなたは、詐欺師などではない)
素振りが、止まった。
そうだ。俺が言うべきことの芯は、多分、そこにある。彼女は自分を詐欺師だと言った。中身を偽って人の好意を受け取る、資格のない人間だと。だが、俺が半年間受け取ってきたものは何だ。傷薬の配合。蜂蜜の増量。眠れる茶。説教。あれが全部、偽物だったか? あの手当てに、前世も今世も、性別も年齢も、あったか?
言葉の輪郭が、初めて、指先に触れた気がした。完成品じゃなくていい。症状を見て、配合を変える。一発の特効薬を待つのではなく、毎日、少しずつ、届ける。それが、彼女の商売だ。ならば俺も、彼女の商売に倣えばいい。
そして五日目。ラルフが血相を変えて訓練場に飛び込んできた。
「ジーク! おい、聞いたか。メリルちゃん――王都に行くってよ」
素振りの剣が、手から滑り落ちた。言葉の輪郭が、また、指からこぼれた。時間は、もう待ってくれない。王都。十日後。――明日、明後日かもしれない。彼女は、もう荷造りをしているのか。湯呑みを置いていくのか。俺の前で、半年間、飯を食べ、傷を見せ、説教をくれた彼女が、明日、いなくなるのか。
(行く。今すぐ、行く)
落とした剣は、拾わなかった。剣一筋の男が、生まれて初めて、剣より先に走るものを見つけていた。