TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた   作:べ¥

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逃げ足だけは、前世から速い

「――王都の、薬師資格試験?」

 

話が来たのは、ジークが店を出ていって四日目のことだった。持ってきたのは薬師ギルドの支部長で、王都の宮廷薬師が弟子を一人探しているという。ついては先の魔獣騒ぎで名の挙がった俺に、白羽の矢が立った、と。

 

「あの夜の臨時治療所の話は、ギルドでも評判での。仕分けの的確さ、在庫の采配、処置の優先順位。ありゃ見習いの仕事じゃないと、視察に行った者が言うとった。正規の薬師資格があれば、あんたは王都でも通用する」

 

「買い被りですよ。仕切ってたのは婆ちゃんだ」

 

「その師匠が、何も言わんのが答えじゃろうて」

 

支部長は、条件の書かれた紙を置いた。悪くない話だった。というか、破格だった。宮廷薬師の直弟子。住み込みの工房。給金つき。田舎の見習いには、一生に一度あるかないかの声がかりだ。紙の端に、出発日の欄があった。十日後。――俺は、明後日と書き換えるつもりで、即答した。

 

半年前の俺なら、笑って断っていた。俺の居場所はこの店で、この街だからだ。それに、と半年前の俺なら心の中で付け足しただろう。うちには手のかかる常連がいるんでねって。でも、あいつは今、答えを探している。俺がここにいれば、あいつは探し続ける。探し続けるあいつを見るのが、耐えられない。

 

「……受けます」

 

即答した俺に、支部長より婆ちゃんの方が驚いた顔をした。俺自身も、少し驚いていた。口が先に動いた。頭は後から理由を並べた。修行になる。腕が上がる。婆ちゃんに恩返しできる。全部本当で、全部言い訳だった。

 

分かってる。分かってるよ。これは逃げだ。営業二課の佐々木は、商談から逃げたことは一度もなかったが、自分の話からは逃げてばかりだった。飲み会で家族の話になると席を立つ。健康診断の再検査は三年連続で無視。返事を待つ夜が来る前に、先に席を外す。そういう男だった。逃げ足だけは、前世から速いんだ。

 

でも、考えてもみてくれ。

 

このままここにいたら、あいつは律儀に答えを持ってくる。あの朴念仁のことだ、精一杯言葉を選んで、俺を傷つけないように断ろうとするだろう。あいつにそんな仕事をさせるくらいなら、俺が消えた方が早い。円満退職ってやつだ。

 

周りには「出発は十日後」と伝えた。本当は明後日の朝、北回りの乗合馬車だ。送別会だの見送りだの、騒がれる前に静かに消えたかった。逃げるなら、逃げ方まで綺麗にやるのが礼儀ってもんだ。婆ちゃんだけには、本当の日時を伝えた。婆ちゃんは「ふぉっふぉ、おまえらしい」とだけ言って、何も止めなかった。止められたら、決心が揺らぐと分かってる婆さんだ。

 

その日の午後、俺は店番をしながら、常連の顔を一人ずつ見た。膝の悪い織物屋の婆さんには、三月分の湿布を持たせた。「あら、ずいぶん気前がいいね」「まとめ買い割引だよ」。婆さんは湿布の包みと俺の顔を三往復ほど見比べて、何か言いたげな顔のまま帰っていった。夜泣きの子持ちの母ちゃんには、あやし方のコツを長めに話した。引き継ぎだ。誰にとも言わない引き継ぎを、俺は営業スマイルの内側で、粛々と進めた。

 

前世でもこうだった。異動のときも、退職者を送るときも、佐々木健一の引き継ぎ資料は完璧だと評判だった。立つ鳥跡を濁さず。俺の数少ない、自慢にならない特技だ。

 

……特技のはずなのに、なんでこんなに、喉の奥が重いんだろうな。

 

ついでに白状しておくと、この計画には初日から穴が開いていた。ギルドの支部長がうちの店に来たこと自体、その日のうちに三番街を一周していたのだ。曰く「灯火堂の看板娘に、王都からお声がかりだと」。田舎の情報網を舐めていた。支部長ってのは、来るだけで目立つ生き物なんだ。俺にできたのは「出発は十日後」とだけ訂正して回ることで、静かに消える計画は、初日にして半分崩れ、本当の日付という半分だけが残った。

 

荷造りは簡単だった。着替えと、薬研と、婆ちゃんがくれた処方録。それだけのはずだったのに、気づいたら棚の湯呑みを手に取っていた。ジーク専用の、少し大きいやつ。

 

「…………」

 

湯呑みの縁に、あいつの指の形が、まだ残ってる気がした。何度も洗ってるはずなのに、だ。置いていけ。置いていくのが筋だ。筋なんだが、な。

 

俺はそれを、手拭いで三重にくるんで、荷物の一番底に沈めた。筋よりも、諦めの悪さが勝った。我ながら未練がましいにも程がある。荷造りの最後に、あいつ専用の蜂蜜増量配合を、小瓶に三つ分だけ入れた。持っていく理由はない。それでも、手が勝手に動いた。薬師の癖か、逃げる人間の癖か、もう区別がつかない。

 

帳場の木彫りの熊と、乾いた薄橙の花は、置いていくことにした。あれは店のものだ。店の景色だ。俺が持っていったら、この帳場が寂しくなる。……そういうことにした。本当は、あれを見るたび思い出す自信があるから、持っていけないだけだ。

 

夜、寝台で天井を睨んだ。あの偽装恋人の契約書は、婆ちゃんに頼んで竈で燃やしてもらった。『互いに、本当に好きな相手ができたら、即座に解消する』。条項は履行された。片方の当事者に好きな相手ができて、契約は解消された。書類上は、何の問題もない取引だった。……本当は、解消したくなかった。本当は、偽物のまま、ずっと続けたかった。それも、また逃げだ。

 

書類上は、な。

 

その翌日、店にラルフが来た。傷薬を買って、釣りを受け取って、それでも帰らずにもじもじしている。噂を聞きつけて来たのは、顔を見れば分かった。ジークのところへ先に走ったんだろうということも、だ。こいつはそういう順番で動く男だ。ラルフは最後に早口で言った。

 

「……あのさ。あいつ、拒絶したんじゃねえと思う。あれで昔から、大事なことほど時間がかかる奴なんだ。剣を選ぶのに半年かけた男だぜ」

 

「……そうかい」

 

「王都行き、考え直さねえか。あいつ、絶対後悔する」

 

「気ぃ使わせて悪いな。でも、これはあいつの問題じゃなくて、俺の問題なんだわ」

 

「……問題って、なんだよ」

 

「あいつが真面目に悩んでくれてることが、もう答えみたいなもんだろ。普通は悩まねえよ、こんな話。三日で答えが出ないってことは、あいつの中で、何かが釣り合ってないんだ。俺はその天秤から、先に降りてやりたいだけさ」

 

我ながら、理屈は完璧だった。完璧な理屈ってのは、大抵、心が決めたことの後付けなんだけどな。

 

ラルフは何か言いかけて、やめて、くしゃっと頭を掻いた。

 

「……あー、くそ。俺、こういうの向いてねえんだよ。なあ、最後にひとつだけ。あいつ、あんたの茶、詰め所で自慢してたんだぜ。『灯火堂の香草茶は効く』って。あの無口が、自分から。……それってさ、大事なことじゃねえの」

 

「あいつ、あんたのこと、断ってない。時間をくれ、って言っただけだ。あれは、あいつにとっての、精一杯の保留だ。……王都に行く前に、会えよ。会わなきゃ、一生、届けられねえぞ」

 

大事なことだよ。知ってる。知ってるから、困ってるんだ。

 

「王都に行けば、あいつは自由になる。俺がいなくて、あいつは、普通に、幸せになれるかもしれない。……それが、一番いい結末だろ」

 

俺は営業スマイルで、携行食をひとつ、おまけに持たせた。蜂蜜増量のやつ。もうこの配合を作ることもないんだな、と思ったら、少しだけ手が止まった。

 

「餞別だ。あいつと半分こしな」

 

「……っ、おい、それって」

 

「湿布、切らすなよ。あんたの隊は働きすぎだ」

 

ラルフは、何度か口を開けて、閉じて、最後に「達者でな」とだけ言って、雨上がりの通りを帰っていった。

 

いい奴だよ、ほんと。あの隊は、上から下まで、いい奴ばっかりだ。

 

だから――俺なんかで、あいつの一生を間違わせるわけには、いかないんだよ。

 

王都の試験の通知書は、棚の裏に押し込んだ。誰にも見せない。見せたら、引き止められる。引き止められたら、決心が揺れる。揺れたら、また逃げられない。……逃げたいのに、逃げたくない。六十年生きて、初めてこんなに、矛盾している。

 

荷造りの最後に、帳場の熊の頭を、もう一度撫でた。あいつには、言えなかった。言いたかった。撫でただけで、十分だった。……嘘だ。十分じゃない。足りない。だから、湯呑みだけは、持っていく。

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