TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
事の起こりは、ラルフの報告だった。
正確には、報告という名の直訴である。彼は団長室の扉を叩き、直立不動で「若様の私事につき、上官のお力添えを願いたく」と切り出した。軍規のどこにもない申請だったが、ゲオルク・ハウザーは書類仕事を放り出して聞いた。この団長は昔から、規則より面白そうな話を優先する男である。
そして聞き終えた団長は、伝令を飛ばした。「ジーク・アルステッド、直ちに出頭せよ」。
「たわけがァ!!」
団長室の怒声で、窓が震えた。廊下の伝令兵が跳び上がったという。
「貴様、灯火堂の娘が街を出ると聞いて、五日も詰め所で唸っておるだけとは何事か! 儂は貴様を剣馬鹿に育てた覚えはあるが、唐変木に育てた覚えはないわ!」
「し、しかし団長。俺はまだ、彼女に返す言葉が完成しておらず」
「完成? 言葉に完成などあるか! 剣に完成があるか! 千回振れば、千回分上達する。言葉も同じだ。百回書いて、百回破棄して、百一回目を届けろ」
「ですが、彼女の打ち明け話は、その、重いもので。生半可な返答では」
「ほう。重い、と」
団長の眉が、ぴくりと動いた。
「内容は聞かん。だがな小僧、ひとつ教えといてやる。重い荷ってのはな、完璧な返しの言葉を待っとるんじゃない。『受け取った』の一言を待っとるんだ。荷を預けた人間はな、相手が黙っとる間ずっと、突っ返される想像をし続けるんだぞ。五日だ。貴様は五日間、あの娘に想像させ続けた」
ジークの顔から、血の気が引いた。考えたことも、なかった。自分が言葉を考える時間が、彼女にとってどう流れるかなど。彼女は今、何を想像している。気味悪がっているのか。怒っているのか。それとも、俺の沈黙を、丁寧な断りとして受け取ろうとしているのか。どれも、耐えられない。
思い出すのは、雨の日の店だ。『時間をくれ』と言った俺に、彼女は『ゆっくりでいい』と笑った。あの笑い方を、俺は知っている。営業スマイル、と本人が呼ぶやつだ。頭を下げたくない相手に頭を下げ、笑いたくない場面で笑うための顔。……あの夜の彼女に、俺は、あの顔を使わせたのだ。
ゲオルク・ハウザーは、どかりと椅子に座り、古傷だらけの顔を撫でた。
「……昔な。儂にも、待たせた相手がおった。戦役が終わったら、勲章をもろうたら、隊長になったら――そうやって待っとるうちに、相手は病で逝った。言い損ねた言葉はな、小僧。四十年経っても、喉に刺さったままよ。抜き方を知っとる医者は、どこにもおらん。……貴様は、まだ若い。まだ、間に合う。間に合ううちは、それが、どれほどの贅沢か分からんのだ」
「…………」
「一つだけ聞く。整理はそれからでよい。――貴様が惚れたのは、何だ。あの娘の顔か? 歳か? それとも、半年のあいだ貴様の傷と腹と性根を診てきた、あの中身か」
答えは、考えるまでもなく、そこにあった。顔も、声も、年齢も、前世も、全部だ。六十年分の、全部だ。
団長室を辞したジークの足は、その足で灯火堂に――は向かわず、裏手の勝手口に向かった。会うべき人が、もう一人いた。
「ふぉっふぉ。来ると思うとったよ、坊や」
婆ちゃんは、勝手口の縁台で茶を啜っていた。ジークは直立不動のまま、深く頭を下げた。
「……全部、ご存知だったのですか」
「孫の前世かい? 知らんかったよ、あの夜まではの。じゃが驚きもせんかった。五つのメリルが、儂の帳簿の間違いを指摘した日からの、『この子は中身が年寄りじゃ』とな。……のう、坊や。あの子が何で逃げるか、分かるかの」
「俺の、答えが怖いから……ではなく?」
「半分での。もう半分は、幸せが怖いんじゃよ」
婆ちゃんは、湯呑みを置いた。勝手口の縁台から、店の灯りが漏れていた。あの子が荷造りをしている部屋の、薄明かりだ。
「あの子の前世は、幸せになる前に終わった。誰かに大事にされる番が、とうとう回ってこんかった。そういう人間はな、幸せが目の前に来ると、受け取り方が分からんで逃げるんじゃ。バチが当たる気がしての。……一度目の生で自分を後回しにして死んだ子が、二度目の生でも、また同じことをしようとしとる。儂はそれが、いっとう腹立たしい」
「…………」
「坊や。あの子は、おまえさんの答えが怖いんじゃない。おまえさんの本気が、怖いんじゃ。本気を受け取ったら、今度こそ自分を大事にしなきゃならん。それが、あの子には、まだ怖い」
「…………」
「答えはもう出とるようじゃな、坊や。なら急ぎ。馬車は――」
「十日後、と聞いています」
「明日の朝じゃよ。あの子、おまえさんに知られとうなくて、皆には十日後と言うとった」
世界から、音が消えた気がした。
「なぜ……それを、俺に」
「儂はの、坊や。あの子の判断を、生まれて初めて間違っとると思うとるんじゃ」
婆ちゃんは、湯呑みの中の茶を、じっと見た。茶の表面に、自分の皺が映っていた。
「あの子は賢い。賢すぎて、傷つく前に理屈で退路を作る。今回もそうじゃ。『あいつのため』『俺の問題』――全部、筋は通っとる。じゃがな、筋の通った不幸と、筋の通らん幸せなら、儂は孫に後の方を取ってほしいんじゃよ。」
「…………」
「明日の朝、北回りの乗合馬車。街道の三本杉までは、馬車の足でも半刻かかる。……あとは、おまえさん次第じゃ。行くも行かんも、何を言うも。儂は、おまえさんなら行くと思っとる。あの子は、おまえさんを待っとる。逃げとる最中でも、待っとる」
ジークは、深く、腰を折った。騎士が主君に捧げる最敬礼だった。
「一つだけ、聞かせてください。……俺で、いいのですか。彼女の六十年に、俺のような若造で」
「ふぉっふぉ。逆じゃよ、坊や」
婆ちゃんは、初めて、皺の奥の目を細めて笑った。
「六十年生きて、初めて逃げ出すほど本気になった相手じゃ。おまえさんくらいの馬鹿正直でなけりゃ、釣り合わんわい。……坊や。儂は、おまえさんを信じとる。行け。走れ。叫べ。完璧じゃなくていい。あの子が待っとるんじゃ」
ジークは、走った。人生で一番速く走った。まず詰め所へ。休暇届と、正装を取りに。走りながら、言葉を探すのをやめた。探すのをやめたら、体が軽くなった。完成品は、もう要らない。ありのまま。未完成のまま。それでも、届けに行く。
途中、廊下でラルフとすれ違った。ラルフは何も聞かず、親指だけを立てた。団長室の扉が細く開いていて、「北門の通行証は出しておいたぞ」という声だけが飛んできた。第三小隊の寝室の窓から、誰かが「若様ーッ!」と叫び、それを誰かが「しっ、寝たふりだ馬鹿」と引っ込めた。
全部、聞こえていた。全部、ありがたかった。第三小隊の連中は、いつも騒がしい。だが今日の騒がしさは、祝福だった。彼女を追う許可。完璧な言葉なしで、突撃する許可。
正装の留め具を締めながら、ジークは思った。言葉は、まだ完成していない。多分、明日の朝までにも完成しない。それでいい。完成品ではなく、ありのままを持っていく。百通の下書きは置いていく。持っていくのは、たった一言だ。受け取った、と伝えに行く。
六十年分の荷物を預けてくれた人に、五日も待たせた「受領の返事」を。
懐の中で、薄橙の髪飾りが、掌に触れた。あの日、渡すつもりで戦場まで持っていき、渡しそびれたままの、本物の想いだ。偽装の契約が生きているうちは、渡せば嘘になる気がして、渡せなかった。今度は、契約なしで、届けに行く。