TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた 作:べ¥
出発の朝は、腹が立つくらいの快晴だった。
夜明け前に起きて、店の掃除をした。最後だからじゃない。毎朝やってることを、いつも通りやっただけだ。棚を拭いて、床を掃いて、薬研の位置を直して。それから帳場の熊の頭を、一回だけ撫でた。これは、まあ、なんだ。挨拶だ。
婆ちゃんとの別れは、あっさりしたものだった。「行っといで」「おう」。それだけだ。六十年も生きてると、別れの挨拶は短くなる。長くすると、決心が溶けるのを知ってるからだ。
ただ、婆ちゃんは戸口で、ひとつだけ付け足した。
「メリルや。忘れもんに気づいたら、いつでも取りに戻り」
「忘れもんはないよ。三回確かめた」
「ふぉっふぉ。ならええがの」
……変なことを言う婆ちゃんだ。荷造りの完璧さには自信があるんだ、こっちは。
北回りの乗合馬車には、俺の他に行商人がふたりと、鶏の入った籠がひとつ。ガタゴトと街道を揺られながら、俺は流れていく景色を見ていた。三番街の屋根。祭りをやった丘。遠くに、北の森。あの森で、あいつは何度も傷を負って、何度も俺の店に戻ってきた。帰る場所がある、と言わないで、ただ傷を見せに来る。そういう客だった。
(……いい街だったな)
いかん。もう思い出モードに入ってる。切り替えろ佐々木。王都だ。新天地だ。宮廷薬師の弟子だぞ、出世コースだ。前世で言えば本社栄転だ。同期の顔を思い出す。送別会の乾杯。俺は断った。断って、一人で帰った。あのときも、胸の奥はこんなに重かったっけ。
――本社栄転の内示が出た日も、俺はこんな気持ちだったっけな。
あの日のことは、よく覚えている。二課のみんなが送別会を開くと言い出して、俺は「大袈裟にするな」と断って、結局、栄転は俺が倒れたことで立ち消えた。人生ってのは、そういう雑な脚本で動く。だから、決めたことはさっさと実行するに限る。迷う暇に、馬車は進む。進んでくれ。早く、あいつの顔が浮かばない距離まで。
そのときだった。
「なんだあ?」と御者が声を上げて、馬車が減速した。行商人が窓から首を出し、「おい、騎士様だぞ」と言った。
街道の先、三本杉の下だった。
嫌な予感がした。ものすごく、嫌な――いや。正直に言う。心臓が跳ねた。跳ねた自分に、腹が立った。おまえは今、逃げてる最中だろうが。何を期待してるんだ。期待するな。期待したら、また逃げられない。……期待してる。期待してしまってる。六十年生きて、初めてこんなに期待してる。
街道のど真ん中に、正装の騎士が一人、仁王立ちしていた。朝日を浴びた銀髪。生真面目そのものの顔。何時間前からそこにいたのか、外套の肩が朝露で濡れていた。馬車が完全に停まる前に、そいつはよく通る声で言った。
「辺境騎士団所属、ジーク・アルステッド! その馬車に、乗せてほしい人がいる……のではなく!」
噛んだ。こいつ、この期に及んで噛んだ。
「――その馬車から、降ろしたい人がいる!」
車内の視線が、一斉に俺に集まった。鶏まで見た気がする。やめろ。見るな。
俺は窓から顔を出して、精一杯の仏頂面を作った。
「……業務妨害だぞ、騎士様よ。公共の馬車を停めていい権限は」
「ない! だから、これは騎士としてではなく、ジーク・アルステッド個人の、人生最大の頼みだ!」
ジークは馬車の窓の前まで歩いてきて、懐から、小さな包みを取り出した。血の染みが落ちきらなかった布の中から出てきたのは――薄橙の、硝子の髪飾りだった。
「返事が遅れた。五日と……いや、半年、遅れた。すまない。俺は言葉を選ぶのが下手で、六十年分の話に釣り合う言葉を探していたら、こんなに掛かった。だが、探すのはもうやめた。ありのままを言う」
息を吸って、あの馬鹿は、言った。
「あなたの六十年が、あなたを作った。俺が惚れた手際も、説教も、意地っ張りも、優しさも、全部その六十年で出来ている。ならば俺は――その六十年ごと、あなたが好きだ」
「…………っ」
六十年ごと、好きだ。あいつは、そう言った。前世も今世も、性別も年齢も、全部ひっくるめて。俺が一番恐れていた断り文句の、正反対の言葉を、往来の真ん中で、正装で、朝露に濡れた肩で、言い放った。
「前世が男だろうと、中身が年上だろうと、俺の答えは変わらない。俺はメリル・ハーティに、これからの人生を隣で診てもらいたい。傷薬も、説教も、あなたのじゃなきゃ、もう効かない」
「……あんた、な。往来で、何を」
「言い足りない。まだある」
「まだあるのかよ」
「あなたは自分を詐欺師だと言った。だが、考えてもみてくれ。俺が半年間受け取った傷薬に、偽物が一度でもあったか。蜂蜜の増量に、嘘があったか。手当ての手に、演技があったか。――ないんだ。あなたが何者であっても、あなたが俺にくれたものは、全部、本物だった。詐欺師は、本物を渡さない」
呼吸が、止まった。
そこを衝かれるとは、思っていなかった。六十年かけて積んだ理論武装の、一番深いところの支柱を、この朴念仁は、五日間でピンポイントに見つけてきた。詐欺師は本物を渡さない。……渡してきた。全部、渡してきた。蜂蜜も、湿布も、眠れる茶も、説教も。全部、本物だった。俺が「詐欺」と言い張っていたのは、自分への言い訳だった。
「だから、俺は待つ。あなたが受け取れる日まで。……これを、言いに来た」
行商人のおっさんが泣いていた。あんたが泣くな。鶏まで、ばさばさと羽を鳴らした。おまえは黙ってろ。
俺は、と言えば。頭の中が真っ白で、気の利いた返しの一つも出てこなくて、ただ、あの日のランタンみたいに、視界がゆらゆらと滲んで。
――そして俺は、逃げた。
「……ごめん」
自分でも信じられない声が出た。
「今は、まだ、受け取れない」
御者に「出してくれ」と言った。馬車が動き出した。ジークは追わなかった。ただ、窓越しに俺の目を見て、最後に言った。追わない。それが、あいつの、精一杯の優しさだった。追ってくれたら、俺は、止まらなかったかもしれない。
「待ってる。あなたが俺に言ってくれた言葉だ。――何年でも、待ってるから」
馬車は北へ。街はどんどん遠くなって、俺は膝の上で拳を握って、震えていた。涙か怒りか、自分でも分からなかった。欲しかった。あんなに欲しかったのに。指が、動かなかった。
向かいの行商人が、おずおずと声をかけてきた。
「……嬢ちゃん。年寄りの節介だがね。ああいうのは、な。一生に一度、あるかないかだよ」
「……知ってます」
「知ってて行くのかい」
「…………」
答えられなかった。窓の外、三本杉はもう見えない。正装の騎士も見えない。見えないのに、網膜に焼きついて剥がれない。朝露に濡れた肩。血の染みの残った包み。
なんで逃げた。なんで逃げたんだ、俺は。あんなに欲しかった言葉を、全部もらったのに。
もらったのに――受け取り方が、分からなかった。
両手はとっくに空けてあったのに。いざ差し出されたら、指が動かなかった。六十年、ものを受け取る練習だけ、してこなかったんだ。俺は。受け取る練習より、断る練習の方が、上手かった。営業二課の佐々木健一は、断り文句の達人だった。受け取り方だけ、一生、未習得だった。
「宿場だよー。北回りは半刻の休憩ー」
御者の声で、馬車が停まった。乗客がぞろぞろと降りていく。俺は座席に座ったまま、荷物の紐を、握ったり、緩めたりしていた。
荷物の一番底で、湯呑みが、鳴った気がした。あいつが使う、少し大きいやつ。逃げるときだけ、持っていく。矛盾の塊だ、俺は。