TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた   作:べ¥

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幸せ恐怖症

宿場の待合で、俺は半刻、荷物を抱えて座っていた。

 

北回りの馬車が去ったあと、待合所には、俺だけが残った。御者が「嬢ちゃん、大丈夫かい」と心配そうに見たが、俺は笑顔で「大丈夫、考え事」と答えた。営業スマイルは、逃げるときほど完璧に機能する。皮肉だ。あいつの言葉を、胸に抱えたまま、また逃げている。往来で『六十年ごと、好きだ』と言われた。全部、欲しかった。全部、怖かった。

 

(……おまえは、何が怖いんだ)

 

自分に問いかけた。答えは、すぐに出た。受け取ったら、返さなきゃならない。六十年分の本気を。返す言葉が、ない。……いや、違う。返す言葉は、あった。宿場で、馬車に乗らなかった瞬間、体が先に答えていた。戻る。あいつのところへ。言う。『俺も好きだ』と。口に出せなかっただけで、答えは、もう出ていた。

 

出発の鐘が鳴って、御者が「北回り、出るよー」と呼んで、乗客が乗り込んでいくのを、俺はベンチから眺めていた。立て。乗れ。佐々木、乗るんだ。王都行きだぞ。おまえが決めたことだろう。宮廷薬師の直弟子だ。給金つきだ。婆ちゃんへの恩返しだ。全部、正しい。全部、筋が通ってる。

 

体は、動かなかった。

 

(……また、同じだ)

 

前世も、今世も。正しい選択の前で、体だけが拒否する。健康診断の再検査を三年無視したときも、こうだった。頭では分かってる。行け。行った方がいい。体が、動かない。

 

代わりに、手が勝手に荷物を開けて、一番底から手拭いの包みを引っ張り出していた。三重にくるんだ、少し大きい湯呑み。割れてないか確かめるみたいに、包みを開いて。縁の欠けもない。あいつが毎晩、蜂蜜入りの茶を飲んでいた器だ。置いていくはずだった。置いていけない。――俺は、もう答えを知っていた。

 

……なんだよ、これ。

 

筋を通して街を出るくせに、湯呑みは持っていくのか。あいつの本気からは逃げるくせに、あいつが茶を飲む器は、手放せないのか。どっちつかずにも程があるだろう。詐欺師どころか、ただの卑怯者じゃねえか。……それでも、手放せなかった。手放せないものを、荷物の底に隠して、北へ行こうとしていた。逃げの形骸だけ、王都へ向かっていた。

 

「北回り、出るよー? 嬢ちゃん、乗らんのかい」

 

「……すみません。乗りません」

 

言葉が、体より先に答えていた。馬車が土埃を上げて遠ざかっていくのを見送って、俺は湯呑みを抱えたまま、来た道を歩き出した。半日歩いた。何も考えないように歩いたのに、足は最短距離で、あの街に向かっていた。北へ行くはずの足が、南へ曲がる。体の方が、正直だった。

 

途中、三本杉の下を通った。朝の出来事が、フラッシュバックした。正装の騎士。朝露。薄橙の髪飾り。

 

『その六十年ごと、あなたが好きだ』

 

俺は、その場で立ち止まって、深く息を吐いた。逃げた。あの言葉から逃げた。今、戻る。逃げた分だけ、戻る。営業用語で言えば、挽回訪問だ。

 

「――で、戻ってきたんかい」

 

その夜、灯火堂の勝手口。婆ちゃんは、まったく驚かなかった。湯呑みを見て、ふふ、と鼻で笑った。

 

「……次の宿場で降りた。馬車代、片道分丸損だ」

 

「ふぉっふぉ。安い授業料じゃ。王都行きの内定を、往来の騎士に、宿場の待合で、全部捨てとるんじゃからの」

 

俺は縁台に座り込んだ。ジークのところには行っていない。行けるわけがない。あれだけの言葉をもらって逃げた俺が、どの面下げて行くんだ。でも王都にも行けなかった。足が、勝手に戻ってきた。逃げの途中で、逃げ先を失った。情けない。六十年生きて、初めてこんなに情けない。

 

「……なあ、婆ちゃん。俺は、おかしいのかな」

 

ぽつりぽつりと、俺は話した。前世でも今世でも、誰かに大事にされそうになると、体が勝手に躱すこと。部下に感謝されると冗談で流したこと。健康診断の再検査を三年無視したこと。今日、人生で一番欲しい言葉をもらった瞬間、真っ先に湧いたのが喜びじゃなくて――恐怖だったこと。

 

「あいつが言ったんだ。六十年ごと、好きだって。……俺、嬉しかった。本当は。でも、その次の瞬間、胸が締め付けられた。受け取ったら、返さなきゃならない。六十年分の、本気を。俺に返す言葉なんか、ない。あるのは、逃げ足だけだ」

 

「返す言葉、ないのかい」

 

「……ない。四十二歳の男が、二十代の騎士に、何を返せる。中身はおっさんだ。詐欺師だ。そう言ったろ、あの夜」

 

「詐欺師が、人の傷に毎晩手を当てとるか。詐欺師が、蜂蜜を増量して、眠れる茶を淹れとるか。……メリルや。おまえは、自分を安く見積もりすぎとる。自分の値段だけ、間違え続けとる」

 

「受け取ったら、バチが当たる気がするんだ。俺なんかが幸せになったら、どっかで帳尻が合わなくなるっていうか。……笑えるだろ。中身は六十のおっさんが、今さら」

 

「笑わんよ」

 

婆ちゃんは、茶を注ぎ足した。湯呑みを、俺の膝に置いた。ジーク専用の、少し大きいやつ。店に戻してある。あいつが毎晩使っていたやつ。

 

「メリルや。おまえの前世の話、儂はあの夜、盗み聞きしとった。すまんの。……それでな、儂が一番悲しかったのはどこだと思う。過労で死んだくだりじゃない。『葬式も、その後も知らない』――そこじゃ」

 

「……?」

 

「おまえは、自分の人生の勘定を、締めずに来てしもうたんじゃ。誰に悼まれたかも、誰に愛されとったかも知らんまま。だから自分の値打ちが分からん。値打ちの分からんもんは、贈り物を受け取れん。『こんな高価なもの、俺なんかに』とな」

 

「……部下は、俺の葬式、来たのかな。来なかったのかな。知らないまま、二度目の生をもらった。それが、ずっと怖かった。貰いすぎた気がして。返せないものを、また貰ったら、今度こそ本当にバチが当たる」

 

図星すぎて、声も出なかった。

 

「じゃがな、考えてもみい。おまえの二度目の生は、誰かの施しか? 違うじゃろ。おまえが人の顔色を診て、人の尻を拭いて、倒れるまで働いた。その果てにあるのが二度目の生なら――こりゃ施しじゃのうて、未払いの給金じゃよ」

 

「未払いの、給金……」

 

「そうじゃ。一度目の生で、おまえは働きすぎて、報われずに終わった。誰かに大事にされる前に、倒れた。それは、おまえのせいだけじゃない。世界のせいでもある。……じゃが二度目は、違う。おまえは人を治し、人を見て、人の傷に手を当ててきた。それに見合う報酬を、受け取る番じゃ。幸せも、好かれることも、全部、未払い分の給金じゃ」

 

婆ちゃんは、皺だらけの手で、俺の頭をぽんぽんと撫でた。

 

「一度目の生で貰い損ねた分、二度目で受け取って何が悪い。バチなんぞ当たるもんかい。当てようとする神がおったら、儂が薬研で殴ったる」

 

「……はは。婆ちゃん、強え」

 

「当たり前じゃ。……それでもまだ怖いなら、こう考え。おまえが受け取らんと、今度はあの坊やが貰い損ねる側になる。おまえの得意分野じゃろ、若いもんに貰い損ねをさせんのは。あの子は、六十年分の返事を、叫んだんじゃ。おまえが逃げた分、あの子が待ってると言った。……今度は、おまえが突撃する番じゃ」

 

――ずるいなあ、その言い方は。

 

俺は縁台で、少し泣いた。六十年分にしては、短い泣き方だった。湯呑みを膝に置いて、あいつの茶を、もう一度淹れてみたいと思った。それから顔を洗って、決めた。

 

明日、行こう。今度は、俺が突撃する番だ。アポなしでも、資料なしでも、丸腰でも。六十年かかって、ようやく、自分から商談に行く。

 

その夜、俺は寝台で口上を練った。『俺も好きだ』。営業二課の佐々木健一が、五文字の商談で、こんなに震えるとは。……明日、言う。逃げない。受け取る。返す。それが、未払い給金の受領と返却だ。

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