TS元おじさん薬屋娘、常連の朴念仁騎士を後輩のつもりで餌付けしていたら、騎士団総出で外堀を埋められていた   作:べ¥

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今度はこっちが突撃する番

翌朝、開店前の灯火堂に、俺は一枚の張り紙をした。

 

『本日、私用により臨時休業。 ――大事な商談のため』

 

婆ちゃんは、張り紙を見て「ふぉっふぉ、商談か」とだけ言った。何も聞かない。聞かない婆さんが、一番応援してくれてる気がした。勝手口で、俺の背中を小さく押した。六十年生きて、初めて誰かに背中を押された。……いや、前世でも婆ちゃんは押してくれたか。記憶が、ごちゃごちゃだ。

 

騎士団の詰め所までは、歩いて二十分。アポなし、資料なし、手土産なし。こんな丸腰の商談は初めてだった。足が速くなる。遅くなる。また速くなる。心臓の音が、往来に漏れそうだった。

 

(……逃げるな。昨日逃げた。今日は、突撃だ)

 

詰め所の門番は、俺の顔を見るなり目を丸くして、それから何も聞かずに中へすっ飛んでいった。三十秒後、建物のあちこちの窓から騎士どもの顔が鈴なりに生えた。見世物じゃねえぞ。……いや、見世物でいい。昨日、あいつが往来で、行商人と鶏の前で俺に言った。今日は、俺の番だ。観客の数なら、こっちの勝ちだ。

 

ジークは、訓練場にいた。

 

木剣を下ろして、こっちを見て、固まっていた。昨日の朝の、あの顔だ。朝露に濡れた肩。血の染みの残った包み。全部、焼きついて離れない。あいつは、一日待ってくれた。何年でも待つ、と言ってくれた。俺は、一日も待てなかった。逃げて、宿場で降りて、半日歩いて、帰ってきた。今日、来た。突撃する番だ。

 

俺は真っ直ぐ歩いていって、三歩分の距離で止まった。深呼吸。よし。営業二課佐々木健一、出社。……違う。メリル・ハーティ、突撃開始。

 

「……メリル」

 

あいつが、名前を呼んだ。初めて、客として、後輩として、ではなく。ジーク・アルステッド個人が、俺の名前を呼んだ。その声だけで、胸の奥が、熱くなった。怖い。嬉しい。両方だ。

 

「……昨日は、悪かった。あんたの人生最大の覚悟を、正面から取り逃した」

 

「言い訳を先に言う。俺は幸せが怖いらしい。人からの本気を受け取ると、バチが当たる気がして逃げる。前世からの持病だ。多分、完治しないと思う。」

 

俺は、ジークの目を見た。あの日、手当てをした日から変わらない、馬鹿正直な目だ。昨日、あの目で『六十年ごと、好きだ』と言われた。受け取れなかった。今日、返す。

 

「……だが、うちの婆ちゃんが言うんだ。持病と付き合うのは薬師の得意分野だろって。……だからさ。発作が出るたび逃げようとする俺を、その、なんだ。あんたが捕まえててくれるなら。待っててくれるなら。俺も、逃げ続けるのは、もうやめる。昨日、逃げた。今日、戻った。明日、また怖くなったら――また、捕まえてくれ」

 

ああもう、まどろっこしい! 結論から言え、佐々木!

 

「――俺も、あんたが好きだ! 後輩としてじゃなく、客としてでもなく、ジーク・アルステッド個人が、だ! 六十年で初めての本気だ、受け取れ!」

 

言った。言いきった。喉が、熱い。前世で一度も言えなかった言葉を、今世で、初めて言えた。訓練場が、しん、と静まり返った。風すら、止まった気がした。窓から覗いていた騎士どもさえ、息を呑んでいた。

 

(……言えた。逃げなかった。六十年、かかった)

 

ジークは、木剣を取り落とした。騎士が得物を落とすところを、俺は初めて見た。それから、あの三ミリの笑い方じゃなく――俺が初めて見る、子供みたいな、不格好で全開の笑顔になった。

 

「……っ、はい!」

 

「はい、って。あんた敬語」

 

「い、いや、これは――受け取った、という意味で! 六十年分、受け取った! ……返事が、遅れた。申し訳ない。待たせた。昨日、あなたが逃げても、俺は、諦めなかった。諦め方を、知らんのだ。あなたのことに関しては、最初から」

 

「……待たせたのは、こっちだ。……ジーク。あんた、昨日、髪飾り、持ってたよな。俺、まだ、受け取ってない」

 

「……ああ。メリル、つけて、くれるか」

 

ジークは、懐から血の染みの残る布を取り出した。中から出てきた薄橙の硝子が、朝日に透けた。あいつが戦場まで持っていき、死にかけた夜も胸当ての内側にあった包みだ。渡すはずが、俺が偽装を畳んで、渡せなくなった。それでも、あいつは持ち続けていた。街道の朝も、俺が逃げた昨日も、ずっと懐に入れていた。……俺が逃げても、手放さなかった。

 

「あんたそういうとこだぞ、順序が……ああもう、いい、貸せ! 自分でつける!」

 

「駄目だ、俺がつけたい。……つけさせて、ほしい」

 

不器用な指が、俺の髪に薄橙の硝子を挿すのに、たっぷり三分かかった。指先が、少し震えていた。あいつも、怖かったんだ。完璧な言葉を探して、往来で叫んで、俺が逃げて、一日待って。あいつも、怖かったはずだ。その震えが、俺には、一番の返事だった。

 

「……似合う」

 

「自慢するな」

 

「似合う、と言っただけだ。事実の報告だ」

 

「報告書か、俺は」

 

その三分の間に、詰め所の窓という窓から拍手と口笛と「若様ァ!」の絶叫が降ってきて、団長の「本日の訓練は中止とする!」という職権乱用が響き渡った。ラルフが訓練場の端で、大の字になって転がっていた。第三小隊の連中が、勝手に祝杯の準備を始めている。……まあ、いいか。今日くらい、見世物になっても、文句は言えない。

 

騒ぎの中、ラルフが起き上がって、ふらふらとこっちに来た。目が赤い。おまえが泣くのか。

 

「……メリルちゃんさあ。店の張り紙、見たぜ。『大事な商談のため』って。……で、商談、どうだった」

 

「成約だ。六十年で、一番の大口だよ」

 

「……っ、ですよねえ!」

 

ラルフはまた大の字に戻っていった。あとで湿布をおまけしてやろう。あいつには、世話になった。この成約、三割くらいはあいつの営業成績だ。残りの七割は――まあ、当事者ふたりと、婆ちゃんと、団長と、第三小隊と、伯爵家で山分けだな。俺の取り分が、一番少ない気すらする。

 

かくして、偽装恋人は解消された。

 

――今度は、本物になったからだ。

 

帰り道、俺はあいつの隣を歩いた。湯呑みは、店に戻してある。あいつの専用のやつ。今夜、蜂蜜入りの茶を淹れる。六十年分の、未払い給金の、最初の一杯だ。

 

「……なあ、ジーク」

 

「なんだ」

 

「あんた、昨日『六十年ごと』って言ったよな」

 

「ああ。言った」

 

「……うん。覚えてる。今日、受け取った。返事、遅れた。……これから、よろしく」

 

「……こちらこそ」

 

あいつは、三ミリだけ笑った。それから、不格好に、俺の手を握り直した。偽装恋人の契約書に、こんな条文はなかった。本物の恋人に、必要な条文なんて、最初からない。

 

灯火堂の看板が、夕方の光に照らされていた。店は、今日は休業のままだ。婆ちゃんが、勝手口から顔を出して、ふたりを見た。何も言わず、首だけを縦に振った。それが、婆ちゃん流の、祝福だ。

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